なぜ女子大は奈良に?

NHK
2023年3月10日 午後6:06 公開

奈良を愛する人たちが奈良県内の歴史や文化の魅力をホリ下げる『ならホリ!』。今回のテーマは「奈良女子大学」です。創立から110年以上たち、地域の人たちから「ならじょ」の愛称で親しまれています。でも、現在、全国に2つしかない国立の女子大の1つが、なぜ奈良につくられたのか、ご存じですか?

当初は別の大学を・・・

一緒にホリ下げていくのは、奈良女子大学教授・野村鮎子さんです。

中国文学やジェンダー研究が専門で、新入生たちに大学の歴史も教えています。さっそく驚きの事実を教えてくれました。

奈良女子大学教授 野村鮎子さん

「実は(東京)上野の美術学校の分校を奈良にという話が最初だったようです」。

なんと当初、誘致しようとしていたのは、女子大ではなかったというのです。時は今から130年余りさかのぼった1887年(明治20年)。東京・上野に東京藝術大学の前身にあたる東京美術学校が設立されました。

設立に携わったのは、奈良の寺や神社の調査を行い、仏教美術の保存に深く関わっていた美術教育家・岡倉天心です。

1896年(明治29年)、奈良に「東洋美術の研究・教育のための拠点を」という岡倉天心からの提案を受け、奈良町(当時)などは広さ約3000坪の土地を準備して誘致を試みましたが、文部省は土地が狭いという理由で却下。もりあがった誘致の火を消してはならないと次にターゲットにしたのが女性の高等教育機関でした。

明治20年代の後半は、法制度の改正によって、女性の中等教育学校の普及が進められた時期でしたが、肝心の女性教員を養成する機関は、東京の女子高等師範学校、現在のお茶の水女子大学に限られていました。東京以外にも女性教員を養成する機関を設立しようという動きに、目をつけたのです。

今度こそ誘致を成功させようと、まちの中心部に広さ2万坪の土地を確保。それが奈良奉行所の跡、現在、奈良女子大学がある場所でした。

正式決定に待った!その相手は?

設置案は1907年(明治40年)、帝国議会の予算委員会で可決され、いよいよ正式に決定という局面を迎えます。ところが、このタイミングで思わぬ横やりが入ります。なんと京都が奈良への設置に反対する建議案を帝国議会に提出したのです。京都と奈良、双方の主張は衆議院の議事録に記されています。その一部を見てみましょう。

《奈良派議員》

『奈良ハ東ハ我國ノ中央ノ大都會デゴザイマスル名古屋ニ直通ノ汽車ノ便利ヲ持ッテ居リマス、西ハ大阪ニ續イテ居ル、北ハ京都ニ續イテ居ル、南ハ和歌山ニ續イテ居ルト云フ関係デゴザイマシテ、綿密ニ地理上ノ便否ヲ比較致シマシタナラバ、寧ロ京都ニ優ルトモ劣ルベキ所デナイト私ドモハ信ズル』。

《京都派議員》

『奈良朝以後王朝時代ニナッテ平安朝以来ノ文物ノ集ッテ居ル所ハドコデアルカ、是亦歴史ノ證明スルトコロ、諸君ガ賓際御覧ニナル通リ京都デス』。

『奈良ト京都ヲ比較スルト云フコトハ、殆ド論ニナラヌノデアル』。

ののしり合いに近いような言葉も飛び交う議論が行われたあとの採決で、建議案は一票差で否決。

こうしたせめぎ合いを経て、奈良への設置が正式に決まりました。

当時の学生生活は?

1908年(明治41年)、奈良女子大学の前身にあたる奈良女子高等師範学校が設立されます。

当時の学生生活をうかがえる貴重な資料などが、いまも残されているということなので、野村さんに教えてもらいました。まず、見せていただいたのが、大学の敷地内にあった「寮の模型」です。

よく見ると同じようなかたちの建物がたくさん並んでいます。なぜかというと、当時は1年生から4年生まで、あわせて300人ほどの学生全員が寮生活を送っていたからだそうです。

寮生活には、厳しいルールがありました。午後7時が門限で、1回でも破れば即退学。「炊事・洗濯・掃除を自分たちでやる」のも決まりで、献立も、自分たちで考えていました。当時の献立表はいまも大切に保管されていて、見てみると、食生活が垣間見えます。

ただ、当時、通っていた学生はほとんどがお嬢様。だれもがはじめからうまくこなせたわけではなかったとか。ごはんが黒焦げになることもあったようですが、捨てるわけにはいかず、メンバー全員が黒焦げのご飯を食べるという事態になったこともあったようです。

寮は国際交流の最前線

国の政策の影響もあって、戦前はアジアから積極的に学生を受け入れていました。1931年(昭和6年)には、およそ6人に1人がアジアからの学生だったといいます。

野村さんを中心とした大学の研究者たちは、今からおよそ10年前、こうしたアジアからの学生や、その遺族に当時の学生生活についてインタビューしたそうです。どんな話を聞けたのかというと・・・

中国出身の元学生

「お割烹の先生は日本人でしたが、餃子の作り方を教えてくれました。私たちは小さい頃から餃子を作っているので、目分量で作れるのですが、先生はきちんと量りなさい、メモを取りなさいというのでおかしくて、おかしくて」。

中国出身の元学生

「寮では上級生が同じ寮の生徒を『うちの子』と呼んでいました。家族みたいで、4年生は家長のようでした。食事も自分たちで、交代で作っていて、中国料理、日本料理の区別なんかそんなになかったです」。

朝鮮半島出身の元学生

「日本に『同じ釜の飯を食う』という言葉がありますが、あれは正しいです。人間の心というのは国籍を超えて結びつくことを私は身をもって知りました。どんな苦境でも乗り越えられたのは、日本にいたころに寮生活の中で培われた自律心、自制心、忍耐力そして他者への思いやりのおかげです」。

寮は国際交流の最前線だったんですね。

女子大の歴史、次世代に

月日は流れ、女子大学に求められる役割は大きく変わりました。

奈良女子大学も去年、全国の女子大学として初めて「工学部」を設立するなど、社会のニーズにあわせて少しずつ形を変えています。

ただ、野村さんは、いくら時代が変わっても、設立当初から変わらぬ「根本」を今後も学生たちに伝えていきたいと考えています。

奈良女子大学 野村鮎子さん

「私は毎年1年生に向けて授業で本学の歴史イコール女性が高等教育を勝ち取ってきた歴史なんだということを伝えるようにしています。ロールモデルになって、次の世代に学びを紡いでいってほしいなと思います」。

千原 ありさ

奈良に来て2年

私も女子大出身です。