NHKアカデミア 第1回 <生命科学者・山中伸弥>

NHK
2022年4月26日 午後11:55 公開

皆さん、こんにちは。山中です。今日のキーワードは、「VW」と「NAT1」です。なんのこっちゃ?と思われるかもしれません。iPS細胞ができるまで、そして、できたあとも日々悩み、苦しみ、もがきながら、どうやって奮闘しているか。皆さんにご紹介できたらと思っています。

「NHKアカデミア」という新しい企画の第1回です。私がトップバッターです。ということで、ちょっと緊張しております。今、コロナ禍という予想もしなかった出来事が世界を襲って、いつもよりも悩んで、いろいろな思いをお持ちの方が多いと思います。こんな中で、私の経験、話が、少しでも皆さんのお役に立つことを願っております。 

<出発点>

まず今日は、恩人のうちの一人の話から始めたいと思います。この写真の男性、これが私の最初の恩人です。実は、私の父親です。山中章三郞といいます。息子の私からみても、なかなかハンサムで、特に私からみると、髪の毛がうらやましいなといつも思っています。父はですね、自分で小さな小さな町工場を営んでいました。非常に元気な父親だったんですが、輸血が原因の肝炎、肝臓の病気になってしまいました。

当時まだ、原因がわかっていないので治療法もないものですから、あれだけ元気だった父親がどんどん顔色が悪くなり、入退院を繰り返すようになりました。その中で、私自身が医学への興味を強く持つようになりました。

父の勧めもあって、神戸大学の医学部に入りまして、1987年に卒業して外科医を志しました。しかしですね、残念ながら私には外科医の才能はなかったみたいで、周りの指導医の先生から毎日怒られると、これはダメだと、外科医としてはやっていけないと、そういう思いも強くなりました。そんな中で、このまま外科医でやっていくよりも、研究者になりたいと思いました。父親のような、今は治療できない病気やけがを、将来治すことに貢献できるんじゃないかと、そんなふうに思って進路を大きく変えました。ま、と言うとかっこいいんですけれども、ある意味、外科医の修行から尻尾を巻いて逃げ出したというのも、正しい表現のような気がします。でも結局、外科医を諦めたことが、iPS細胞につながっていったわけであります。

この留学先を探すのも、ずいぶん苦労しました。何せ外科医を逃げ出した私です。たった4年間しか研究の経験がないわけですから、なかなか採ってくれるというところがありません。30か所くらいに手紙を書いて、「私を採用してください」と。その手紙の中には本当はできないような実験も、「こんなこともできます。あんなこともできます」と書いて、一生懸命アピールしたのを覚えています。そのかいがあって1993年に、サンフランシスコにありますグラッドストーン研究所に留学しました。もう飛び上がるほどうれしかったのを覚えています。

そこから3年半が、研究者として、そして私の人生そのものにとって、かけがえのない時間となりました。たくさんのものを学び、たくさんのものに出会いました。その中でも二つ、この期間に出会ったものがあります。一つ目は「VW」です。

このVWを私に教えてくれたのは、ロバート・マーレー先生です。当時のグラッドストーンの研究所長、今は名誉所長です。マーレー先生が、あるとき私たち若い研究者を集めて、「研究者として成功するための秘訣を教えてあげよう。それはVWだ」とおっしゃいました。この場合のVWは、もちろんドイツの車の名前のことではなくて、「ビジョン(Vision)&ワークハード(Work Hard)、ビジョンのVとワークハードのWだ」というふうにおっしゃいました。

非常に短い、たった2文字の言葉ですが、非常に私にとっては強い、心に響いた言葉です。私、そしてほとんどの日本人にとって、ワークハードというのはあまり問題ないと思います。一生懸命みんな働いています。

ところがですね、「ビジョンを持っているか?」と言われると、あれ?って。僕は何のためにこんな一生懸命働いてるのかな、何のために一生懸命遅くまで勉強しているのかなと、実はわからない人が多いんじゃないでしょうか。僕もそのとき、すぐ答えられなかったんです。私は「一生懸命研究をして、いい論文を書いて、たくさん研究費をもらって、偉くなりたいからです」とか一生懸命答えて、本当にそう思っていたんですけれども、マーレー先生は「それはビジョンじゃない」と。「それはビジョンを達成するための手段だ」とおっしゃいました。「何のために研究してるんだ。何のために小さい子どもさんと奥さんを連れてアメリカまで来てるんだ」と言われて、ようやく私は自分のビジョン「何のために研究者になったか」を思いだしました。それはですね、「生命の謎を解明して、今は治せない病気やけがを将来治すようにしたい。そのために研究しているんだ」という、そんな大切なビジョンを忘れていたんですが、それを思いだして、それ以降自分のビジョンを忘れないようにしています。私にとっては本当に大切な、大切なVWという言葉です。

もう一つ、この時期に私が見つけた大切なものがあります。今日の二つ目のキーワードですが、「NAT1(ナットワン)」です。

これは私が名づけた遺伝子です。留学中に自分自身の研究で見つけた遺伝子です。調べていくと、全身すべての細胞で働いている。皮膚の細胞でも、血液の細胞でも、心臓の細胞でも、どこでもこのNAT1という遺伝子、設計図は、必ず使われているということがわかりました。でも、どんなふうに使われているかというのは、初めて見つけた遺伝子ですからわからなかったんです。最初にわかったのは、ES細胞においては、NAT1という設計図がないと、ES細胞として働くことができないということを見つけました。

ES細胞、名前は耳にされたことがある人も多いかもしれません。受精卵から、科学者が人工的に作った細胞です。受精卵が受精すると同時に細胞分裂を始めて、まず図の真ん中にある胚といわれる状態になります。この段階でだいたい数百個くらいまで、細胞分裂が進んでいます。この数百個から、私たちの全身、数十兆個の細胞があるといわれていますが、そのすべてがこの受精卵と胚という細胞からできます。

この胚の状態のものを、培養するのに成功したのが、ES細胞と呼ばれている細胞です。ES細胞は、受精卵や胚と同じ二つの性質を維持しています。

まず一つ目は、ほぼ無限に増えます。

二つ目、非常に大切な能力があります。それは、ES細胞から脳の神経細胞であったり、心臓の筋肉の細胞であったり、体中に存在しているありとあらゆる細胞を大量に作りだすことができる。こういう能力もES細胞は持っています。

私が留学中に見つけたNAT1という遺伝子。調べていくと、このES細胞の二つ目の能力、ここになくてはならない設計図だということがわかりました。NAT1という設計図を働かなくすると、ES細胞は増えることはできるんですが、ES細胞から、ほかの細胞、脳の細胞とか神経の細胞を作りだすことができない。それを留学中に見つけ出しました。

このように研究を始めてからは、自分でもびっくりするぐらい順調で、アメリカの研究もいくつか非常に重要な論文として発表することができて、それなりに注目も浴びて自信たっぷりで日本に帰りました。

ところがですね、帰るときにグラッドストーン研究所の仲間だった研究者が、「伸弥、今度日本に帰るそうだな。日本に帰ったらPADに気をつけろ」と言いました。

<思わぬ挫折>

やっぱり研究環境がずいぶん違うんですね。日本に帰ってくるとさまざまな雑用、僕が特に閉口したのは、実験に使うネズミの世話ですね。アメリカはネズミを世話してくれる人がちゃんといて、僕たちは実験さえすればよかったんですが、当時日本は、ネズミの世話も全部研究者がすると。200匹のネズミの世話、もしモルモットとか飼っておられる方がいたらわかると思いますが、1匹でも大変ですが、200匹の世話というのは本当に大変で、私は自分の仕事が研究者なのか、ネズミのお世話係なのかわからないという時代、しかもそれが何年続くかわからないという中で、実験も進まないということで、まさにPADになりました。朝起きれないんですね。9時になっても10時になっても、家で寝てるということで、かなり危険な状態になりました。

でも、大きなチャンスが突然舞い込んできました。この奈良先端科学技術大学院大学で、自分自身の研究室を持たせていただくという、非常に大きなチャンスをいただいたものですから、「よし、ここから研究者としてもう一度仕切り直して頑張るぞ」というつもりで行ったのを覚えています。

<掲げたVision>

先ほどES細胞の紹介をしました。ES細胞は無限に増えて、ありとあらゆる細胞を作りだすことができますので、万能細胞と呼ばれることがあります。すばらしい細胞なんですが、たった一つハードルがあります。それは、特に人間のES細胞がそうなんですが、受精卵を使わないとできないという課題です。

人間の受精卵は命の始まりです。この受精卵を、例え研究のためとはいえ、命のほう芽になる以外の目的で使う。これが世界中で議論を引き起こしていました。

ということで、私は何とかですね、ES細胞と同じような万能細胞を、受精卵からではなくて大人の皮膚の細胞、私たちの皮膚の細胞から細胞の運命をリセットして作れないかと。これを研究室のビジョンにしました。

すべての細胞、皮膚の細胞もES細胞も受精卵も、設計図は同じなんですね。設計図が同じですから、何とかリセットボタンを探して押せば、皮膚の細胞になっていたものも、もう一度受精卵の状態に戻せるはずだというのが、私がそのときに思ったことです。

何年かかるかわからないと、10年、20年、というか、一生かかってもできない可能性のほうが高いということはよくわかっていたんですが、学生さんには、「このビジョンが達成されたらどんなにすばらしいか。どれほど医学に貢献できるか」と、一生懸命アピールしたことを昨日のことのように覚えています。

そうしますとですね、3名の学生が入ってきてくれました。私にとっては初めての大学院生、一生忘れることのできない3人です。実験が一気に進み出したのを覚えています。

<異分野の視点 iPS細胞発見へのブレイクスルー>

さて、奈良先端大というのは非常にユニークな大学でした。私のような医学を研究している研究者もいましたが、それ以外に、いろんな分野の人が同じ建物の中で一緒になって研究をする。それまで私が経験したことのないような環境でした。私が着任して数か月後に、そういうほかの研究者、教授の前で、自分の研究を紹介するという機会がありました。

私は、「皮膚の細胞を万能細胞にしたいと思っています。でも、これは非常に難しいということも覚悟しています」という話を正直にしました。

私の話が終わると、一人の教授が前にやってこられて、こんな話をしてくださいました。「山中さん。今、なんだか万能細胞を作るのをずいぶん難しいふうに言ってたけれども、植物って全身が万能細胞だらけなんだよ」と。

確かにそう言われると、植物というのは、茎をスパッと切りますと、その切った枝なり茎なりを土等に挿すと、そこからまた、根ができ、新しい植物ができることがわかっています。だから植物にとって、体の細胞から万能細胞を作るというのは簡単なことなんですね。

これが、ずっと医学の研究をしてきた私にとっては、ほんと、目からうろこでした。自分で勝手に、自分のやっていることは難しい、たぶんできないだろうと思っていたんですが、もしかしたらできるんじゃないかと思うようになりました。実際、そんなふうに自分のマインドセットが変わったことによって、研究の進む速度がグンと変わったのを覚えています。こうやって異分野の人と、ひと言、ふた言でもいいんですが、話をする。この機会は、本当に大切だと今でも思っています。

(iPS細胞は)できてみると、自分たちでもびっくりするくらい簡単な方法でできました。4つの遺伝子・設計図を、同時に、皮膚の細胞に外から送り込みますと、本当にあら不思議と、皮膚だった細胞の運命がリセットされて、ES細胞と区別のつかない細胞ができました。

iPS細胞は京大に移った2006年に論文として報告しましたが、2005年にはほぼ完成していました。だから、奈良にいたときにほぼできていた、一歩手前までいっていたんですね。でも、奈良にいたときは、一歩手前にいるとは、これっぽっちも思っていませんでした。まだまだ僕たちは遠いところにいると思っていたんですが、自分たちでも見えていなかったものが、いきなり目の前に現れた。それがiPS細胞でした。

<リーダーとしての挑戦>

iPS細胞研究所という新しい研究所を2010年に設立いたしました。最初の所長が私で、12年間にわたって務めました。こちらは大学の研究所なんですが、iPS細胞の医療応用を目指すという明快な使命、ビジョンがあります。

iPS細胞の医療応用というのは、大きく分けて二つあります。一つ目は、iPS細胞から作った細胞を患者さんに移植して機能を再生するという再生医療です。

もう一つの大切な使い方が薬の開発です。患者さんが病気になっておられる部分の細胞、例えば、脳の病気の方であれば脳の細胞、心臓の病気の方であれば心臓の細胞を大量に作りだす。そして、病気の原因を調べる。さらには、その病気の進行や病気の発生を抑えるような薬を探す。

アルツハイマー型の認知症とか、いくつかの難病に対する薬の候補をすでに見つけていまして、大学病院を中心として臨床試験を今すでに行っているところです。

このようにiPS細胞の医療応用、ずいぶん進んできました。でもですね、大学の私たちにできることというのは実は限界があります。新しい医療を、本当の意味で患者さんに届けるためには、製薬企業等の大手の企業が本格的に開発に乗り出してくれないと、患者さんには届きません。ところが、大学の私たちと大手の企業の間には大きな谷があることが知られています。それが「死の谷」と呼ばれている、深い深い谷です。

私たち大学の研究者は、いろんなアイデアとか成果を出します。ところが、日本の企業、大きな企業がいっぱいあるんですが、なかなか私たちのアイデアを一つ一つ拾うだけの体力、資金力であったり、いろんな人材であったり、これがまだまだ十分ではないというのが現状です。この間の谷に落ち込んでしまって、開発が止まってしまうということを繰り返してきました。

そこで、2年前に作ったのがiPS細胞研究財団です。これはiPS細胞研究所とよく似ていますが、橋渡しを専門にするために作った別組織です。投資ではなくて、国からの支援など、たくさんの方のご支援で運営しています。

iPS細胞をはじめとする細胞を提供する。また、ノウハウも提供する。代わりに、いろんな企業からは実験結果とか、いろんな国との交渉の結果等を返してもらう。そして、それをまたいろんな企業と共有する。こういうことを、日本の中でまさにワンチームとして行っています。

一人でできることは限られていますが、チームで、みんなで頑張れば、大きなことを成し遂げることができるというふうに信じております。

<59歳 ふたたび原点へ>

さて、この4月から新たなチャレンジ、新たな挑戦をします。この十数年、iPS細胞ができてから、自分の研究というよりは、ほかの人の研究を支える、これに一生懸命取り組んできました。自分の研究は後回しにしてきました。でも、もう一度自分の研究、現場でしたいというふうに考えています。

何を研究するか。それはNAT1です。NAT1は、ES細胞で大切な働きをしているということを紹介しました。でも、ES細胞だけじゃないんです。NAT1は、全身の細胞で働いています。このES細胞以外の細胞でNAT1が何をしているのか、これが私の残りの研究者人生で調べたい、突き止めたい謎です。NAT1は、生命の本質に関わる遺伝子である、設計図である。そんなふうに信じています。

十数年ぶりに現場に戻るというのは、実は思っていたより大変です。でもですね、心機一転、いろんなことをもう一度勉強し直して、自分で見つけた遺伝子の謎に挑みたいと、そんなふうに思っております。

今日の私の話、最後はですね、もう一度、VWという言葉で終わりたいと思います。いちばん大切なことはしっかりしたビジョンを持つということです。と、偉そうに言っていますが、私も30歳くらいになるまでは、はっきりしたビジョンは持っていませんでした。自分は本当に何をして生きていったらいいのかということを思い悩みながら、外科医としての挫折であったり、そして研究者としてPADというつらい経験であったり、その中で、今は治せない病気を将来治すと、こういうビジョンにようやくたどりついたわけです。このVWの大切さをもう一度最後に繰り返しまして、今日の私のお話を終わりたいと思います。ご清聴誠にありがとうございました。