戦争から77年 花巻に残る戦争遺構と空襲を伝える取り組み

NHK
2022年8月10日 午後10:19 公開

市街地に残る”戦争遺構”

花巻市若葉町。市の中心部に広がる住宅街。その日、夏休みの子どもたちが、地元に残されている「戦争遺跡」を見学に訪れた。見学には、戦争遺跡の保存活動を行っている地元の人たちも同行した。

地板区外の一角にポツンと建つ、円筒形で古びたレンガ作りの不思議な建造物。直径およそ3メートル50センチ、高さは3メートルほど。内部は空洞になっている。子どもたちも存在は何となく知っていたようだが、じっくりと見た事はなかったという。

「何か、井戸とか、そんな感じ?」

「広い敷地なのに、これがあるって何かちょっと、違和感ある」。

間近に見た子どもたちの感想だ。

「これは聴音壕といいます。戦争中に、敵の飛行機の音を聞いて軍や警察に知らせるための施設です」

説明するのは、聴音壕の保存会の顧問をつとめる加藤昭雄さん。約20年前から聴音壕を保存する活動を続けている。

この聴音壕なる施設は現在、国内に12か所ほどしか見つかってない。東北・北海道で残っているのは、この花巻市だけだという。

「耳」で敵機を察知せよ

花巻市の聴音壕は、太平洋戦争さなかの昭和18年ごろに建設されたという。

本土を襲ってくる米軍機の音をいち早く察知しようと、筒状の施設の中に入って耳を澄ませ、敵機の数や種類・方角を聞き取り軍や警察に連絡するための施設だった。加藤さんによれば、当時この任務にあたったのは、16歳から19歳くらいの徴兵前の少年たちだったという。

どうやって音だけで飛行機の種類を覚えたのか?普通ならそう考えるだろう。その答えは「敵機爆音集」と題されたレコードにある。

レコードには米軍の戦闘機や爆撃機の飛行音が収録されていて、当時の高等小学校(現在の中学1年生~2年生に該当)の音楽の授業で、このレコードを聴かせて音を覚えさせ、優秀な成績を収めた生徒を選抜して聴音壕で任務にあたらせたという。

当時、旧日本軍がレーダーの開発で後れを取っていた事は知っていたものの、索敵を人間の聴力頼りで行うとは思いも付かなかった。

加藤さんは当時の事情を踏まえた上で、こう指摘した。

「今から思えば非常に無謀というか、作戦としても幼稚なわけですよ。アメリカの方は          レーダーも持っているしカメラも持っている。でも、勝つことを信じてやっているわけですし。特に10代の若者達ですから、生まれた時から戦争をやっているわけですから、本当に必死になって聴音に従事したと思います」

当時は、どんな風に音が聞こえたのか?

聴音壕で実際に勤務した経験を持つ人に何とか取材できないかと考えた。しかし、終戦から77年という時間の壁は、そう簡単に乗り越えることは出来なかった。当時16歳と仮定して昭和20年に勤務していた場合でも現在は93歳。保存会の会長などに又聞きでもいいから当時勤務した人の話を知らないかと尋ねたが、今回は見つけることが出来なかった。

発見された「花巻空襲」の写真

聴音壕の保存会のほかにも、戦争の記憶を引き継ぐ作業を続けている人たちがいる。

花巻は終戦直前の昭和20年8月10日に米軍の空襲を受けた。いわゆる「花巻空襲」だ。県内では2番目に被害の大きい空襲で、42人が亡くなった事が確認されている。市内には、今も空襲の痕跡が残っている。

昭和9年に完成した「花川橋」。コンクリート製の手すり部分の一部が崩れ、内部の鉄筋がむき出しになってる。

「機銃掃射か500ポンド爆弾か、ロケット砲も使われているので、それら3種類のうち   のどれかの攻撃の跡ですね」

こう話すのは、花巻市役所に勤務している布臺一郎さん。同僚の市川清志さんと一緒に8年前、それまで未発見だった花巻空種の写真を発見した。

2人が発見したのが、この写真。

空襲当時に米軍が撮影したもので、それまでは一関を空襲した写真としてアメリカの国立公文書館に保存されていた。写真の説明を読むと、当初は山形県の尾花沢と記入されていたのが訂正されて、一関とされていた。

この写真を見た2人が、街中を流れる川の様子や軽便鉄道の線路、そして宮沢賢治が詩集の中で名付けた「花巻大三叉路」などの特徴に気づき、昭和23年に撮影された花巻の航空写真と照合したところ、一関ではなく花巻の写真であることが特定できたという。

写真が花巻だと特定出来た時を振り返り、市川さんはこう話す。

「煙が立ち上り、町家が火事になっている状況。昭和20年の8月10日に、この写真の下では、みんな大変な思いで活動してたというか、暮らしていた。こういう戦時中の写真って無いものですから、こんな写真があるの?と、びっくりしましたね」

この写真を発表したときのエピソードを、布臺さんが教えてくれた。当時、この写真のコピーを希望する市民に提供していた時の話だという。

「女性の方でしたけれども、自分の家が空襲で全部焼けてしまった。そのときにお兄さんが亡くなった。写真も全て空襲で焼けて何も残ってない。今回、この写真を花巻市で取得したことを知ったので、空襲の初期の写真ですから、このときはまだ自分のお兄さんが、ここには直接写っていないけど、このどこかに、まだ生きている、そういう状態の写真だろうということで取りに来ました。その方は仏壇に掲げると仰ってました。すごく印象に残っている出来事です」

花巻は何故、空襲されたのか? 

アメリカの国立公文書館から見つかった資料には、非常に興味深い記述が見つかったという。それは、花巻が空襲された理由だった。

「航空機戦闘報告書」と題された1945年8月10日付けの文書。戦闘機と攻撃機、計22機が花巻を襲撃した時の記録が克明に残されている。その中の一文に“targets of opportunity”との記述がある。

これは「臨機目標」、臨時に設定された目標を意味する。つまり花巻は本来の空襲の目標ではなかったことを示しているという。

報告書によれば、本来の攻撃目標は当時、花巻の西側にあった岩手陸軍飛行場、通称「後藤野飛行場」だった。しかし、「既に他の部隊によって破壊し尽くされてるので本来の作戦目標では無い花巻を攻撃した」と記録されている。

記述を見つけた布臺さんは「私の祖父母の家も、この空襲を受けているところにありまして、全部、焼失してしまうわけですけど、(記述を見つけた時)言葉に出来ない、非常にやるせない気持ちになったのを今でも記憶しています」と当時の思いを話してくれた。

布臺さんや市川さんが調査を続けるのは、戦争経験者が年々減り、戦争の恐ろしさを若い世代に継承する事の困難さに危機感を感じているからだという。

2人は、戦争が記録された物を大事にして、その資料を読み解いていく作業を若い人たちにも続けていってほしいと話している。とても地味で根気のいる作業だが、それでも続けていってほしい、と。

記憶と記録の継承

ことしで終戦から77年。花巻市には今も、決して忘れてはならない戦争の記録や痕跡が地元の人たちの努力で残されている。これまでに数回、終戦企画を取材してきたが、その都度感じるのは、時間の経過が容赦なく進む一方で、戦争の記録や記憶を若い世代に引き継いでいく事の難しさだ。

取材の最後に、子どもたちへの説明を終えた加藤さんに、このことについて尋ねてみた。

加藤さんは静かに、こう答えた。

「現実的に、ピンと来ないだろうけれどもね。ただ、一旦戦争が起これば、子どもたちも部外者じゃない。当時17,8歳の子どもたちがここで働いたということは、やっぱり子どもとか少年・青年にも戦争は及んでくるということです。その辺をわかってくれればいいかと思いますけどね。決して他人事じゃないんだ、ということを」