東条と西条 東西が逆なんですけど!

NHK
2022年7月6日 午後8:11 公開

「長野市の浅川地区にある『浅川東条』と『浅川西条』。なぜ東条のほうが西にあり、西条が東にあるのか、理由を知りたい」

こんな身近な疑問が寄せられました。なぜ東西が逆になっているのでしょうか。本当にそんなことがあるのでしょうか。確かめるために、さっそく現地に向かいました。

(安藤公彦)

なぜ東西が逆?

疑問を寄せてくれた神川真一さん(37)は、長野市北部に位置する浅川地区に住んでいます。

今回の疑問は神川さんがふだんの生活でいつも気になっていたものでした。

神川さんが子どもとよく訪れている公園は「浅川西条」にありますが、地区の中の東のほうの場所です。

一方、いつも通る通勤路には「浅川東条」の標識があります。ところが、この標識は浅川西条の公園から西に約1キロのところにあるのです。

神川さんが抱いている疑問です。

「2、3年前に引っ越してきて、ちょうど東条と西条の真ん中あたりに住んでいるのです。しかし、東条と西条はなぜ東西が逆になっているのかと不思議でした」

この地区の小学校に去年赴任してきた校長も、戸惑いを隠せなかったと言います。

「東条を通ってループ橋のほうに行けば、私は西へ行っていると思いました。赴任してきてまもない頃、西条の子どもたちはこちらのほうに住んでいるんだなと勝手に頭の中でそう思ってしまったことがありました。しかし、西条の子どもたちは浅川地区の東のほうに住んでいて、東と西が混乱した時がありました」

位置関係です。

「浅川東条」が西側、「浅川西条」が東側にあり、確かに東と西が逆になっています。

なぜ、実際の方角と逆になっているのか、調べてみることにしました。

疑問を解くには?

浅川地区に住み、地域の歴史を調べている北條昭吾さん(77)です。

北條さんは、何人かの人たちがこの地名の不思議を話しているのを聞いて、10年ほど前から調べ始めたといいます。

疑問を解くために、まず150年ほど時代をさかのぼることにしました。

「明治の初めの頃、この一帯には東条村と西条村があったんです」

資料からも浅川地区のあたりに昔、東条村と西条村があったことを確認することができます。

ただ、これだけでなぜ東西が逆になったのかという疑問は解決しません。

そこで、北條さんと、疑問解決の鍵を握る長野市公文書館を訪ねました。

明治22年まで存在した東条村と西条村は、どんな村だったのか。

それが分かるものが残されていました。

(西条村の絵図)

(東条村の絵図)

明治時代の西条村の絵図と東条村の絵図です。東条村は逆L字になって見えます。

この絵図が、疑問解決の鍵となるようです。

絵図を実際の位置関係に組み合わせてみます。

西条村が西側、東条村が東側、東西の方角どおりに隣り合っていたのです。

明治時代の長野の町や村について書かれた資料にも、東条村の西北西の方角に西条村があると記されていました。

当時としては、東条村から見ると、西条村は西にあったのです。

しかし、その後、明治22年に東条村と西条村がそれぞれ分割して浅川村が誕生し、昭和29年には浅川村が長野市に合併します。

さらに、高度経済成長期には団地ができるなどしていきます。

こうした流れの中で、東条村と西条村の区割りや地名が変わったのです。

そして、東条村の西の端の一部が残って現在の「浅川東条」に、西条村の残った一部が現在の「浅川西条」になり、この結果、位置関係は東西逆になったのです。

「地名がだんだんと独立して変わっていき、現在の『浅川東条』と『浅川西条』は、最後に残ったところということです」(北條さん)

疑問に答えます

結果は、浅川地区の中での東と西の位置関係という意味ではなく、昔の地名の名残ということだったんです。

もともとは方角どおりの位置関係だった東条村と西条村ですが、村の分割や区割り変更で、地名と位置関係が逆になったのでした。

こうした地名と方角が逆になっているケースは浅川地区だけではないのです。

浅川地区の東隣にある若槻地区、ここでも「若槻東条」が「若槻西条」の西にあり、位置関係が逆になっているのです。これも東条村と西条村が分割されたことの名残なのです。

疑問解決 その感想は?

疑問を寄せてくれた神川さんに、調べた結果を伝えました。

「東条村と西条村のそれぞれ一部だけが『浅川東条』や『浅川西条』として残っているというのは、おもしろいし興味深いです。昔の絵図を現在の浅川地区と重ね合わせて見ることができて、疑問が解消しました。本当にすっきりしました」

地名はおもしろい

今回調べたことで、同じ地区の中にも地名が変わった場所と残っている場所があることが分かり、地域の歴史を少しひもとくことができました。

明治時代の村の絵図は、長野県立歴史館のホームページなどからも見ることができます。

みなさんも当時の絵図と現在の地図を重ね合わせてみると、おもしろい発見があるかもしれません。

長野放送局記者 安藤公彦

2009年入局。熊本局、札幌局、報道局社会部を経て2020年から長野局。