続いて向かったのは、仙台市の南側にある名取市。沿岸部の閖上(ゆりあげ)地区は、震災で大きな被害を受けた町の1つです。
閖上は、アッキーも何度も訪れている町。
毎週日曜日に開かれる朝市や…
災害公営住宅に暮らす女性たちに会いに行ったり…
昨年は、自転車で閖上に来ましたね。
今年は、以前お会いした、ある方に会いに来ました。
海のそばに立つ震災の伝承施設「閖上の記憶」の代表を務める、丹野祐子さん。
12年前の津波で、当時中学1年生だった、息子の公太さんを亡くしました。
アッキーとの久しぶりの再会を、笑顔で出迎えてくださった丹野さん。
この施設では、訪れた人に観てもらっている映像があります。
あの日、閖上の町を襲った津波。町の全域を破壊し、700人以上の命を奪いました。
映像を観たアッキーは「閖上という町が、どんな場所なのか、改めて痛感させられた」と 話していました
閖上の町は、海抜5mの高さにかさ上げされ、景色も大きく変わりました。
そんな新しくなった町を、丹野さんが案内してくれました。
最初に向かったのは、「閖上の記憶」からもほど近い、震災メモリアル公園にある慰霊碑です。
12年前のあの日、この慰霊碑と同じ、高さ8.4mの津波が押し寄せました。
そしてこの芳名板には、丹野さんの息子・公太さんの名前や、義理の両親、そして名取市内で亡くなった1000人近くの名が刻まれています。
「ここに名前のある1人1人に、家族がいて、仲間がいて、物語がある。様々な思いを抱えながら生きている人がいる。」
丹野さんに話を聞くことで、とても強く胸に響きました。
そのあと向かったのは、かつて丹野さんの自宅があった場所です。今は、3mかさ上げされ、公営住宅の駐車場となっていました。
「家の周りの風景は、まだ覚えています。ただ、あと3年後とか、5年後とかはちょっと微妙になってきちゃいますね。忘れないと思っていたのに、情けない。」
丹野さんは続けます。
「実は、息子の声が思い出せないんです。動画が残っていないんですよ。ただ、もし今ここで息子に呼ばれたら、振り向く自信はあります。私は、「はは」って呼ばれていたんです。「はは」って後ろから呼ばれたら、振り向けますが、その声を想像することができなくなってしまった。親として情けないし、本当に悲しい。」
公太さんが亡くなったのは、13歳の時。公太さんと一緒に暮らした年月を、震災からの月日が、まもなく追い越そうとしています。
「時間が経てば経つほど、息子がいないという現実が、重くなってきました。」
震災前に閖上に住んでいた住民の多くは、内陸部へと移転する中、丹野さんは5年前に、閖上に自宅を再建しました。新居の2階には、公太さんの部屋を作りました。
部屋にぎっしりと並んでいたのは、週刊少年マンガ誌。
生前、公太さんが、毎週買っていたものです。
「避難所で回し読みをしている子どもたちを見て、公太もきっと続きが気になるだろうなと思った。そこから、また1冊、1冊と買っているうちに、途中で止められなくなった。毎週月曜日にこうして買いに行くことが、私が唯一息子にできる謝罪であり、供養。」
そして部屋には、公太さんが震災当日身に着けていた遺品もありました。公太さんが履いていた片方の靴です
買ったばかりだった新しい靴。片足は、家族のもとに遺していってくれました。
「また、ただいまって帰ってきてほしいな。漫画読んでごろごろしていいよ。ここはあなたの部屋だよって。だから私は、閖上に戻ってきました」
今回丹野さんは、ぜひアッキーにこの部屋を見てほしいと、招き入れてくれました。
「アッキーだから、アッキーに知ってほしい。わかってくれる方になら、見てほしいなって思っています。わかってくれる方がいるから 私はひとりではない。5年、10年と継続して、遊びに来てくれたら嬉しいです」