ウクライナから避難してきたバレエダンサーの夫婦が来日後、初めてとなる舞台に立ちました。3か月ぶりの公演で、2人が観客に伝えたのは、当たり前にバレエができることへの感謝でした。
ウクライナから日本へ
バレエダンサーの長澤美絵さんと、夫のエフゲニー・ペトレンコさんです。
2人はウクライナの首都、キーウのバレエ団「キーウクラシックバレエ」に所属しています。長澤さんは最高位の「プリンシパル」として活躍。ペトレンコさんもソロパートを担う「ソリスト」として一緒に活動してきました。
そんな2人に転機が訪れたのは、ことし2月。ウクライナ情勢が緊迫化し、日本大使館から退避を勧められたのです。しかし、当初は帰国を考えていませんでした。
長澤美絵さん
「この時代に『戦争?』という感じで、まったく信じられなかったです。そこまで真剣には受け止められなかったです。『今まで通りの生活を続けます』と最初は返事をしていました」
それでも、ロシアの侵攻直前の2月13日、日本に避難することになりました。決め手となったのは、去年、生まれた子どもの存在でした。
長澤美絵さん
「まだ1歳にもなっていなかった息子がいたので、もし何か起きてしまった時に守れるのは私たちだけ、守るのは私たちの義務だな、と」
ウクライナのためにできることは
埼玉県にある長澤さんの実家に避難した一家は、毎日、ウクライナに残る親類やバレエ団の仲間たちと連絡をとっています。
エフゲニー・ペトレンコさん
「親類や友達がとても心配です。どうすればウクライナの人たちを少しでも助けられるのか、いつも考えています」
長澤美絵さん
「電話が通じるだけで落ち着きますし、会いたくなる気持ちも増します。みんな笑顔を見せてくれますけど、そうしないとやっていけないと思うんですね。だから、みなさんすごく強いと思います」
しかし戦闘の激化は、長澤さんたちの周囲も容赦なく巻き込みます。ウクライナ国内で避難生活を送っていたペトレンコさんの両親は、ロシア軍によってアパートを破壊されました。遠く離れた日本でもどかしい思いを抱えていた2人。日本の地でバレエを通じてウクライナへの支援を広げられないかと考えるようになりました。
長澤美絵さん
「バレエダンサーとして私にできることは舞台に立って踊り続けていくことだと思います。踊ることで、ウクライナを支えていきたいと思っています。それが、なんらかの形によって支援につながってくれたらと思っています」
来日後初の公演へ
そんな2人と連絡を取り合っていたのが、松本市出身の世界的なバレエダンサー、二山治雄さんです。長澤さん夫婦が所属するバレエ団が5年前に行った来日公演で共演して以来、親交を深めていました。
二山治雄さん
「キーウのバレエ団と共演した時に、すごく温かく迎えてもらいました。軍事侵攻後は心配で気が気でなかったです。すぐに長澤さんに『大丈夫?』と連絡しました。長澤さんとペトレンコさんに会えて、バレエ団のみんなが無事と聞いて少し心が落ち着きました」
この二山さんとの縁をきっかけに、かつて二山さんも通った長野市のバレエ学園が、2人に発表会への特別出演を打診。来日後初めてとなる、およそ3か月ぶりの舞台に立つことになりました。
長澤美絵さん
「ウクライナでは、これほど長い間、舞台に立たなかったことはなかったので、なにか物足りなかったですし、とてもさみしかったです。プロとして舞台に立つ限りはプリンシパルとして、しっかり務めていきたいです」
バレエで表現したものは
公演は5月5日、伊那市で開かれました。会場にはウクライナを支援する募金箱も設けられました。
観客の声
「きっと悲しみの中にあるかと思います。前を向いて負けないで進んでいく、そういうバレエを見られたらと思います」
披露したのは「眠れる森の美女」。ウクライナで何度も踊り、5年前の来日公演でも踊った得意な演目です。長澤さんは「姫」として、「王子」役の二山さんと優雅な舞を披露しました。久しぶりに観客の前で踊れることの喜びが、長澤さんの全身から伝わってきました。
ペトレンコさんが演じたのは「青い鳥」。自由に空を飛び回る鳥に、祖国の平和への願いを託しました。その軽やかな動きに、600人あまりの観客からは大きな拍手が上がっていました。
観客の声
「演技がとてもきれいで、心が打たれました」
「動きが素晴らしくて感動しました」
公演の合間に、ステージ上で2人が観客に伝えたのは、ウクライナへの思いと、当たり前にバレエが出来ることへの感謝でした。
エフゲニー・ペトレンコさん
「ウクライナを守ってくれている人たちに本当に感謝しています。いま、僕たちはこの日本にいますが、ここからもいつもエールを送っています。とにかく、すべてのことがうまくいくように願っています」
長澤美絵さん
「本当に久しぶりの舞台に感謝しています。ふだん当たり前にできていたことが、当たり前ではなくなってしまうというのは心が痛みます。だからこそ、久しぶりの舞台は本当に本当にうれしいです」
ウクライナではいまだ激しい戦闘が続き、長澤さん家族の帰国のめどは立っていません。当面は、遠く離れた日本でチャリティー公演などに出演しながら、1日も早い戦争の終結と、”当たり前に”バレエができる日常の復活を願う日々が続きます。
(取材後記)。
10年あまり前、私はウクライナとロシアを旅行しました。そのとき訪れたキーウ中心部の「独立広場」から伝えられるものものしい中継や、郷土料理を味わったチェーン店が破壊された映像を見て、信じられない思いを抱きました。
一方、ロシアでも、夜行列車の中で出会った人にサンクトペテルブルクを案内してもらうなど、多くの親切に接しただけに、各国による制裁が一般の市民にどのような影響を与えているのか、気になっています。
そんな風にウクライナとロシア双方に思いをはせながら、長野県でウクライナへの支援の動きなどを取材しています。今回、長澤さんとペトレンコさんの取材を通じて、あの地に平和な日常が再び訪れることを願う気持ちがいっそう強まりました。
(長野放送局記者 橋本慎也)