父親がつないだ大綱挽~88歳の息子の願い~

NHK
2022年11月28日 午後2:22 公開

最後の舞台に

ことし(2022年)10月、秋晴れの空のもと3年ぶりに開催された那覇大綱挽に、特別な思いを持って臨んだ88歳の男性がいます。戦後、この綱挽が復活した半世紀前から欠かさず舞台に立ち続けてきましたが、体力の限界から今回を最後に引退を決意しました。

「おやじもよく頑張ったと言ってくれると思う」

そう言い残し、沖縄の伝統的な衣装を身にまとった男性は、静かに会場へと歩き出しました。

大綱挽の始まりの合図“鉦子打込”

琉球王国時代に始まったとされる沖縄最大の伝統行事、那覇大綱挽は、戦争の影響などで昭和10年を最後に一時、途絶えました。そして、沖縄が本土に復帰する1年前の昭和46年、那覇の街が空襲で壊滅的な被害を受けた10月10日に平和への願いを込めて36年ぶりに再開されました。

それからおよそ50年間、舞台に立ち続けてきた米須朝榮さん(88歳)。

鉦子(しょーぐ)と呼ばれる鐘のような打楽器を担当し、長年、綱挽の始まりの合図を出す“鉦子打込 (しょーぐうちこみ)”という重要な役割を担ってきました。米須さんが参加することになった背景には、父親の存在があったといいます。

大綱挽に参加していた父親

米須さんが自宅に保管している1枚の白黒写真。

大綱挽の参加者たちが着る黒装束、「むむぬちはんたー」姿の父親の亀さん、右手で抱きかかえられているのが1歳の米須さんです。昭和10年、戦前最後に行われた那覇大綱挽の時に撮影されたものです。

「初めてこの写真を見ておやじも大綱挽の旗頭を持っていたことが分かりました。懐かしく思い、自分も大綱挽をやろうと思ったわけです。私がやることでおやじも喜んでいるだろうと思います」

写真を見てその顔をはっきりと思い出せたという米須さん。しかし、大好きだった父親は10歳の時、沖縄戦の犠牲となりました。

那覇の街が焦土に「10・10空襲」

戦前、米須さんは那覇の自宅で家族10人で暮らしていました。沖縄本島にアメリカ軍が上陸する前年の昭和19年、空襲によって那覇の市街地の9割が焼失。いわゆる「10・10空襲」と呼ばれるものです。父親とともに高台から目にした光景は忘れられないといいます。

「火の海ですよ、全部真っ赤に燃えて、夜だったからね。あの火は今も頭に残っています。那覇の焼ける様子を見て、戦争は本当に怖いと思いました。おやじの手につかまりましたね」

艦砲射撃がひどくなる中、米須さんは家族とともに那覇から本島北部に逃げて助かります。しかし、父親は防衛隊に召集されました。

「お父さんも行こうよ」

「行けない」

疎開する際に交わした会話が最後になりました。知り合いの証言から父親は激戦地となった糸満市摩文仁の周辺で亡くなったとみられていますが、遺骨は見つかっていません。戦争によって、自宅は焼失し、家族写真など思い出の品も失われました。

ことしを最後に引退を決断

昭和46年、大綱挽が復活したこの年、米須さんは那覇市役所で働きながら趣味でバンドをしていました。すると周囲から、「綱挽が復活するんだが、打楽器の楽譜を読める人がいない。君がやってくれないか」と声を掛けられました。

親戚から送られてきた写真を見て父親の大綱挽との関わりを知っていた米須さんは「おやじと一緒にやりたい」と、参加を決断したといいます。米須さんは、“鉦子打込”に加えて、那覇市の城岳小学校の子どもたちとともに綱挽の直前に行われるパレード・「旗頭行列」の先頭も任されることになりました。それ以来、本番が近づくと学校を訪れ、こどもたちに鉦子のたたき方を教えてきました。

しかし、ことしで88歳となった米須さんは、体力の限界を感じ、今回を最後に引退することを決めました。

「綱挽に対する気持ちがあるから、また来たか、やろうかという感じで、そう思っているうちに50年になってしまった。思い残すことはないけど、寂しくなるだろうね。一生懸命子どもたちと騒いできたからね」

そして、本番当日

大綱挽本番の10月9日。舞台に立つ、最後の日です。「これまでやってきた綱挽が走馬灯のように駆け巡り眠れなかった」という米須さん。

沖縄の伝統的な衣装に着替えると、ほおをたたき、いつもは穏やかなその表情が一気に引き締まったように見えました。出発を前に子どもたちの前で、次のようにあいさつしました。

「私は50年前からずっと関わっておりますけど、那覇大綱挽を成功させるようにお願いしたいと思います。私も頑張ります、よろしくお願い致します」

その後、子どもたちとともに、国際通りなどおよそ3キロを練り歩きました。感染対策で参加者を例年の5分の1程度にするなど規模は縮小されましたが、3年ぶりの開催ということもあって、会場にはたくさんの人が詰めかけました。

ところが、東西あわせて160メートル、およそ20トンの綱を1本につなぎ合わせようと移動させていたところ、西の綱が途中で切れてしまうアクシデントが起きました。

このまま綱を引くとけが人が出る恐れがあり危険だと判断され、綱引きは行われず、東西引き分けとなりました。

平和への願いとともに

綱挽開始の合図を出すことが出来なかった米須さんですが、最後に次の大綱挽の成功を願って、仲間たちとともに鉦子を打ち鳴らしました。

「おやじもここまでよく頑張ったと言ってくれていると思います。たくさんの人が集まる大綱挽は平和の象徴ですから、永遠に続いてほしいです」

取材後記

幼い頃から慣れ親しんできた那覇大綱挽ですが、沖縄戦からの復興や平和への願いを込めて再開されたことを知りませんでした。沖縄戦の体験者が少なくなる中、戦争を生き延びた先輩たちが大切にしてきた“平和への思い”を、これからもさまざまな形で取材していきたいです。

記者 安座間マナ

2019年入局 沖縄戦や基地問題、保育現場などの取材を続ける。