「2度目の木曳式」は違う気持ちで 首里城と育った住民の思い

NHK
2022年11月29日 午後6:17 公開

那覇市首里地区。首里城があることで知られるこの地域で11月3日、琉球王国時代から続く伝統的な儀式が行われた。長さおよそ9メートルもの巨木を中心に当時の衣装に身を包んだ人たちが街中を練り歩く「木遣行列」だ。

木遣行列は、首里城の造営や修復などに使う木材を伐採地の国頭村から運ぶ「木曳式」のメインイベントにあたる。かつては船で運ばれたが、今回はトラックの荷台に積まれ、沖縄本島を陸路で約109キロ縦断し、この日、首里に到着した。

木遣行列は、首里城の修復などがない限り、行われることはない。前回行われたのは33年前の1989年。沖縄戦で焼失した首里城を再建した、いわゆる「平成の復元」の時にさかのぼる。

一連の行事を支えるのは地域の住民だ。今回、木遣行列の先頭で「火矢」を務める島袋元さんも、首里の出身。爆竹を鳴らしながら、行列を先導する役割を担う。

島袋さんは33年前の木遣行列にも参加しているので、今回が2度目となる。

当時、首里中学校の中学3年生だった島袋さんは、所属していた吹奏楽部の一員として木遣行列に加わった。バスクラリネットを演奏しながら首里城までの道を守礼門まで歩いたような記憶があると言うものの、はっきりとは覚えていない。当時は、首里城に特別な思い入れがあったわけでもなく、それほど訪れることもなかったという。

「あんまり深く木曳式というのを意識はしていなかったように思いますし、部活の行事のひとつぐらいで、今となれば貴重な経験をしたなと思ってますけれども」(島袋元さん)

島袋さんにとって、首里城はいつもそこにある身近な存在だった。高校に進学すると、首里城公園は毎日の通学ルートになった。社会人になってからは、小説を読んでその歴史にはまり、年間パスを買ったこともあった。しかしその熱も冷めると、行く機会が減っていった。

首里城との距離が縮まったり、離れたりを繰り返す中、3年前、大規模な火災が起きる。その夜のことを島袋さんはこう振り返る。

「夜は寝てたのでわからないですけど、明け方、電話が鳴ったりLINEが来たり鳴り続けて何事かなと思ったら首里城が燃えてる。テレビつけてニュース見て。その後、近くを通ったときに偶然あそこを見たら本当になくなってる。ショックだったですね。なくなって何がショックなのかってのは説明しづらいんですけれども、寂しいなって思って」

淡々とした口調で語る島袋さんだが、火災の発生翌日からあることを続けるようになった。スマートフォンのスケジュール表の10月31日の欄に「首里城火災」と記し、毎年、心にとどめているのだ。今回の木曳式には33年前とは違った思いで臨んだ。

「気持ちの変化はあります。シンボル的な建物だと、みんなが大事にしていかんといかんものだと今は思うので。歩きながら感じたことはひとつちょっと覚えておこうって思ってますね」

木遣行列当日。先頭に立った島袋さんは伝統衣装に身を包み、厳かな表情だ。両手で持つ筒状の器具に火が付けられた。爆竹の乾いた破裂音が行列の存在を町中に伝える。

沿道には島袋さんの息子の栄翔さんも駆けつけ、行列を先導する父親の姿を見守った。栄翔さんは、物心ついたときから首里城がそこにあった世代だ。

「もうちょっと後ろだと思ってた。結構目立っている。真剣な顔してましたね。かっこよかったです」(栄翔さん)

大勢の見物客のなかを行列はゆっくりと1歩ずつ進んでいく。約500メートルの道のりを進んだのち、木材は無事に守礼門に達した。

大役を終えた島袋さんは栄翔さんの隣でどこかほっとした表情だ。

「再建されるその第一歩。ありがたい経験をさせてもらったなと思います。しっかり作ってほしいですね。燃えないように。一緒に歩いた先輩方からもいろんな話を聞くことできたし、こういうことを僕らが今度は次の世代に機会があれば話していく必要があるのかなと」

いつか栄翔さんもその息子の世代に、この日見た父親の姿を語る日がくるのかもしれない。こうして首里城を見上げる人々の思いは世代を超えて引き継がれていくのだろう。

記者 阿部良二

2009年入局 北海道や名古屋などの放送局を経て沖縄局に赴任

県政や自衛隊などを取材