1972年、沖縄の本土復帰に伴い、沖縄には自衛隊が配備された。復帰後もアメリカ軍は沖縄に駐留を続けたが、多くの任務が自衛隊に引き継がれた。そのひとつが、離島からの救急患者の空輸だ。
急患空輸の現場は
急患空輸は夜間や悪天候などでドクターヘリの飛行が難しい場合に、県の災害派遣要請を受けて行われている。沖縄県内だけでなく鹿児島県の奄美大島以南の広い範囲をカバー。沖縄の陸上自衛隊は本土復帰以降の50年にわたり、この任務を24時間態勢で担ってきた。
「レスキュー仮通報。レスキュー仮通報。渡名喜ヘリポートから那覇。渡名喜ヘリポートから那覇」
CH47ヘリコプターが駐機する格納庫に、警告音とアナウンスが響き渡った。隊員たちが一斉に動き出す。整備士が機体の最終点検にあたり、15分後にはヘリコプターの準備が完了。しばらくして病院で待機していた医師が到着し、迷彩が施された大きな機体はゆっくりと機体を持ち上げ、夜の空へと飛び立っていった。
「あすでは間に合わないかもしれません」
救われた命は数知れない。石垣島に住む櫻島薫さんは妊娠中だった8年前の5月の夜、体調の不調を訴え、医師にかかった。出産予定日は8月だったが、危険な状態だと診断され沖縄本島の病院にかかることになった。
「主治医の先生に見て頂いて、民間機で行きましょうということになり、私はもう入院してたので、夫がチケットを手配してるところだったんです。その間にどんどん症状が悪化していったようで、『あすでは間に合わないかもしれません。自衛隊のヘリコプターのほうを、要請します』っていうことで手続きを進めてもらってたんですけども、また症状が急激に悪化してしまったみたいで、結局、飛行小型機を手配していただいたんです」
搬送中のことも覚えている。
「自分のことなんですけど、どこかテレビでドラマを見てるみたいに大人の方たちがテキパキカッコよくやってくれてたのをすごく覚えていて。『安全に迅速に運ぶので安心してください』っていうようなことはずっと言っていただいていて、『体調大丈夫ですか』とか『何か苦しいとこないですか』みたいな、声かけもしていただきました」
櫻島さんは夜明け前に石垣から那覇に搬送され、緊急の帝王切開手術を受けた。息子の航梛(こうな)くんが取り出されたときの体重は、わずか500グラム。あと数時間遅れれば母子ともに危険な状態だったという。航梛くんはいま8歳で、すくすく育っている。
沖縄と自衛隊の複雑な関係
離島県である沖縄にとって欠かせない、文字どおりライフラインとなっている陸上自衛隊の急患空輸。しかし急患空輸が始まった昭和47年当時、その活動を歓迎する声は必ずしも大きくなかった。沖縄と自衛隊の関係は、ほかの都道府県のそれとは異なり、複雑だ。
本土復帰でアメリカ軍基地の撤去を求めていた県民にとって、自衛隊の配備は基地の存在が続くこととも受け止められた。自衛隊の配備が新たな戦争につながり、再び沖縄が戦場になってしまうのではないかという不安も根強い。何より、国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が行われた沖縄では、自衛隊は旧日本軍とつながっているものと見られた。
熊本県益城町に住む植山洋一さんは、復帰に伴って熊本から那覇に配属され、急患空輸を担当した陸自隊員のひとりだ。植山さんは当時の雰囲気を鮮明に覚えている。
「沖縄は当時、知事も反対派だったんですね。当時、若夏国体もあったんだけど、やっぱ り自衛隊の選手は除外しようという感じでした。豊見城の(自衛隊員が暮らす)アパー トの周辺には(自衛隊への抗議の)デモがきて、夫が自衛隊に出勤して奥さんや家族だ け残っているところに『自衛隊帰れ』というシュプレヒコールがあったんですよね」
極秘の部隊配置と試行錯誤の夜間飛行
こうした自衛隊への反対運動は沖縄だけでなく、熊本でも行われていた。抗議活動を避けるため、植山さんの所属部隊の沖縄への配備は極秘に行われ、植山さん自身もその日の朝まで那覇へ向かう日づけを知らされなかったと話す。
「もうだいたいこの時期には行くよということだったんです。しかしはっきりと何月何日 ということは示されない。その日、朝5時ごろに非常呼集がかかりました。出動するとヘリは既に、いつ出てもいいように準備オーケーという状況だったですね。飛行機の点検をやって、そして7時にここを編隊で一気に離陸していった」
夜間や悪天候の中などの飛行は危険と隣り合わせだ。当時はヘリパッドのない離島も多い時代。アメリカ軍からの詳しい引き継ぎもないなか、植山さんたちは自分たちで着陸場所の目星をつけなければならなかった。当然、十分な設備もなく、離島の住民にドラム缶で火をたいてもらい、それを頼りに着陸するなど試行錯誤の日々だったという。
自衛隊にとって、急患空輸は不発弾処理と並んで沖縄の人々の理解や信頼を得るための重要な任務でもあった。
「配属の際、患者空輸が主たる任務だということを言われました。とりあえずそれをしっ かりやれれば、沖縄の人たちも我々を、何というか信頼してくれるだろうと、いうこと だったんですね。その任務をいかにしっかり遂行するかっていうのはいちばんの課題だったと思うんですよね。沖縄についてからもその体制をとるためにみんなでいろんな意見を出し合って、階級の上下なく、みんなでやっぱりつくり上げていったように思っています」
急患空輸の50年の歴史では、殉職者もでている。平成2年には宮古島沖で小型機が墜落し医師と隊員あわせて4人が死亡。平成19年には鹿児島県徳之島にヘリコプターが墜落し、隊員4人が命を落とした。今でも沖縄の陸自はそれぞれの事故の月命日に黙とうを行っている。
変化の時代に自衛隊は
今月、急患空輸の出動回数は1万回に達した。第15ヘリコプター隊の後村幸治隊長は、その記録は本来、達成して喜ばしいものではないと話す。
「いずれこの空輸がなくなるというのが本来の望ましい姿なので、そのために医療体制がよくなったり、患者さんがすぐなおるような薬が開発されたり、そういうことが沖縄県のみなさんにとってもいい環境だろうなと認識しています」
この50年で沖縄では自衛隊に対する理解が広がった。一方、「県民のために」という姿勢を改めて強調することばからは、いまも続く複雑な関係への緊張感もにじむ。
沖縄の自衛隊はいま、新たな変化の時代を迎えている。中国の海洋進出などを背景に、自衛隊は先島諸島に部隊を相次いで配置。米軍との一体化も進められている。
沖縄と自衛隊の関係はこれからどのように変わっていくのだろうか。
記者 阿部良二
2009年入局。北海道や名古屋の放送局を経て、おととし沖縄局に赴任。県政担当を経て、去年から遊軍として、経済や自衛隊などを取材。