犠牲になった役場職員 津波の教訓を”かたち”に

釜石支局 村田理帆
2022年2月24日 午後1:10 公開

●娘と会える特別な場所

あの日、災害対応にあたっていた当時の町長や職員などあわせて40人が犠牲になった大槌町。全壊した旧役場庁舎は3年前に解体され、現在は緑地として整備されている。

役場の職員だった当時26歳の娘を亡くした小笠原人志さんは、毎月11日になると必ずこの場所を訪れる。

仕事で遅くなった娘を迎えに行くために何度も役場を訪れていたという小笠原さん。
父と娘、水入らずの時間を過ごした思い出の場所で、娘が眠るお墓とは異なる意味を持つという。

小笠原さん「お墓では遺体に対面したときの、そのむごたらしい姿を思い出して、つらい気持ちになるけれど、この場所に来るとむしろ癒やされる。裏口から出てくる感じなんかを思い出すので、娘の近くに来たという感覚になる」。

●役場に戻る途中で津波に流され・・・

役場で高齢者福祉を担当していた娘・裕香さんはあの日、研修で隣町、釜石市を訪れていた。地震があってすぐ、急いで役場へ。役場にもう少しで着くというところで、見かけたお年寄りを避難させようとして、津波に襲われたとみられている。

優しくてしっかり者。自慢の娘だった裕香さんは、帰らぬ人となった。
小笠原さんは当初、「娘はきょうは釜石にいるはずだから」と無事を信じていたという。しかし、何日たっても、消息は不明のまま。亡くなったと聞かされたのは、発災から5日後のことだった。
それから11年。小笠原さんは、ある後悔の念を抱き続けてきたという。

小笠原さん「大槌町役場への就職が決まったときに、『公務員は全体の奉仕者だから、自分の命を犠牲にしてでも仕事を全うしなければならないときがある。それができるか』と言ったことがあるんですよ。まさかそれが現実になるとは全然そのときは思っていなくて、本当に娘には申し訳なかったなと思っています。ただ、娘は一生懸命に職務を全うしたんだと、それは誇りに思っていいかなと」。

なぜ、娘は役場に戻ったのか。
小笠原さんは長年、娘の最期の状況を知りたいと願い続けてきた。一方で、残された職員や応援職員で復興に取り組んできた町は、当時、職員がどのような状況で亡くなったのか、検証を行うことはなかなかできなかった。

町が亡くなった職員一人ひとりについて調査し、その報告書が小笠原さんの元に手渡された時にはすでに、震災から10年以上が経過していた。

報告書では、生き残った職員への聞き取り調査などを元に、それぞれの足跡を詳細にたどっている。そしてあの日の教訓として
▼庁舎が過去の津波浸水エリアに立地していたこと、
▼防潮堤を越える津波を予想できないまま、災害対策本部を設置したこと、
▼地域防災計画などに従って多くの職員が役場に集合したこと
などが記載されている。

ようやく、町が震災の教訓に向き合ってくれたと感じた小笠原さん。
裕香さんの仏壇に、その報告書を飾った。

教訓を伝えるために 交錯する思い

町はその後も、震災の教訓を今後どう発信していくか、模索を続けている。
報告書が完成してから2か月後、町は、今は地蔵がひっそりと建つだけの役場の跡地をどう震災伝承の場として活用していくか、住民などが意見を交わす場を新たに設けた。

月に1回に開催される会議には、毎回20人程度が参加し、議論を交わす。
庁舎の跡地は子どもたちが遊べる公園として整備し、津波の高さがわかるモニュメントを併設するという案がまとまりつつある。

小笠原さんも、自身の思いを伝えるために会議に毎回参加している。
小笠原さんには、一貫して主張し続けていることがある。

小笠原さん「行政の判断が命を守ることにどんなに直結するかということと、2度と同じてつを踏まないでほしいということを全国に発信できる場にしたい。そのためには、モニュメントだけではなく、伝承室のような施設をつくるべきではないか」。

ただ、参加者ひとりひとりの庁舎跡地に重ねる思いはさまざま。
役場職員だった兄を亡くした倉堀康さん。同じ遺族でも、小笠原さんとは少し異なる考えを持っている。

倉堀さん「何を作ったっていい。極端な話、何も作らなくたっていい。大事なのは、何かを作るということではなくて、そこに人が関わり続けるということだと思う。何かを作るだけで終わってしまったら、10年20年先になったら忘れ去られてしまう。そうならないために、あの場所で伝えるべき教訓は何なのか、みんなが考え続けられるように、例えばあえて耐久年数が低く、定期的なメンテナンスが必要なものを作るなど、人が関わり続けていけるような何かを作るべきではないか」。

ほかにも、住民の男性からこんな意見が出た。
「そもそも、公的な建物を浸水域に建てるべきではないのに、旧役場庁舎は1950年代に浸水域に建てられた。そうした場所に建ててしまったという失敗が生んだ悲劇であることを、伝えるべきだ」。

みずからも被災し、同僚を亡くした役場の職員も、交錯する様々な思いに耳を傾けながら伝承の形を模索していた。

役場職員の男性「自分自身も、震災の経験から何を伝えたらいいのかというのがわからないまま過ごしてきたような気がしています。ただ、この年月がたって初めて話せることがあったり、伝えたいことが見えてきたような気がしていて、みなさんもそうなのかなと思いながら議論を見守っています。役所としてもそれぞれの思いに耳を傾けながら、どういった教訓を伝えるべきか、考えていきたい」。

震災からまもなく11年。
町の未来へ向けたそれぞれの思いが今、教訓とともに刻まれようとしている。

 盛岡放送局 記者 村田理帆
2018年入局。沖縄放送局を経て、2021年11月から釜石支局で震災取材を担当