「目標に順位や記録があったとは思うが、それは手段に過ぎなくて、目的には唯一無二の自己表現というのがあったように感じている」
2022年10月27日。都内のホテルで引退会見を開いた小平奈緒さん。
冒頭の言葉は、「単に記録や順位ではなく、もっと先のものを求めて挑戦していたように思うが、それはいったい何だったのか?」という私の質問への答えだ。
「唯一無二の自己表現」
その言葉は何を意味し、彼女はいかにたどり着いたのか。
(NHK長野放送局アナウンサー 田中寛人)
氷上の哲学者
私はアナウンサーとして常に心掛けていることがある。言葉に惑わされないこと。簡単に分かった気にならないこと。そして本当の意味にたどり着きたいと問い続けることだ。
ピョンチャンオリンピックのスピードスケートで日本の女子選手初の金メダリストに輝いた小平さんの言葉は、これまでも幾度となく聞いてきた。
“氷上の哲学者”とも称される彼女の言葉は、時に叙情的で、時に難解でもあった。
「スケートは、氷上に曲線を描くスポーツです。力んだり、尖ったり、欲張ったりすると氷は応えてくれません。誰かの気持ちを考えてみたり、自分の気持ちと向き合ってみたり、まるっと包み込むように。彩りも添えて」(2021年2月8日 SNS)
「『私は私である』 その『私』をスケートに、氷に、パフォーマンスに乗せることができれば、他の誰でもなく『生きている私』を証明できる」(2022年1月12日 北京五輪前)
「生きている限り、生きることに向かうことで見えてくる未来もきっとあると思う。この先もそよ風のように『あ、今の風心地よかったな』と思っていただける存在でいられたら」(2022年2月18日 北京五輪レース終了後)
「時は待ってはくれないし、時は戻ってもくれない。だけど、時は待ち望むことができるし、時は進めることもできる。自分の人生だから、自分に与えられた時間だから、思う存分使っていきます」(2022年4月12日 ラストレースを明示した会見)
そんな彼女に初めてインタビューする機会を得たのは2年前の秋だった。
台風19号が変えたもの
それは信州を襲った台風19号の豪雨災害からちょうど1年が経った頃だった。
仕事柄、これまで色んな方にインタビューをしてきたが、初対面の時から小平さんの言葉は際立っていた。
「台風19号から1年というタイミングで地元の皆さんの心が震える滑りがしたいと思った」
「見ている人の心を震わせる」という言葉。磨き上げた技術、圧倒的な記録、圧巻のパフォーマンス。アスリートのプレーを見て、私たちの心は震えるが、彼女のこの発言からは、ほかのアスリートとは違うニュアンスが感じられた。何が違うのか、はっきりは分からなかったが、私の心に妙に引っかかっていた。
インタビューを行った長野市のエムウェーブは小平さんにとっては特別な場所だ。小学生の時にオリンピックを志すきっかけとなった長野オリンピックの舞台であり、ふだんの練習拠点でもあり、そして、選手生活のゴールに選んだ場所でもある。特別な思い入れのある場所の近くで、2019年10月、千曲川の堤防が決壊し、濁流が多くの民家や収穫間近だったりんご畑を飲み込んだ。
小平さんは自らインターネットを通じてボランティアに申し込み、一般の方と一緒に人知れず泥のかき出し作業などを行った。最初に訪れたボランティア先はりんご農家だった。そこでの出来事が忘れられないという。
りんごの木にきれいな白い花が咲いていた。台風を乗り越えて生きている。彼女は笑顔で「良かったですね」と話しかけたが、農家の方の返答に息をのんだ。「花も咲くし実もつくけど、美味しいりんごになるかは分からないんだよね」。
「これからどうなるのかな」。彼女自身も農家の方と同様、改めて先の見えない不安に襲われたと振り返った。
片付けの最中、水につかった新聞のスクラップや写真を見つけた。大切に保管されていたそれは、長野オリンピックでの日本選手の活躍を伝えるものだった。
「この地域の人たちは長野オリンピックを支えてくれた人たちなんだというのを感じた。オリンピックという夢を見させてくれた地域の方々に恩返しのようなことがしたい」
誰かを応援できるアスリートでいたい
台風の翌年、2020年10月にエムウェーブで行われたシーズン開幕戦、全日本距離別選手権で彼女が身にまとったレーシングスーツに私たちは大いに驚かされた。
白地に赤い大きなりんごがデザインされていたからだ。
後日、その思いを語ってくれた。
「大きな災害を受けたところが、その地域で盛んだったりんご農家の方っていうのもあり、今年はそのりんごをモチーフにしたユニフォームにしました。応援される側と表現する側の中に生まれる、何かスポーツが生み出すエネルギーのような感じがしたので、応援を受けるというだけではなく、誰か応援できるアスリートでいたいなという風に思いました。」
ボランティアをきっかけに小平さんと交流を続ける長野市長沼地区のりんご農家の一人、西澤穂孝さんは「今も気持ちを被災地に向けてくれている。僕たちにとってはありがたい。僕らはりんごで頑張るし、小平さんはスケートで頑張ってほしいと思う」と笑顔を見せた。
りんごのスーツで臨んだ女子500メートルで小平さんは見事優勝。アスリートとして技術を高めるだけではない。一人の人間として人間力を磨き、誰かを応援する人でありたい。「結果」ではなく、その先にある「気持ちの通い合い」にこそ意味がある。ボランティアの経験は、彼女をアスリートの枠を超えた存在に押し上げる大きな力になっているように感じた。
「気持ちが通うということが本当に今すごく力になっていて、結果だけでは無機質なものになりがちなんですけれども、気持ちが通うことで、人生がより豊かになるというか。そういった意味では遠い存在ではなくて、地域で身近に感じられる存在でいられるという事が大事だと思うので。いろんな人の力をもらいながら、また私からもエネルギーを届けながら、お互いに高め合っていける状況を作っていけたら」
どれほどの人が彼女の走りを見て、背中を押され、何かを感じ「心動いた」のだろう。与える、与えられるという一方的な関係ではなく、相互に高め合う、共鳴する生き方。優勝という“結果”以上の、彼女の納得する唯一無二の“ゴール”はそこにあるのかもしれない。
この時、北京オリンピックまでは2年余り。周囲からは連覇を期待する声が上がり始めていたが、彼女はきっぱりとこう語った。
「よく、期待を背負うと思いがちなんですが、何かそれすらも全部包んでいけたらいいなと。そのぐらい温かさを持った人でありたいと思っている。ただ、金メダルが目標ではなくて、人生の中のたった1ページの話。その一瞬を振り返ってみて「ああよかったな」と思えるそういう一瞬であれば、たとえ金メダルじゃなくても「ああ、なんか生きているな」と思えるそういう瞬間であればいいのかな」
それから2年。足首のケガを抱えたまま臨んだ今年の北京オリンピック。最後のオリンピックの結果は、私たち、そして彼女自身が望んでいたものとはかけ離れていた。それでも涙をこらえながら、前を向いた。
「不格好な姿でごめんなさい。痛みだとか、やるせなさだとかしっかり受け止めて向き合えたのがこの北京五輪だった。もう十分痛みとか苦しさとか乗り越えてきたので、 もう一度そういうものから解放された滑りがどこかでできたらいいなと思います」
唯一無二のゴールテープを切るために
世界の頂点を極めたアスリートの引き際は、自身以外、誰も決められない。金メダルをとったピョンチャンオリンピックの後。世界記録を出した後。連覇を逃した北京オリンピックの後。端から見ると、いくつもその場面はあったように思うが、引き際の選び方もある意味“唯一無二”だった。
それはことし4月の会見で発表された。
「ことし10月の全日本距離別選手権の500メートルを競技人生のラストレースとすることを決意しました。初めて自分自身でゴールはここって決めたので、スケート競技を最後までやり遂げたいなという気持ちで今はいる」
自らの意思で、地元信州・長野市のエムウェーブをゴール地点に選んだ。
2年前、りんごスーツで優勝を飾った全日本距離別選手権は、シーズンの開幕を告げる大会だ。通常スケーターは半年近いシーズンの中盤から終盤にかけて精度を上げていく。しかし小平さんは、シーズンの半年前に、この最初で最後の1本にかけると宣言した。自分に負荷をかけつつ、それでもこの場所でゴールテープを切ると決めた小平さんの覚悟は、時折発する言葉にも表れていた。
2022年10月3日
「氷の上で発見を楽しむ時間を積み重ねることに変わりはないが、時間の密度をすごく感じていて重みがある」
「感情が高まる部分はあるが、感覚を研ぎ澄ます時間を大切にしていきたい」
「レース本番は、感覚を研ぎ澄ませた本物のアスリートとしての滑りを多くの子どもたちに見てほしい」
2022年10月20日
「自分の感覚と、氷から受け取る感覚が意気投合してきている。感情の扉が開く隙がないほどないほど夢中になれている」
「ありのままでリンクの上に立っていたい」
小平さんの集中力は、究極まで研ぎ澄まされていた。
2022年10月22日。全日本距離別選手権の2日目。エムウェーブは、長野オリンピック以来だという超満員6000人以上の観客で埋め尽くされた。
会場では両親や多くの知り合いも見守っていたが、レースが終わるまでは感情が動かないよう、あえて観客席は見なかった。
最後から2組目。無心で氷上にブレードを乗せた。
わずか30秒あまりに、すべての学びが詰まっていると話していた500メートル。最後は、初めてスケート靴を履いた小学生のころを思わせる、無邪気で、自由で、楽しげな姿でゴールを駆け抜けた。
37秒49。
ただ1人の37秒台で有終の美を飾ったラストレース後、ようやく、ゆっくり観客席の一人一人の顔を見ながら手を振った。
「鳥肌を越えて心が飛び出しそうだった」
「長野オリンピックで憧れたこの舞台が、オリンピック以外で、何かそれ以上の景色としてみんなと創り上げられたことが本当に幸せ」
「会場が温かく包まれているような感じで、心震えた瞬間でした」
「オリンピックでメダルをとった時よりも価値のあるものだと感じました。どのシーンにも置き換えることのできない幸せな時間でした」
屈託のない、充実感にあふれたその表情から発せられた言葉は、これまでの彼女の発してきた言葉とはまた違う、軽やかさと爽やかさを含んでいた。
レースの後、「私からのプレゼント」と、3年前の台風で被災した地元の農家の方から購入した1000個のりんごを子供たちなどに贈ったのも、ラストレースをこの場所に選んだ大切な思いの表れだろう。
たどり着いた「唯一無二の自己表現」
引退の記者会見で私は、もう1つの問いかけをした。
「記録や順位の先にあるもの、小平さんしか見えない景色、その境地には達することはできましたか」
「スピードスケートを通しては全う出来たんじゃないかなと思っている」
「氷上に、またあの空間に私の表現する全てを描けたと思うし、何よりあの場所にいた全ての人があの空気を作り出してくれていたと思うと今でも心が震える」
2年前、彼女が発した「心を震わせるレース」。この言葉にたどり着くまでにどれだけの思いをしてきただろうか。北京オリンピックの後、彼女が口にしたのは、メダルに届かなかった悔しさではなく、1つの願いだった。
「氷としっかりやりとりをして、会場の空気を温かく包み込めるようなそんなスケーティングができたらいいなと思う」
彼女はラストレースを優勝で終えた。しかしその“結果”だけに称賛が向けられたのではない。
信州大学卒業後、所属先が決まらず苦しんでいた姿。
メダルを逃し、悔し涙を見せた2014年のソチオリンピック。
足のケガで不本意な結果に終わった北京オリンピック。
今置かれている状況で必死に最善を尽くそうとする姿、幾多の不安や葛藤を背負いながら前を向く強さ、地元で起きた台風被害と真摯に向き合う人間力。全部ひっくるめて私たちに見せ続けてくれた希代のアスリートへの惜しみのない敬意が込められている。
そんな競技人生の最後に地元の人と創り上げた歓喜のエムウェーブ。1人のアスリートの生きざまが呼び起こした周囲の共鳴。それは「唯一無二の自己表現」と呼ぶにふさわしいものだった。彼女だけに見えていた、本当に目指していたゴールにようやくたどり着いた瞬間を、彼女らしい言葉で語ってくれた。
「まるで誰かが両端でゴールテープを持って待ってくれていたような、そんなゴールでした」
知るを愉しむ
アスリートとしては1つの区切りをつけたが、“唯一無二の自己表現”の探求に“引退”はない。小平さんは、来年1月から母校・信州大学の特任教授に就任する。
「スケートは自分に多くの素晴らしい出会いをもたらしてくれたが、自分の人生はスケートだけにはしたくない。学びを続ける上でも、これまで経験のない不慣れな場所でも恐れずチャレンジして、知るを愉しみ、唯一無二の自己表現を目指していきたい」
「私がスケートで磨いた人間性というのは、一緒に競い合う仲間をリスペクトすること。違う思考の持ち方や、いろんな人と接する中で違いを分かろうとする。数字や順位で自分や人の価値を決めつけないでほしいということを子どもたちに伝えていきたい」
まだ36歳。小平さんは人生の新たなステージで今後どのようなことばを発し、どんな「唯一無二の自己表現」を見せてくれるのか。彼女の生きざまに魅了された一人として、これからの歩みを見続けていきたいと思っている。
編集後記
ラストレースから6日後、NHK長野放送局の緊急生放送特番に出演してくれた小平さん。本番前、少しでも彼女の思いに迫っておこうと、打ち合わせがてら、これまでの自分の取材実感をぶつけてみました。小平さんは笑顔で「田中さん、今はあまりお話しするのはやめておきましょうよ。考えすぎるのは良くないですよ。本番は感じたまま楽しみましょう」と優しく制してくれました。ついつい肩に力が入り過ぎた、プロにあるまじき私の気負いを見透かしたうえで、一流の気遣いでリラックスさせてくれたのです。
「生放送ってたくさんのカメラがあって、多くの人が関わっているんですね。テレビの世界もみんなで作り上げるという感じですごいですね」
選手時代とはひと味違う、小平さんの柔和な表情がとても印象的でした。
「金メダリスト小平奈緒という特別視ではなく、信州で暮らす一人の市民としてみなさんと一緒にいろんなことを楽しめたら」
そう話してくれた小平さん。これからもぜひ一緒に伴走させてくださいね。
長野放送局アナウンス 田中寛人
2004年入局。坂城町出身。東京アナウンス室をへて2018年から長野局。イブニング信州を担当したあと、今年度からどどどど信州イチオシ、ゆる信ワイドMC