©2022「すずめの戸締まり」製作委員会
11月に公開された、新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』。
主人公の高校生・鈴芽(すずめ)が、日本各地を舞台に災いの元となる”扉”を閉じながら、過去と向き合い、成長していくロードムービーです。
描かれるテーマは「震災」。
冒険物語の終着点は、岩手にあります。
12月、舞台挨拶のため盛岡を訪れた新海監督に話を聞きました。
(聞き手:NHK盛岡・菅谷鈴夏)
“たどりつくべき場所は岩手だった”
▽菅谷) 岩手へは何度か来ているんですか?
▼新海監督)
直近で言えば、1年ちょっと前に『すずめの戸締まり』のロケハンできました。陸前高田を通り、 山田町を通り、宮古市まで行って。
▽菅谷)岩手の地を見て何を感じたのでしょうか。
▼新海監督)
震災直後、震災からしばらくたってから来たこともあって。思い返すと、やっぱりずいぶん変わったなと思いますよね。久しぶりに東北を訪れ、岩手へ向かう中で、いちばんに目を引いたのは防潮堤です。太平洋をふさぐようにして、何百キロと続く状態が続いていて、今でも工事が進行しているわけですよね。その周りに民家はなく住民もいない状況で、工事の人だけがずっと並んでいるという風景は、不思議な形で、他で見たことない風景となっていると思いましたし。
でも一方で、岩手の山田町にある織笠駅が、実は映画にこそっと出てくるんですけど、震災で流された駅が山の上のほうに移転されて新しくできた駅なんですよね。織笠駅から少し動くと遠くに防潮堤が見えて。新しい生活が、風景が、着実に動きだしていて。その風景はやっぱり同じようにかつてと同じように美しくて。
人の生活っていうものは、1度何かで途切れても、また時間が経つと力強く戻っていくんだなと感じたりしました。なかなか一言でいえないような、いろいろなことを思いました。
実は、映画のヒロイン「鈴芽」は岩手出身の少女という設定なんです。直接映画では表現してないけれど。 鈴芽の家はこの辺だったかなとか、鈴芽の家までたどり着く途中の景色はどういうところを見せればいいだろうかとか、そんなことを考えながら、ずいぶん岩手を見て回りました。
©2022「すずめの戸締まり」製作委員会
▽菅谷)主人公の鈴芽を、岩手出身の設定にしたのはどうしてなのでしょうか。
▼新海監督)
この映画を作ろうと思ったとき、今の日本全国を舞台にした冒険活劇にしたいなと思ったんですね。ちょっとワクワクするような、いろんな場所を巡るような活劇したいと。
その果てに鈴芽はどこをゴールとすべきと考えたときに、やはり東北以外はなかなか僕には思いつかなくて。彼女は東北にたどりつくべきだと思いました。
それは、2011年の東日本大震災のことが自分の中からも離れませんし、多分日本という国からもきっと何か忘れることのできない、切り離すことのできないものだと思ったからです。
鈴芽のゴールを東北とするのであれば、岩手とするのであれば、そこからさかのぼって物語を組み立て直していったときに、鈴芽の故郷は岩手にする必要があって。九州をスタートにして、もう1度故郷に戻る物語を作りたい、そんな流れの中で岩手県を描きたいなと思いました。
“エンタメにしかできない寄り添い方”
▽菅谷)新海さんにとって東日本大震災はどんな出来事だったんですか?
▼新海監督)
僕は全く被災者ではなくて。
2011年の3月当時はスタジオでアニメーション映画を作っていて、東京も地震は揺れはしました。制作がいったん中断したりとか、みんなで「大きな地震だったね」なんて言い合ってたんですけど。それから日がたつにつれ、とても大変なことになっていることが分かってきて。
そのときに、被災者ではない僕がすごく覚えているのは、強烈な後ろめたさのようなものでした。こんな大変な時期なのに、自分たちがやってることはエンタメやアニメーションをただ作ってる。それでいいのだろうかということもすごく思いました。ただその時に、後ろめたいんだったら、エンタメに何か社会的な役割といえば大げさですけど、エンタメにしかできない寄り添い方のようなものがあるかもしれないと思ったんですよね。でも正直、自分たちの仕事にも何か役割があるんだと思いたいというような、自分勝手な気持ちはどうしてもあって。それがぬぐえず、2016年に『君の名は。』という映画を作ったんですけど。
そのときに描いた「1000年に1度訪れる彗星」というのは、「1000年に1度日本に起きる大震災」のメタファーとして描いていて。そこから結局ずっと同じことを考え続けていて。
『すずめの戸締まり』も、その11年前の気持ちの延長線上に流れ着いた場所といいますか。自分としては連続感があってずっと作っているものの1つが『すずめの戸締まり』です。
“もっとうまく語りたい”
▽菅谷)『すずめの戸締まり』では地震が直接描かれました。 何か気持ちの変化があったのでしょうか?
▼新海監督)
災害を描くということは『君の名は。』(2016)でも『天気の子』(2019)でもやっていたんですね。それはなぜなのかというと、2011年にある意味で自分自身も変わったからなんです。今までとは違うアニメーション作ろうと思いました。
例えば、『君の名は。』では、もしも私があなただったら、という自分があの場所にいたということを想像する物語にしたいと思って、入れ代わっちゃうっていう話を作ったんですよね。本当は被災し亡くなった少女を、主人公が彼女と入れ代わる中で「生きていてほしい」と願い救う話なんですけども。それは、「生きていてほしかった」という、僕たちが11年前のあの時に思った願いのようなものです。亡くなった人は蘇らない、それは倫理的だけど、その物語は逆に多くの人を傷つけるような気もしたんです。でも、お客さんから「災害をなかったことにする映画だ」と言われたことがありました。
どうして届かなかったのだろう。じゃあ違う作り方をしようと、『天気の子』という映画を作って。気候危機、豪雨災害を連想させる物語だったんですけど。気候危機というのは、人間全員が当事者で、全員がその原因だったりするので、部外者がいない物語。その中で、「生きていてほしかった」という願いとして、「天気よりも君の方が大事だ」って叫び少女を救う主人公を描いたんですけど。それもうまくいかない部分があったんですよね。
もっとうまく語りたい。毎回リベンジみたいな気持ちで語り方を探してきた中で、今回は直接描こうと。11年前に思ったエンタメの仕事の役割を思い返して、自分たちとしては、ある種の思い切りをもって描きました。
▽菅谷)その中で葛藤し思いを巡らせることもあったと思います。
▼新海監督)
そうですね…。でも、何よりも楽しい映画を作りたいと思ったんですよね。現実にあった出来事を、モチーフであったりとか、映画の中の設定に敷く以上は、楽しいだけのものにならないでしょうけれども、僕たちの仕事はエンタメなのだと。報道でもドキュメントでもなく語り部でもありませんので、他でできないことをやらなければいけないと思うんです。だから楽しい映画をとにかく作りたい。椅子が走り回って、猫を追いかけて、扉をすごくかっこいいアクションで派手に閉めて、そのテンポ感でどんどんどんどん物語が前に進んで行くような、次どうなっちゃうんだろうと、わくわくするような話にしたいと思いました。
映画がおもしろくさえなれば、観客の方は、鈴芽というキャラクターを好きになってくれるかもしれないし、鈴芽に感情移入してくれるかもしれない。例えば特に若い人で、震災を知らないような人が、鈴芽に感情移入してくれて、鈴芽のたどり着く場所が岩手であって、特に10代の人にとっては、親に聞いた話や教科書でしか読んだことのないような、11年前の出来事というのが、自分たちと同じ年代の17歳の心の中に真っ直ぐつながっていたりするんだと思ってもらえたら、エンタメにしかできない何か物語なのかなと考えまして。だから面白くあることが必要だなと考えました。
「ぜひ見てください」と言えない葛藤
▽菅谷)主人公の鈴芽の出身地岩手で、『すずめの戸締まり』が上映される。どんな風に届いてほしいという願いがありましたか。
▼新海監督)
そうですね…。これはなかなか難しいご質問です…。
自分たちとしてはもちろん自信作というか、今見てほしいとして作ったんですけれども、絶対見てもらえればおもしろいというつもりで作ったんですけれども、でもそれは自分たちなりの勝手な願いのようなもので、お客様がどう感じるか分からない。特に当事者でない自分たちが東京で作ったものが、実際に被災した場所である岩手で「ぜひ見てください」というふうに簡単には言えないなと思います。ですから今日、岩手に来ることも少し足がすくむような思いもあったんです。
ただ、 それでも、物語っていうのは、ずっと昔から実際にあった出来事なり悲劇なりを、人間は物語の形でずっと考えてきたわけですよね、語り伝えてきたわけですね。人間の基本的な機能だと思うんです。起きた出来事を物語にして伝えていく、考えていくことは。
震災はどうしたっていろんな物語を生むし、僕たちがつくらなくても物語が生まれていくし。でも、物語はどうしても暴力性をはらみますよね。誰かを傷つけないよう、慎重に傷つく部分を避けて描かれた物語は、誰の心にも触れないということでしょうから。
僕たちはやっぱり、心に触れてほしいから何かを探したりコミュニケーションをしたりするわけで。心動かしてほしいから、何かを見たり読んだりするわけじゃないですか。作っている当然の欲望として、物語を通して誰かの心を動かしたいという気持ちはあって。 動かすということは暴力性をはらむんだけど。でもその物語を作るのに資格が必要で、当事者以外は語ってはいけないのだとなってしまったら、あるいはドキュメントじゃなければ触れてはいけないと言われたとしたら、やっぱりそのことには何か反感を持つんですよね。当事者じゃなくても語る手つきはきっとあるんじゃないかと。少なくともそのことは、真剣に考え続けてはきたつもりであって、それが十分届いたかどうか分からないけど、僕たちなりに嘘のない感情をこの映画の中で描いたつもりです。
嘘をつこうとか、だまそうとか、技術を持って感動させようとか。本物の気持ちを映画の中に込める。鈴芽の気持ちを本物にすることで、見た人の気持ちを動かせばいいなと考えながら作ってきました。
ですので、もし興味を持っていただけて、岩手のかたに映画を見ていただけたら、そのことによって意外に悪くなかったとか、私が知ってる感情がここにあったとか、もしかして、言いたかったことをこのキャラクターが言っていると思っていただけたら、これ以上幸せはないなと思います。