今も熱い!川中島の戦い

NHK
2022年5月24日 午前10:49 公開

あの武田信玄から手紙が届いた!しかも、日本の合戦史上でも有名な川中島の戦いの最中に。一体どういうことなのか。さらには川中島の戦いに関する新たな動きも。

川中島の戦いは今から450年以上も昔の出来事。何が起きているのか。とにかく気になったので、調べることにした。

(斉藤光峻)

信玄から届いた書状

晴信の署名があるこの書状、あの武田信玄が書いたものだ。晴信は信玄が出家する前までに名乗っていた名前だ。時は天文24年、西暦にすると1555年の7月と記されている。

この書状を買い取ったのは、長野県千曲市にある長野県立歴史館だ。京都の古書店から約286万円という金額だった。

1555年といえば日本は武士たちが群雄割拠する戦国時代のまっただ中で、戦国時代の三英傑と称される織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、駆け出しの大名だったり、何をしているかよくわからなかったり、人質だったりという時期だ。

信玄は何を書いた?

では、武田信玄はこの書状に何を書いていたのか。

入手した歴史館文献史料課の村石正行課長が説明してくれた。

「長野市の綱島というところがあるが、その綱島の再興について、『あいわたし候』、綱島に城を作る時に、清野さんが目録を提出して、その中から綱島城を修復するのだが、その際にお金を使ったという内容が書かれている。具体的に清野は、今の長野市の松代に名前が残っていて、おそらくそこの出身の武士に対して武田信玄が出した古文書だ」

清野とは宛名の清野左近太夫信秀のことだ。

書状では信玄が信秀に本陣を整備する費用を負担させるため、信秀から領地の帳簿を預かったことに対し感謝が述べられているというのだ。この書状の意義について村石課長は次のように指摘する。

「戦いの後の落ち着いた段階で褒美をあげるとか、感謝状をあげるという文書は何点か残っているが、戦いの最中に城の修復に関係するものが残っているのは大変貴重だと思う」

この時はいわゆる武田信玄と上杉謙信の両軍による川中島の戦いの最中だったのだ。川中島の戦いは両軍が信濃(現・長野県)をめぐって10年以上にわたって激突したもので、直接の対戦は5回あったとされている。江戸時代に合戦の浮世絵が描かれたことなどで大衆にも広く知れ渡り、戦国時代を代表する戦いとして語り継がれている。

信玄は自身のサイン「花押」つきで、清野信秀が合戦に関して貢献したので本来徴収する税金を一部免除するとしている。甲斐の信玄にとって信濃はよそ者であり、戦闘以外で他国を統治するのに苦心していたことがわかる書状だと読み取れるというのだ。

「川中島の戦いは、江戸時代に印象づけられた第4回目の戦い、華々しい一騎打ちというイメージが強い。ただ、今回の書状からは武田信玄が地域の住民たちをどのように懐柔しようとしていたかという新発見の内容も含まれているので、川中島の合戦をもう一度考え直す機会につながればいいと思う」

川中島の古戦場で

信玄の手紙にとどまらず、川中島の戦いをめぐる新たな動きが長野市でも起きていた。

それは長野市にある市立博物館だ。博物館がある場所は、信玄と謙信が激突したとされる第4次の古戦場跡にある。

博物館では館内をリニューアルし、川中島の戦いに関する展示室を新設した。その費用はなんと約8000万円。よろいや馬標、県内各地に伝わるゆかりの品などが並ぶ。

動画でも戦いを知ることができる。最も激戦となったとされる第4次の戦いについて紹介しているのだ。武士たちが身につけている槍や防具、それに馬の大きさを当時の史料から再現し、リアリティーにこだわっているのが特徴の1つだ。愛知県から訪れた男性は展示を見て「これだけ詳しくやっていればいい。素晴らしいと思う」と感想を述べていた。

「川中島の戦い」は計5回?

さらに新たな発見もある。信玄と謙信による「川中島の戦い」は計5回とされてきたが、この新しい展示室ではそのことに対する異論も示されている。「川中島の戦い」は1564年の5回目が最後で、それ以降は戦っていないとされているが、博物館では最新の調査・研究から実はその後も両軍による合戦があった可能性を示唆しているのだ。

ほかにも、博物館ではゆかりの史跡を巡ってほしいとして地図やQRコードで県内の「川中島の戦い」を紹介している。

博物館学芸員の原田和彦さんは川中島合戦の“新たな可能性”を次のように期待する。

「研究はかなり進歩するので物の見方はどんどん変わっている。今回の展示は新しい研究や視点も含まれているで、これを始まりにして武田と上杉がどう戦ったのかを現地で知ってもらうきっかけづくりの場所にしていきたいと思う」

長野市立博物館の川中島の戦いの展示室は、善光寺御開帳にあわせて新設されたもので、観光客の誘致も狙っての意味もあるという。確かに、全国的な知名度のある川中島の戦いを観光客誘致に利用しないという方法はないと思う。

なお、長野県立歴史館の「信玄の書状」は2023年春ごろに一般公開される予定だ。

(取材後記)

戦いは終わっているが、なぜこれほどまでに注目を集め続けるのか。取材をしていると、450年以上がたってもなお、新たな書状が見つかり、武田信玄の心理や行動の背景をかいま見ることができた。歴史に詳しくはない私だが、信玄に興味がわいてきた。武田氏の領国経営についてはより詳しく知りたくなり、その経営の中心となった甲府市にある躑躅ヶ崎館跡に行ってみたいと思うようになった。

ことば解説:川中島の戦い

1553年、55年、57年、61年、64年の5回に渡って信濃(現・長野県)で甲斐(現・山梨県)の戦国大名、武田信玄と越後(現・新潟県)の上杉謙信の両軍が戦った合戦。1561年の第4回の戦いは最大の激戦となり、信玄と謙信の一騎打ちがあったなどと伝わる。江戸時代に浮世絵となって庶民にも広く伝わり、軍記物「甲陽軍鑑」の影響で合戦は著名になったとされる。合戦は多数の小説の題材となったほか、映画やドラマにもなっている。

長野放送局記者 斉藤光峻

2017年入局。現在は警察・司法キャップ。軽井沢町で起きたスキーツアーバス事故の取材を一貫して続けている。