故郷のために復活を ~ヤクルト 奥川恭伸投手~

NHK
2024年3月29日 午前8:35 公開

今シーズン、人一倍強い思いを持って復活のマウンドを目指すピッチャーがいる。

ヤクルトの5年目、奥川恭伸投手(22)。高校時代は星稜高校のエースとして3年夏の準優勝の原動力となりプロでも2年目にして日本シリーズの先発マウンドも経験。順風満帆な野球人生を歩み、将来はヤクルトだけでなく球界を代表するピッチャーへの成長も期待された逸材だ。(※2024年2月29日スポーツオンライン掲載)

しかし当たる光が強いほどその影も濃く、暗いということなのか。この2年は相次ぐけがに苦しみ1軍登板はわずか1試合。“野球をやるなと言われてるのではないか”と思うほど苦しんだ時期もあったという。

さらに正月に石川県を襲った能登半島地震。自分を育ててくれたふるさとは変わり果てた姿となった。全てを受け止めながらふるさとに希望の光を灯したいと復活をめざす22歳の姿を追った。(※文中敬称略)。

初日からブルペン入り 2年ぶりの"浦添"


2年ぶりに1軍が行う沖縄県浦添市で迎えた春のキャンプ。奥川ははやる気持ちを抑えながら初日からブルペン入りした。

故障明けと言うことでスピードは140キロ前後にセーブしながらも、状態の良さを示すように20球余りを気持ちよさそうに投げた。

表情はリラックスした様子だったが、これまでの歩みを振り返りながらのキャンプインだったという。

“2年間2軍でずっと練習していたので、初めて浦添に呼んでもらったときを思い出した。1軍でやれてうれしいしシーズンに向けアピールしていきたい”

"地元の誇り" 奥川恭伸


石川県で生まれ育った奥川の野球人生は華やかな道から始まった。高校時代は地元の強豪校、星稜高校で2年生の時からエースとして活躍し、2年春から4季連続で甲子園に出場。そのハイライトは何と言っても3年夏の熱投だ。

後に巨人に入るキャッチャーの山瀬慎之助、ヤクルトでチームメイトとなるショートの内山壮真らとともにチームを引っ張り、石川県勢24年振りの決勝進出の原動力に。

私は去年から東京配属になり、縁あってヤクルトを担当しているが入局2年目の当時は初任地の金沢放送局所属の記者。地元の熱狂的な盛り上がりは今でも忘れられない。

勝ち上がるにつれて熱量が増していく県内。決勝の日、真夏の甲子園とは対照的に石川は大雨だったがNHK金沢放送局のロビーで行われたパブリックビューイングには400人以上の人が詰めかけ、奥川の投げる姿に釘付けになっていた。

1つのアウトを取れば大歓声。点を取られればため息とともに励ましの声援。終盤まで接戦となった試合は3対5で大阪・履正社高校に敗れ、石川県勢としては春夏通じて初の甲子園優勝は逃した。しかし想像以上の盛り上がりに“地元の誇り”と言う言葉が自然と思い浮かび、その中心にいたのが奥川だった。

(写真:2019ドラフト 10/17)

ちなみにその年秋に行われたドラフトの指名会見にはヤクルト、巨人、阪神の3球団が指名したドラフトの注目株を取材しようと東京からも多くの報道陣が高校に大挙して来訪。現場にいた私はただただ圧倒されたが、丸刈りの奥川投手は緊張した様子も見せず、いつも通りの様子で丁寧に質問に答えていて“年下なのにこの落ち着きは何…”と驚いたことをよく覚えている。

順風満帆の船出が…


プロ入り後もその歩みは順調だった。

1年目で1軍のマウンドを経験すると2年目には早くもチームトップに並ぶ9勝。巨人とのクライマックスシリーズではMVPに輝き、20歳で日本シリーズの初戦の先発という大役に抜てきされた。

対戦したオリックスの絶対的エース・オリックスの山本由伸と互角に投げ合い7回1失点の好投。その後チームは見事に日本一に輝いた。

しかし、奥川の野球人生はここから大きく一変する。

将来のエース候補として活躍が期待された3年目のシーズン。本拠地・神宮球場での開幕戦に先発したものの、4イニングで降板し次の日に登録抹消された。当時は「上半身のコンディション不良」と発表されたが、実際はピッチャーの生命線とも言える「ひじ」の故障だった。

この年、奥川の登板は本拠地開幕戦の1試合だけ。チームは2年連続でリーグ優勝を果たし日本シリーズに進んだが、奥川は復活に向けて地道な調整が続く日々となった。

相次ぐけが "心が折れた"


年が明けて2023年。球団の期待はそれでも変わらず背番号はそれまでの「11」からエースナンバーの「18」に変更された。

復帰を目指し2軍で地道にトレーニングを重ね、イースタンリーグでの登板も経験。順調に復活に向けて歩んでいたが、1軍のマウンドも見えてきた夏場、今度は練習中に下半身のけがに襲われた。

結局「エース候補」と期待された逸材が2年間で1軍登板したのはわずか1試合。

「何もしない間に時間がたっている」

「毎日しんどかった」

この時期の気持ちについてこう明かした奥川。精神的に追い込まれることすらあったという。

<奥川恭伸投手>

『2年間は「つらい」「苦しい」ばかり。投げられてないし、実戦からも遠ざかっていて練習していてもランニングやトレーニングばかりで野球の技術練習にはなかなか入れない。心が折れそうになることばっかりだった。上半身だけじゃなくて下半身のけがも“なんでこのタイミングで”っていうときだったので“野球をやるな”と言われてるんじゃないかって、そんな考えなくていいことも考えるようになっていた。』

救いになった地元の声援


一方で、この苦しい時期を支えたのが他でもない、地元の人たちの声援だった。

奥川は出身が石川県ということもあり、私たち取材陣から折に触れて能登半島地震についてのコメントを求められる。そのときによく口にするのが輝かしいときだけでなく、辛い時期を支えてくれたふるさとへの感謝の思いだ。

<奥川投手>

『石川県の皆さんは高校時代から、投げていたときはもちろんだが、投げていない2年間でも復帰を信じてずっとご声援を送っていただいた。そういう石川県のファンのみなさん、温かい声援に救われた部分もある。今度は自分が投げている姿、活躍している姿、さらにチームとしても結果を出して少しでも力になれればと思う。』

変わり果てた故郷


奥川投手提供

能登半島地震が発生したことしの正月、奥川は実家にほど近い石川県かほく市の親戚の家にいた。親戚一同と集まってすぐというタイミングで揺れに見舞われたという。あまりの揺れに今までにない恐怖を感じ、津波被害の恐れがある中、奥川は家族と必死に高台に避難した。

<奥川投手>

『まさか元日にそんなことが起きるなんて誰も思ってないし、最初は普通の地震かなと思ったら徐々に揺れが大きくなって確かにそのときも怖かったが家を出て周りの道路を見たときにやばいと感じた。本当に「まさか」という感じ。』

<上の写真は奥川投手提供>

親戚や星稜高校の友人が被災するなど大きな被害を目の当たりにし、故郷の風景は変わり果てた姿になった。

奥川は能登半島地震についてみずからが経験した状況についてはこちらの立場をくんで口を開いてくれるが、被災した人たちに向けては「なんとも言えない」と繰り返すことが多い。

高校時代から数え切れないほどの取材を受けみずからの発する言葉の影響力も分かっているだけにこの状況で軽々に言葉を発することができない苦しさがこちらにも伝わってくる。その姿を見ると同じ石川県で5年間を過ごし、数え切れない地元の人たちに取材やプライベートでもお世話になってきた私も胸が塞がる。

"復活"で勇気づける


一方でプロ野球選手として復活を果たし、苦しい時期に支えてもらった石川県の人を今度は自分が励ましたいという思いには強いものがある。

「いいニュースを届けられるように頑張りたい」

「まずは石川の皆さんのために頑張り、その次に自分自身としてもやらないといけない」

みずからの姿を通して被災地を、ふるさとを勇気づけたいという言葉の1つ1つには迷いがなく、力強い。

ふるさとへの思いを胸に復活を目指す5年目のシーズン。何度も輝きを放ってきたマウンドでどのような姿を見せてくれるのか。復活を期待する石川県の人たちに向けて必死に腕を振る奥川の姿を届けられるように今シーズンの背番号18を追っていきたい。

<奥川恭伸投手>

『これからもどういう野球人生になるかわからないが、投げられなかった2年間悔しかったので、ことしはとにかく投げて自分が苦しんだ分取り返したい。いろいろ経験した2年を結果的によかったと言えるようにしていきたい。』

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【取材後記】
この記事に向けた取材を続けていたキャンプ終盤、奥川はコンディション不良を訴えて全体より2日早くキャンプを終えて1軍を離脱した。実戦でも好投を見せ、着々と開幕に向けたステップを踏んでいるように見えただけに信じられない思いだ。シーズン開幕での先発ローテーション入りは絶望的だが、取材を進めるとシーズンを棒に振るほどではないという声も聞かれ、復調に向けて現在は調整を進めている。何度も襲われた逆境を跳ね返し、高校時代に甲子園で見せたような笑顔でマウンドに戻ってくることを願いたい。

この記事を書いた人

城之内 緋依呂 記者

平成30年入局
初任地の金沢局から令和5年8月にスポーツニュース部。

ヤクルトスワローズ担当。

小学生の時にセカンドとベンチを守っていた。