<理想の音楽とは>
我々の置かれている状況がそうだとして、その根本的な問いである「音楽とは何か」ということをちょっと話したいと思います。「何か」というのは、自分も分かりません。今はまだ分からないから一生懸命やっているということなんですけれども、最近自分の体験したことで言うと、こういうことがあります。
東京から新幹線で1時間ぐらいのところに、自分の仕事部屋があります。完全な自然ではないですけれども、かなり疑似的というか、自然に近い状況のところです。そこでよく散歩をします。そうすると、風が通っていくのが分かるんですよ。高い木がたくさんありますから。「あ、ここでザワザワっと言っている」というのがだんだん移っていくのが分かるわけです。しかもそのときの音がすばらしいんですよ。ザワザワザワって言ったのが、ふっと変わっていく様が見られる。同じように、例えば木に模様があるんです。長い時間かけて作ったんだなというのがすごく分かるわけですね。人工的なものじゃない。こちらは、それに見入ってしまうわけです。
同じことで言うと、ニューヨークのセントラルパークなどを散歩していますと、去年の秋は落ち葉が多かったです。すごくきれいなんですが、その道路沿いにある落ち葉が、積み重なったように濃い部分と薄い部分とがあるんですよね。その風景の中で見ていくと、すごく自然ですばらしいんですよ。なぜ、そういうかたちになったのか・・・。単純なんです。風がたくさん吹くところは落ち葉が少ない。ちょうど木の幹の陰になっているところにはたくさんある。あるいは、人が大勢通っているところはやっぱり少なくなっている。“自然”なんですよね。
我々は一般に、美術、音楽、全てを含めたときに「芸術」という言葉を使いますよね。芸術はアートですよね。これは人間が作ったものなんです。多くのケースはね。それは人為的に作ったものでしかないんです。ところが、今言った「自然が作ったもの」がありますよね。そうすると、我々がやっている芸術というのは何なんだという話になるわけです。あくまで人為的な自分の思いを込めているという、それだけのことかということになると、大したものじゃないんじゃないかということになるわけです。長い時間をかけて作ったものに対して、僕が今一生懸命曲を書いている。でも、それは何のためなのか?自分は人類のために書いている。そんな偉そうなこと言えるわけないです。正直言って、自分に何ができるかということを、一生懸命書いているだけだった。恐らく多くの作曲家が書いてきたものも、そういうことでしかないんです。単純に言ってしまうと。
ところが、クラシックの歴史で言うと、こういうことがあります。先ほど言った単音から、ポリフォニー、いくつかの声部の音楽になり、ハーモニーになったという歴史があります。その時代その時代の作曲家は、その時代のテーマを抱えている。そうすると、ベートーヴェンの時代にベートーヴェンしかいなかったわけではないんですよ。ベートーヴェンと同じことをやっている人が、全世界で何百人、何千人、何万人といたんです。特に当時は今のように、何かここで起こったらすぐにインスタに上げちゃおうみたいなそういう時代ではないですから。一つのことが他の国に通じて、しかも離れた国に伝わるには5年かかったりするわけですからね。そうすると、その時代は「今はこういう語法だよ」というようなことに、5年、10年、あるいはもっと長い期間、それに携わる人が大勢いたわけですね。ベートーヴェンの陰には数万人の作曲家、もっと言ったらベートーヴェンよりも人気があった作曲家が、当時はいたわけです。
自分のためにも救いのような言い方をしますけれども、自然に対して我々は無力じゃないかっていう考え方もあるんだけれども、そうやって受け継がれてきた、人間同士で作ってきた音楽。時代の語法にあらがいながら、あるいは同調しながら作る。そして、いかに我々は自然になっていくのか。「自然に近づくことが、理想の音楽」なのではないかと僕は考えます。
シェーンベルクという十二音技法、不協和音の原点みたいな人、すばらしい作曲家なんですけれども、そのお弟子さんにベルクとヴェーベルンという人がいます。ヴェーベルンは指揮者としても非常に優秀な人でした。彼の曲はすごく短くて、点描主義と言って、1曲1分とか1分半とか、そういうものがすごく多い。無駄がない素晴らしい音楽なんですが、彼はある講演の中で、「音楽は耳の感覚に関する合法則的な自然である」という言い方をします。
僕も、あまり人に教えることがないんですけれど、教える時に言うのは「こういうテーマでいきたいというのは、それはいい。それはあなたの感性だからオーケーだよ。ただ、それをモチーフにするなら、どうやって構成して、どう発展させて作っていくか。ニューヨークのセントラルパークにある公園のように、いかにもきちんとした自然のようなフォームを、そのモチーフを使って、どう発展させて一つの曲にまとめるか。そこが作曲ということのいちばん重要なところである」と。つまり、単に音を並べるだけではなくて、何らかの秩序ある造形物にする。それがいわゆる音楽であり、作曲家、人類がやっていく音楽である。その音楽が結果的に、人に勇気を与えたり、その時代を反映したりするようなことができるんだったら、これ以上幸せなことはない。ですから、作曲を志すというのは多くのケース、ムードです。雰囲気で、気持ち泣ける。そういうのが音楽だと思われているけれど、今日言ったようなことがバックグラウンドにあります。
ですが一方で言うと、一般の社会の中でも、例えば経済でも、マルクスなんかが言っているのは、「経済はムードである」ってはっきり言っちゃっています。景気がいい悪いうんぬんというのはムード。一般の人たちのムードで、実は論理的な構造で決められているわけではない。「ムード」「論理」「感情」「理性」。そういったものがごちゃごちゃする中で、自分の道を探していく。答えはないと思うんですが、それをいつも考えながら生きていくのが、いちばんいいんじゃないかと思います。
ああ、大変なこと言っちゃった。
<世界の中で音楽を考える>
世界の中で音楽を考える。今、僕は、1年の半分以上、海外でコンサートをするということが多いです。
※映像(開始点58分40秒)とあわせてご覧ください。
見ていただいたのは、ニューヨークのラジオシティミュージックホールというところの映像と、ヘルシンキで行ったコンサートの映像です。
これを始めたきっかけというのは、僕は別に留学もしたことがなくて、ほとんど日本だけで自分で工夫しながら音楽を作ってきた。大学時代も授業をほとんど出ていなかったし、私はあまり真面目な学生ではなかった。だけど必要に迫られたところで、一生懸命自分で覚えてきた。そうすると、自分の音楽がどのぐらい通じるのかな?世界の中で、自分はいったいどういう位置にいるんだろうと思った。お話が来たものをこなしていったというか・・・それで今、すごく大変な数、海外でコンサートを実際にやっています。
多くの人たちと同じように、僕もそうなんですけれど、海外に行った時、いちばん何を考えるかというと、日本のことを考えているんですよね。ですから例えば、今のVTRのように「こんなにみんな立ち上がってワーワー言っているのに、日本というのは寝ているのかな?というくらいに静かだな。お客さんは」とかね。「これは外国でやった方が楽しくないか?」みたいなことを思ったりします。でもこれは結局、“民族性”なんですよ。楽しんでいるんだけれど、それを表立って表現していない。それは日本人の美徳でもあったりするわけですよね。
実はね、それと同じようなことが演奏の上でも起こってしまうんですね。日本のオーケストラとリハーサルをします。そうすると、初日の段階である程度高いレベルまでいっているんですね。海外のオーケストラとやると、すぐに止まってしまったりします。「これでどうするんだ?できるのか?」みたいな感じがします。2日目、3日目とこなしていきますよね。そうすると、もともとある程度高いレベルまで来ているんだからすごいだろうと思うんだけれど、あまり日本って伸びないんですよ。初日の演奏から本番までの“のりしろ”があまりないんです。つまり、出だしからかなりきちんと整然と演奏する。出だしからお行儀がいいんです。ところが、外国って本当に好き勝手。「この野郎、好き勝手に弾きやがって」みたいな感じがあるんですが、2日目、3日目になってくると、暴れているのがだんだん収まってくるんですね。そうすると3日目のリハーサルが終わって本番になるころになりますと、大きい音楽ができているんですよ。すごく歌う。「おっ、そこまで来るんだ」という経験があるんです。
日本は、できた音楽ってそんなに大きくないんですよ。そうすると「もしかしたら日本の教育って間違っているんだよね」って僕は思います。音楽をする喜びをきちんと教えていないから。音楽を教える時に何をやるか。正しいピッチ、正しいリズムで演奏しなさい。その前に、音楽は一体何のためにやっているんだという話になった時に、もっと人に訴えかけるもの、人に何かを伝える、例えばそういうようなことに関してやりきれていない。外国は自分がこの音を出す喜びというのを感じながら弾いている人が、オーケストラでもとても多いです。身勝手な連中もいるから、ふざけんなというのもすごく多いです。多いんですが、結果的にどっちがいい悪いじゃないんだけれども、そういう体験をしていく中で、僕は自分の音楽がどうあるべきか、どうやったらより伝わり、できていないことをどう克服するか、それが今度は自分の課題になりました。自分が体験したように、もっと若い人は海外に出ていってほしい。慣れ親しんだところにいるのではなくて、大変かもしれないけれど、一歩踏み出して、自分の世界を広げていく。そこで見えてくる景色から自分をより高める、見直していくということは全然損じゃないと思うから、そういうことをやったらどうかなと思います。
僕なんかもいい年なんですけれども、まだやらなきゃならないことが結構あります。ですから例えば、まだ自分が本当に気に入った曲ができているわけではいから、もっともっと書かなきゃいけないものがいっぱいある。課題は、みんなそれぞれ見つけられる。
僕の座右の銘を一つ紹介しますね。「昨日の自分であってはいけない」。昨日と同じ自分であってはいけない。昨日と同じ自分と同じことをやってはいけない。だから変わっていく、自分を変えていく。そういう努力をしていくことで、1年たって振り返ったら、あのときはこう考えていたんだけれど、今はこうなったな。そういうふうになった方がいいかな。少なくとも自分はそうやっていきたいと思っています。