那覇大綱挽と国道58号線の中央分離帯の謎に迫る

NHK
2022年10月7日 午後7:34 公開

10月9日、コロナの影響で中止されていた那覇大綱挽が3年ぶりに開かれます。この大綱挽の日のために、国道58号の中央分離帯は取り外し可能になっているって知っていましたか?分離帯を外せるようになった経緯を調べてみました。

10月4日に那覇軍港でお披露目された今年の大綱

那覇大綱挽 3年ぶりの開催

ことしの大綱挽は感染対策で、綱をひく人の数を例年の5分の1に減らす計画です。このため綱の大きさはいつもより小さいですが、それでも長さ160メートル、重さ24トンあります。

この大綱をひく会場は、那覇市のど真ん中を走る国道58号の久茂地交差点。当日は、会場近くが全面通行止めになるだけでなく、巨大な綱を置くために、中央分離帯が取り外されます。この「可動式中央分離帯」、実は全国ではかなり珍しいとのこと。

国道58号の久茂地交差点

でも車がぶつかっても動かず、かつ必要な時は取り外せる分離帯を設置するのは大変だったに違いありません。なぜできたのか。当時を知る関係者を探してみることにしました。

沖縄発展のために行われた道路整備

1971年の那覇大綱挽

戦後、那覇大綱挽が復活したのは沖縄の本土復帰を翌年に控えた1971年。市制50年の記念事業でした。会場は当時の軍道1号線、のちの国道58号です。主催者は平和の願いを込めた綱ひきを、アメリカ軍がつくった道路で行うことに決めたのです。ところが復帰に伴い、ある問題が持ち上がりました。

それが中央分離帯の問題です。軍道1号線には中央分離帯が設けられていませんでした。その軍道が複数車線の国道に変わるのに当たって、中央分離帯が整備されることになったのです。

話を聞くことができたのは、当時、国道事務所につとめていた上江洲朝一さん(81歳)です。復帰から3年後に海洋博覧会を控え、沖縄の南北をつなぐ国道58号の整備は一大事業だったと教えてくれました。

上江洲朝一さん「アメリカ軍は58号も、僕らちょっと聞いてる話じゃ、有事のときには滑走路にするっていうことで、それで(中央分離帯や歩道を)つくらなかった。アメリカ軍が中心だからトラック、戦車が通れればいい。それじゃあ、道路の整備をする僕らとしては、もう、これは考えんといかんと。沖縄の復帰と同時に、沖縄の経済発展のために、自動車交通が主だから、どうしても道路整備する必要あると」

中央分離帯に「待った」

ところが、整備を進める過程で、大綱挽の関係者から国道事務所に要望が届きます。

「58号で那覇大綱挽を実施したい。中央分離帯を外せるようにしてほしい」

那覇大綱挽は、1973年まで国道58号で行われましたが、その後、国際通り、奥武山公園、沖映通り(ダイナハ・現ジュンク堂前)と開催場所を転々としていました。当時の那覇市の関係者によると、観客が増え、綱も大きくなる中で、大勢の人が集まれる場所は国道58号しかなかったということでした。

上江洲朝一さん「道路の規格を守ってやるという立場ではあれだけの交通量、いちばん沖縄で交通量の多い道路だから、分離帯も何もないっていうのはありえないと。那覇市と数回にわたって、やりとりしたんじゃないかと思う」

当初は難色を示した国道事務所でしたが、数年にわたる熱烈な要望を受けて最終的に応じることになりました。そこで浮上したのは、分離帯をブロックを並べてつくる案でした。ただ、大型トラックがぶつかっても動かず、かつ、必要な時には動かせるブロックをどうつくるのか。

そこでヒントを得たのは、港で積み荷の運搬に使われるフォークリフトでした。

上江洲朝一さん「(ブロックに)手でつかむところ、ないでしょ。上に鉄筋やるかっていったら、変だよね。これにまた車がひっかかったら大変。ああ、それだったらフォークが入るな、と。港湾の荷物をあげるあれをヒントにやったのはすばらしいと思う」

172個のブロック

そして1980年、現在の久茂地交差点の中央分離帯が完成します。長さ1メートル、重さ630キロのブロックを172個並べ、ブロックにはフォークが入るように穴を2つあけました。

那覇大綱挽の前夜にこの穴を使って、フォークリフトで持ち上げて取り外します。

取り外しを担当する会社によると、今はフォークを使わずに、ベルトを通して、持ち上げているとのこと。真夜中の作業で誤ってフォークを穴周辺にぶつけ、コンクリートを壊さないようにするためだそうです。

上江洲さんは地域の強い思いこそが国道事務所を動かしたと語ります。

上江洲朝一さん「県、国、市町村、あるいは地域の人が一緒になって、みんなでやってくというのが、僕はすばらしいことだったんじゃないかなと思う。お祭りそのものもみんな喜ぶかもしれないけど、そのとっかかりをつくった。できるだけいい状態で綱引きをする。そこにちょっと貢献しているかな」

那覇市の幹線道路に、広い場所が確保できる背景には当時の人々の熱意と工夫が詰まっていました。ブロックを取り外す作業は、ことしも当日の未明にかけて行われます。

解消されなかった疑問

取材を進めるなかで、今も疑問が1つ、残っています。中央分離帯は1980年に完成しましたが、那覇大綱挽の保存会の記録を見ると、1978年と1979年も国道58号で那覇大綱挽が開催されています。上江洲さんは、久茂地交差点には何らかの中央分離帯があったと思うと振り返りますが、そうすると、どうやって綱を置いたのだろう?と疑問が湧きました。

このことについて1980年から分離帯を取り外す担当をしている那覇大綱挽のメンバーにも話を聞きましたが、覚えていないということでした。南部国道事務所にも問い合わせましたが、整備の過程も含め、当時の記録はないとのこと。

後日、上江洲さんに電話して聞いたら、明るい声で笑いながらこんな答えが返ってきました。

「当時のことを知る人は亡くなってしまってね。10年早く取材したら、まだ関係者が生きていたのに。グソー(あの世)に電話して聞いてみたらいいさー」

いやいや、上江洲さんの貴重なお話を今回記録することができただけで、私はうれしいです。残念ながらグソーに電話はできませんが、復帰当時のことは、機会があるうちに、しっかり記録に残さなければと強く感じました。

記者 高田和加子

2008年入局。岡山、広島、国際部、台北支局を経て、2021年秋から沖縄局で県政担当として玉城デニー県政を追う毎日。ウルクンチュ。