「真実を知りたい」
中学3年生の息子を交通事故で亡くした父親のことばです。
事故は7年前のことですが、長野地方検察庁はことし1月、車を運転していて中学生をはねた会社員を「ひき逃げ」の罪で在宅起訴したのです。
会社員には過失運転致死罪で有罪判決が下され、すでに確定しています。
それなのになぜ再び会社員は起訴されたのでしょうか。
そこには事故の真相を明らかにしたいという両親の“執念”がありました。
(大谷紘毅)
自宅の前で衝突音
和田善光さん(51)と真理さん(50)。
7年前の平成27年3月23日の夜、息子の樹生さん(15)を突然失いました。樹生さんは佐久市の横断歩道を渡っていたところ、右側から走ってきた車にはねられて搬送先の病院で亡くなりました。樹生さんがはねられたのは自宅の前で、両親は自宅で大きな衝突音を聞いていました。
「大きな衝突音を聞いて外に出ると、息子の倒れている姿を見た。被害にあったのが樹生だったということに気が付いた。現実とは思えない気持ちだった」(真理さん)
「樹生の顔を見たが、本当に信じられなかった。何でこんなことになったんだ」(善光さん)
スポーツにも勉強にも真面目に取り組む性格で、2人の妹の面倒もよく見ていたという樹生さん。念願の志望校に合格し、事故の翌月の4月からは高校生という時でした。両親は、樹生さんが高校に通うことがないとは想像したこともなく、悲しみのふちに沈みました。
事故の状況と裁判
悲しみから立ち直る間もなく開かれた会社員の刑事責任を問う裁判で、その事故の状況が明らかになります。会社員は飲食店で友人らと酒を飲み、車で二次会へ向かう途中に樹生さんをはねたのでした。はねたあと1度は車を降りてあたりを見渡したものの、樹生さんを発見できなかった会社員は、現場を離れて飲酒をごまかすための口臭を消す商品をコンビニに行って買っていたのでした。
こうした事実を知った両親は「ひき逃げ」の罪にもあたるはずだと思いましたが、検察が起訴したのは過失運転致死の罪だけでした。「ひき逃げ」については、会社員がコンビニに寄ったあとに現場に戻ったことなどを理由に起訴しなかったのです。
事故から半年後に会社員に言い渡された判決は執行猶予つきの禁錮3年でした。樹生さんの両親は到底納得がいきませんでした。
(真理さん)
「事故後の救護は本当に1分1秒が被害者の生死にかかわることなのに、ほかの行為を優先したことが何の罪にも問われずに終わっていいわけがない」
両親の戦い
判決を受け入れることができなかった両親は行動に移します。目撃者の証言を集めました。さらには現場周辺の防犯カメラの提供を受けて映像の解析を専門家に依頼しました。 真相究明のために独自に調査を重ねた両親は事故から2年以上がたった平成29年5月、会社員を「ひき逃げ」などの罪で告訴したのでした。
しかし、そうした努力もむなしく、「ひき逃げ」については不起訴、起訴されたスピード超過の道路交通法違反も裁判所が「法定速度を超えていたとの検察の主張には疑いが残る」として退けます。
その後、両親は「ひき逃げ」不起訴について、検察が事件を裁判にかけなかったこと(不起訴)のよしあしを審査する検察審査会に不服を申し立てます。検察審査会は「不起訴不当」と議決しましたが、検察が会社員を「ひき逃げ」で起訴することはありませんでした。
それでも諦めきれない両親は、何度も検察官と面会して再捜査と起訴を要望する上申書や嘆願書を提出し続けます。提出した書類は約150通にものぼりました。
(善光さん)
「真実を明らかにすることが樹生のために出来る最後のことだと思った。『事件の真実を知りたい』、これが原動力となっていた」
大切な息子を失った両親の執念が実ったのか、ことし1月、検察は会社員を「ひき逃げ」の罪で在宅起訴したのです。時効まで残り2か月を切った時期でした。
7年前の事故で、しかも判決が確定している中での起訴。交通や刑法が専門の北海道大学大学院法学研究科の松尾誠紀教授は何度も不起訴になった同じ罪で起訴となるケースは極めて異例だと指摘します。
「大変珍しいケースだと思う。通常であれば1回でひき逃げも起訴されているのが普通の状態だと思う。被告側はコンビニに寄ったあと車両を止めて現場に戻ったことを理由にひき逃げが成立しないと主張するのではないか。十分に確認をすることなくコンビニに行ったことや、警察・消防に通報していないことが、この裁判でどう扱われていくのかという事に注目したい」
ついに迎えた初公判
そして、6月15日、長野地方裁判所で「ひき逃げ」の初公判が開かれました。今は長野県外に住む樹生さんの両親も傍聴のために駆けつけました。
被告の会社員はグレーのネクタイ姿で弁護士とともに静かに入廷しました。
会社員が問われた罪は、人をはねたあとに必要な救護をしなかった救護義務違反と事故の必要な事項を警察に報告しなかった報告義務違反の「ひき逃げ」です。
起訴状が読み上げられたあと、裁判官から起訴された内容を認めるかを問われた会社員は「(間違い)ございません」と静かに答えました。
ところが、打ち合わせた内容と違っていたのか、弁護士からの要請で検察側の冒頭陳述のあとに改めて起訴内容を認めるかの質問が行われることになったのです。
検察側の冒頭陳述です。
「はねた認識があったにもかかわらず、警察や消防に通報をしなかった。酒の臭いを隠すためにコンビニへ向かって口臭防止用の商品を買って服用し、被害者が倒れていた場所に行ったのはおよそ10分後だった」
そのあと、弁護士から「自分が行った行為がひき逃げに当たるかどうか裁判官に判断して欲しいか」と尋ねられた会社員は「はい」と答えます。
そして、裁判官とのやり取りです。
裁判官
「救護も報告の義務も果たしたという認識でいいか」
会社員(被告)
「はい」
会社員は起訴内容、つまり「ひき逃げ」を否定したのでした。
弁護士も無罪を主張します。
「被告人は救護義務を果たそうと、いったん車を降りてしばらくひかれた人を探したが見つからなかったため、コンビニへ向かい物品を買った。しかし、その後に心肺蘇生などの救護措置を講じているのでひき逃げは成立しない」
さらに、弁護士は同じ事件を2度裁くことを原則として禁じる「一事不再理」にあたるので裁判を打ち切る「免訴」を求めたのでした。
初公判を終えて
裁判後、両親は会社員の態度に悔しさをにじませました。
「この日を迎えるまでとても長かった。(救護せずに立ち去った)事実を認めていながら無罪を主張していて、7年間、何も反省せずに過ごしてきたと感じ、ショックを受けた」(真理さん)
「被告には本心からひき逃げではないと考えているのか、胸に手を当てて考えて欲しい」(善光さん)
初公判のあと、その内容を報告するため両親は樹生さんが眠る墓を訪れ、静かに手を合わせました。
母親の真理さんは涙を流しながら胸の内を明らかにしました。
「無罪を主張するなんてありえない。墓を訪れて悔しさがこみ上げてきた。被告に反省の機会を与えてもらえるような判決を出してもらい、墓前で報告できればいいと思っている」
【取材後記】
「あなたの両親はあなたが社会人として働き始めたときに親戚や友人にそのことを話したかもしれない。しかし、和田さんは息子のそうした姿を話すどころか、見る機会すら奪われてしまった」
裁判の傍聴に来ていた女性のことばです。女性の息子は幼稚園の時、樹生さんと同級生でした。樹生さんは平成11年生まれで、私は平成10年生まれ。生きていれば私と同じように働いていたかもしれません。同じ世代なのに中学生で未来が奪われてしまうとはどういうことなのか、そんな思いから取材を始めました。これからも樹生さんの両親や裁判の取材を続けます。
長野放送局記者 大谷紘毅
2021年入局。警察・司法を担当。関心がある分野は交通関係。