ことしの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した信州ゆかりの武将と言えば、木曽義仲です。「粗野」や「乱暴者」として描かれることが多い義仲ですが、調べてみると長野にはゆかりの場所が数多く残され、郷土の有名人や自然を歌った県歌の歌詞にもなっています。さらには、生き方にほれて漫画を描いている人までいます。なぜ義仲の人物像がこれほど違っているのか。その答えを求めて、義仲ファンの漫画家と義仲が育った木曽町へ向かいました。
(及川利文)
義仲が好きすぎて
冒頭で触れた長野県の県歌「信濃の国」では、義仲は旭将軍として歌詞に出てきます。実は、この県歌、県の調査で県民のおよそ8割が歌えると答えるほど浸透しています。木曽町に向かう車中、長野県出身のカメラマンに聞いてみると、小学校や中学校の集会などで歌ったそうです。
「義仲は、私の推しです」。
木曽町の案内をお願いした漫画家の西川かおりさんは、義仲に対する気持ちをこう表現しました。西川さんは、長野県上田市出身で、元々中学校の教師でしたが、漫画家に転身。義仲を30年あまり研究しています。
その西川さんと向かったのが、義仲や共に戦った巴御前の歴史を伝える「義仲館」。2021年にリニューアルしたのですが、実は西川さんがプロデューサーを務めました。木曽町職員からの打診でしたが、その理由は西川さんが義仲作品を数多く出版しているからでした。
では、そもそも西川さんはなぜ義仲にほれこんだのか。それは、高校の古典の授業で義仲が死の直前にとったある行動を知ったことでした。
「『木曽の最期』という話の中で義仲は追っ手から逃げているときに、家臣で友でもある今井兼平を心配して振り返り、矢が当たって亡くなるんです。自分の命が危険なときに、友を思って振り返る。その人間性がすてきだなと感じまして。自分よりも人のためという、義仲の人間性がそこに表れていると思います」。
西川さんが、義仲館のお勧めとしてまず挙げるのが、館内のアナウンスです。地元出身の俳優、田中要次さんが「地元のためなら」と二つ返事で引き受けてくれたそうです。
そして、歴史にあまり興味がない人や海外からの観光客にも楽しんでもらおうと義仲や巴御前のゆかりの地が一目で分かるデジタルを使った展示にも力を入れています。展示は「義仲の長野県にまつわる伝承」、「義仲の長野県以外の伝承」、「巴や女性たちに関する伝承」の3つに分けられていて、パネルをタッチすると、逸話に加えて義仲が食事をした場所や腰掛けた岩がある所といったおもしろい伝承を知ることもできます。よく語られることのない義仲ですが、ゆかりの地はわかっているだけでも全国におよそ600もあります。
さらに、義仲館には、“義仲人気”がうかがえる展示もあります。著名人が義仲に寄せた思いなどをまとめたパネルです。
義仲のファンと言われる松尾芭蕉が義仲が戦をした山を見ながら詠んだとされる句。
「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」
そして、芥川龍之介は義仲の人生をこう表現しています。
「彼の一生は失敗の一生なり。(中略)然れども、彼の生涯は男らしき生涯なり」。
実は、祖先が義仲の家臣だった手塚治虫さんも、作品の中で義仲について描いています。
義仲は「差別をしない」
続いて、西川さんに案内してもらったのは、義仲が1180年に平家打倒の旗揚げをした場所とされる「旗挙八幡宮」です。義仲は元服して養父の中原兼遠の元を離れ、この八幡宮の周辺に館を構えて住んだとも伝えられています。地元の人が「敵の様子を把握できるから」と話すのも納得の見晴らしのよい小高い場所にあります。
義仲が育った木曽町の人たちは、義仲をどんな人物だったと思っているのか。旗挙八幡宮の宮司、越取寛昭さんに聞いてみました。
「木曽谷は自然環境が厳しく、人々は助け合わなければ生きていない場所でした。そのため、義仲公は人を助けたり人に頼ったりすることが自然にできたと思います。性別の違いで差別することもなかったからこそ、女性の巴御前と共に戦ったはずです」。
八幡宮の社殿かたわらには、義仲が元服したときに植えられたとも、旗揚げしたときに植えられたとも伝わる樹齢800年余りのケヤキの木があります。歴史を感じさせる大木は、かつてあまりに生長したために“社殿を壊してた”という逸話もあるほどです。西川さんによると、木曽地域にはかつて“義仲の7本ケヤキ”と呼ばれるケヤキが植えられていたそうですが、切られてしまったり枯死したりしてしまって、今も残っているのはこの1本だけ、とにかく貴重です。
義仲ゆかりの寺宝
旗挙八幡宮から直線で1キロほど離れた場所には、義仲一族の菩提寺「徳音寺」もあります。ここには義仲や巴御前、それに家臣たちの供養塔があります。
しかもこの寺には、義仲にまつわるめちゃくちゃ貴重なものが保管されているのです。それは教科書などにも載っている義仲の日常の姿を描いた肖像画です。ところが、住職に作者や絵の由来を尋ねると「不明」だと言います。1711年の大洪水で、寺の多くのものが流されてしまったためです。そんな中でも懸命に“義仲を守り抜いた”、それほど義仲が慕われていたことを示すエピソードでもあります。
この肖像画から、徳音寺の15代目、林義徳住職は義仲の人物像をこう推察しました。
「天下の悪人と言われることもありますけども、そんな風にはまったく見えない。何か1つ大きなことを成し遂げるという気概を感じる、りりしい男だなと思います」 。
義仲はどんな人?
乱暴ろうぜきをする人物として描かれる義仲、地元の人から慕われる義仲。実際にどちらが本当の義仲だったのか、今となっては分かりませんが、木曽町を案内してくれた西川さんのことばが印象に残っています。
「『平家物語』や『玉葉』という貴族が書いた日記などでは、義仲は戦を避けて、いかに平和裏に人の関係をつくっていくかということをした人物だったと描かれています。しかし、『新平家物語』やそこから生まれた作品群では、義仲は悪いイメージで描かれています」
「私は義仲はとてもいい人だったと思っているんですけれども、人それぞれの捉え方で、義仲が後世も語り継がれていくというのが、1番大事だなと思っています」
なぜ義仲の人物像がかけ離れているのかを知りたいと訪れた木曽町で、物事の捉え方や人の評価は、時代や立場によって変わるという本質を突きつけられた気がしました。
長野放送局 記者 及川利文
2012年入局。千葉局、国際部、アメリカ総局を経て2021年から長野局。