5年に1度の「里帰り」
ことし本土復帰50年を迎えた沖縄。5月15日の「本土復帰50周年記念式典」に加え、もうひとつ、重要なイベントが10月31日から11月3日にかけて開催された。
「世界のウチナーンチュ大会」だ。
全国的にはあまり知られていないため県外の人にはピンとこないかもしれないが、世界各国に住む「ウチナーンチュ(=沖縄の人)」が約5年に1度、一斉に沖縄に“里帰り”するという壮大なスケールのイベントだ。
こうしたイベントが開かれる背景には、盛んだった沖縄の移民政策がある。戦前戦後の貧しい暮らしの中で、出稼ぎなどで多くの人が南米やハワイに渡った。激動の時代、移民たちの送金が沖縄の人々の暮らしを支えた側面もある。
世界に広がったウチナーンチュのネットワークは移民二世、三世、そして四世へと受け継がれ、いまも発展を続けている。今やその数は42万人にも上るという。こうした移民たちやその子孫が、ふるさと沖縄に帰ってくるのだ。
しかし戦争やアメリカの占領・統治時代を経て、沖縄の親族と連絡が取れなくなってしまった子孫も少なくない。「沖縄の家族は、いまどうしているのか」。わずかな望みをかけて親族を探しに沖縄を訪ねる参加者もいる。
“今回のウチナーンチュ大会の参加者で、事前に沖縄の親族の居場所を突き止めた県系4世のアメリカの大学生がいる”
そう聞いたのは大会1か月前。
親族を見つけ出して面会が実現するというのはどれほど珍しいことなのか。後述するが、県はこうして親族を探す人たちの依頼を受け「ルーツ調査」を行っている。聞いてみると、親族との面会が実現するケースは希望者のおよそ1%ほどだという。
その大学生は、これまで沖縄に来たことすらないらしい。県系4世ともなると、むしろ現地の文化の影響を受けて育ち、沖縄とのつながりが希薄な人も少なくない。なぜその大学生は親族を探そうと思ったのか、旅を通して何を感じるのか。その姿を追うことに決めた。
沖縄に魅せられて
大学生の名は、ザッカリー・エドワーズさん。カリフォルニア州生まれの大学3年生だ。来日前にオンラインで話を聞いた。
エドワーズさんの母方の曾祖父、仲松庸信さんはおよそ100年前にハワイに渡った。エドワーズさんが生まれる前に亡くなっている。
母方の祖母が横浜出身のため、エドワーズさんは日本語や本土の文化には親しんでいるが、沖縄のことばや風習に触れる機会はなかったそうだ。
(左がエドワーズさん)
エドワーズさんは大人になるにつれ、自らのアイデンティティーについて考えるようになっていった。大学では東アジア研究を専攻し、沖縄文学を扱う講義も受けた。しだいに、沖縄への興味が膨らんでいった。
そんなある日、エドワーズさんは沖縄県が移民のルーツ調査を引き受けていることを知る。
メールに記された自らのルーツ
エドワーズさんは曾祖父の氏名などわずかな情報を頼りに、沖縄県に調査を依頼した。
ほどなくして返ってきたメールには、これまでエドワーズさんが知らなかった自らのルーツに関する情報が記されていた。
詳細な家系図。曾祖父や曾祖母の顔写真。ハワイのロタ島で養豚を営んでいたという記録。そして今も沖縄に住む親族の情報だった。
家系図には、曾祖父の「仲松庸信」と同じように「庸(よう)」とつく名前が連なっていた。メールを閉じ、ふと顔を上げると、キャンパスに置かれた「YO」の文字の巨大なオブジェが目に入った。運命を感じたエドワーズさんは、沖縄行きを決めた。
調査担当者「やったー!」
エドワーズさんがカリフォルニア州でこのメールを受け取ったころ、遠く離れた沖縄ではエドワーズさんを喜ばせたいと願っていた人がいた。県立図書館資料班の與那原千晴さんだ。
與那原さんは、エドワーズさんから受け取った曾祖父の情報から、まず渡航記録をあたった。たしかに「仲松庸信」はおよそ100年前、ハワイに渡っていた。
渡航記録には当時の住所も記されている。住んでいたのは今の与那原町だ。町やハワイの沖縄県人会がまとめた資料をたどることで、エドワーズさんに提供したような詳細な情報が次々と出てきたのだ。
図書館に残されている最も古い住宅地図(1976年版)から最新のものまで順を追って見ていくと、仲松姓の人がこの地域に住み続けていた。確認すると、たしかに「仲松庸信」のおいの一家であることが分かった。
県立図書館 與那原千晴さん「やったー!と思いました。このような形で見つかるのはまれで、記録に残っていない方たちも大勢いるので、資料がうまくつながったときは非常にうれしかったです」
今回、一家からはエドワーズさんに連絡先を教えることについても承諾が得られたが、断られるケースもあるという。
「せっかく見つけても会ってもらえないケースもあります。非常に残念だなと思うと同時に、もっと沖縄県民に移民の歴史についても学んでいただけたらと思います。彼らがなぜ船でしか行けなかった時代に海外に行って働かなければならなかったのか、そういったものを学んでいれば・・・すみません、涙が出てきちゃった・・・彼らを迎える気持ちが強くなるんじゃないかなと」
海を隔てた2つの家族
担当者の調査にかける思い、残されていた資料の数々、親族たちの歓迎。いくつもの奇跡が重なって、ついに離れていた2つの家族がつながる日がやってきた。
世界のウチナーンチュ大会に合わせて、エドワーズさんは母と沖縄を訪れた。曾祖父・仲松庸信さんのおいの息子の妻にあたる仲松ナエさん(75)らが空港で迎えた。
空港で仲松さんはこう声をかけた。
「探してくれてありがとう」
エドワーズさんたちは早速、曾祖父の出身地で、いまも仲松家が暮らす与那原へと向かった。
すでに暗くなっていたが、初めて訪れた沖縄の風景にエドワーズさんの感慨もひとしおだ。
「ヤシの木がいっぱいあって、私の生まれたカリフォルニアのサンディエゴにも似ているし、曾祖父が渡ったハワイにも似ているので、不思議な感じです」
仲松家に到着したエドワーズさんたちに差し出されたのは家族の古いアルバム。めくっていくうちに、思いがけないことが起きた。
エドワーズさん「この写真私たちも持ってます」
ナエさんの孫「同じ写真持ってるってよ!」
エドワーズさんの母のもとにハワイに住む従兄弟から送られてきたという家族写真。仲松家にも同じものが残されていたのだ。
それだけではなかった。
ナエさん「これ、私も写ってるよ!」
エドワーズさんが持っていた別の写真には、若かりしナエさんの姿が写っていたのだ。
一度も会ったことがないばかりか、互いに存在すら認識していなかった2つの家族は、写真でつながっていた。
離ればなれになった家族の歴史
今回のルーツ調査を通じて、エドワーズさんたちが知った事実がある。
1906年、戦前にハワイに渡ったエドワーズさんの曽祖父は79才まで生き、1967年に亡くなっている。一方、沖縄に残った兄やその息子は、1945年の沖縄戦で命を落としていたのだ。
エドワーズさん「移民で、戦争で、困難な時代で、一度途切れてしまった絆が、こうしてまたつながったことがとてもうれしいです」
移民によって離ればなれになった家族がそれぞれ生きてきた歴史に思いをはせると、この夜、この空間でともにしている時間はまさに奇跡だった。
今回の旅のためにウチナーグチ(沖縄のことば)の教科書を買ったというエドワーズさん。その中から好きなウチナーグチを教えてくれた。
「とぅぬくとぅやどぅーぬくとぅ。ほかの人のことを自分のこととして考えるという意味なんですけど。沖縄とは距離は離れているけど、アメリカに戻ってからも、沖縄のことや沖縄の家族のことを自分のこととして、いつも忘れずに思っていたいです」
記者 小手森千紗
2017年入局。岐阜放送局や高山支局を経て2020年9月から沖縄放送局。経済やアメリカ軍の取材を主に担当している。