こんにちは。アーティスト・プログラマー・DJの真鍋大度です。今日はよろしくお願いします。僕は「ライゾマティクス」というクリエイティブチームで、人間とテクノロジーの関係を探求しながら、アート制作やライブ演出などの仕事を行っています。ふだんは大学の講義などが多いですけれども、今日は、下は7歳から上は90歳を超える方、かなり幅広い受講者の方が参加してくれるということで、楽しみながら話していきたいと思います。最初にアイスブレイクをしたいと思います。まずはこちらの動画をご覧ください。
※映像(開始点02分17秒)とあわせてご覧ください。
この動画は、ムロさんと上田誠さんという脚本家と、3人で作ったオンラインのパフォーマンスです。緊急事態宣言が発令された直後に、人にも会えないし遊びにも行けないということで、ムロさんが「『こどもの日』に合わせて、みんなを元気にするようなことをしたい」ということで制作しました。仕組みがどうなっているかというと、僕は自宅にいて、ムロさんも自宅にいて、ムロさんの自宅にある照明や映像装置、iPhoneなどを、僕の家からリモートでコントロールできるような仕組みを開発して演出したというものです。
今日は皆さんにも、このインスタライブと同じような体験をしてもらおうと思います。プログラミングのディスプレイが横にあるのでそれを見ていますけれども(下画像)、すでに結構皆さんクリックをしていてですね・・・画面上に皆さんのニックネームが表示されるような仕組みになっています。通信自体は、皆さんのところから僕のマシンまで、問題なく受信ができている状態です。
このあと何をするかと言うと、僕は今、電極を顔につけていますけれども、これはけがをしているというわけではなくて、今から皆さんの投票(A・B・C・D)でいちばん多かったものを選んで、顔の筋肉に電気を流して刺激を与えるというようなことをやってみたいと思います
まず、「A」がいちばん多かった場合は、ここの筋肉に電気が流れます(下画像・赤色部分)。
「B」が多かった場合には、ここが動きます(下画像・黄色部分)。
「C」の場合は、ここに流れます(下画像・青色部分)。
「D」の場合は、ここに流れます(下画像・緑色部分)。
カウントダウンが15秒間あります。投票のカウントダウンがあってそこで締め切って、その10秒後に電気刺激が流れるというプログラムになっているはずです。
※映像(開始点05分52秒)とあわせてご覧ください。
1回やってみますね。カウンターをリセットして、そこからカウントダウンをスタートします。ここからカウントダウン、スタート。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0。皆さん、配信の画面に戻ってもらって、4、3、2、1・・・うーっと。うまく動きましたね。今、「C」に流れました。「C」が4000カウントで、「C」に電気が流れました。
今やったのは、皆さんの投票の結果を数えて、その数字に応じてイベントを起こすみたいなことです。これは「入力」と「出力」を変えることで、他にもいろいろなことができます。
例えば、僕の右手と左手にセンサーがついています。これは同じ電極なんですけど、顔についているのは電気の「刺激を与えるため」につけている電極で、腕につけている電極はセンサーにつながっていて、筋肉が収縮したときに発生する「微弱電流を検知するため」のセンサーです。
※映像(開始点08分16秒)とあわせてご覧ください。
例えば、右手を動かすとパソコン画面の“玉”のサイズが変わるのが見えますかね。これは、右腕の筋肉が収縮したときに発生する電気を、映像にアサインしているんです。
※映像(開始点08分43秒)とあわせてご覧ください。
これを例えば、右腕の筋肉が動いたときに、右頬の筋肉が動くというふうにつないでみましょう。うまくいくかな。
これで手を動かすと・・・
自分でタイミングを合わせて右頬を動かしていると思う方もいるかもしれないですけれど、これは手に力が入ったときに筋肉が収縮して微弱電流が発生して、それが1回コンピューターに取り込まれて、電気刺激に変換されて、右頬の筋肉を収縮するために電気刺激が流れているという感じです。
この「入力」に関してはマイクでもいいし、まばたきでもいいし、何でもできます。「出力」も、今は筋肉を動かしていますけれども、もちろん音楽でもいいですし、映像でもいいですね。この組み合わせだけでアート作品になるというわけではないですけれども、この組み合わせの面白さをいろいろと考えて作品を作ったりするというようなことを我々はしています。
<「真鍋大度」を構成する“3つのルーツ”>
ルーツ① 「ゲーム」
僕のルーツから話していきたいと思います。僕のルーツには3つの要素があります。1つ目はゲームですね。小学校1年生のときにアメリカに住んでいたんですけれども、そのときに友人の家でゲームに出会って、フロッガーというゲームだったんですけれども、本当にとりつかれたようにやっていました。全然英語ができなかったけど、ゲームを通じてコミュニケーションを取るとかそういったこともしていたと思います。とにかくゲームにはまっていました。
この写真は一緒にいるのは妹だと思うんですけど、多分、小学3年生か4年生くらいのときですね。ゲームをするのが好きだったんですけど、家はファミコンを買ってくれたりするというのはなかったです。でもパソコンがあったんですね。パソコンのゲームをするということもあったんですが、それを使って“ゲームを作る”というようなことを始めました。これは僕の“ものづくり”の恐らく原点だと思うんですけれども、敵を倒すとそれが音階になったり、グラフィックというと当時できることは本当に限られていたと思うんですけど、色が変わったりとか。ゲームに小さいときに触れたということが、ひとつ自分の原点にはなっているかなと思います。
ルーツ②「音楽」
これは僕と母親です。僕が1歳前後ですかね。2つ目の要素は、僕の両親は音楽家で、家にはもちろん楽器はありましたし、父親とか母親の演奏を見に行くということも、小さいときには結構ありました。母は電子ピアノやシンセサイザー向けの楽曲のソフトの制作をやっていて、父は今でも演奏家として活動していますけれどもプロのベーシストです。そういう姿を見つつ、ピアノを習っていたということもあるとは思うんですけれど、やっぱり身の回りに機材とか楽器とかがたくさんあったというのが大きかったかなと思います。
これはウーリッツァーピアノという楽器で、アメリカに住んでいたときの写真で、小学4年生とか5年生ぐらいのときです。ゲームが好きだったので、ゲームセンターに行っていろいろなゲームをやって、もちろんそんなすごいゲームは作れないんですけど、そのゲームの効果音だったりというのをまねしたりしていたのをよく覚えています。
そのあとピアノもやめて、シンセサイザーを触るというのもなくなったんですけど、高校ぐらいからDJをやり始めて、大学生になって、これはちょっと良かったか悪かったか分からないですけど、かなりどっぷりハマってしまいました。DJを始めてだんだん曲も作りたくなるので、パソコンを使って曲を作ったりということをやっていました。
当時、運が良かったのは、すばらしいジャズミュージシャンの方たちと出会う機会があって、一緒にバンドをやらせてもらっていたんですね。僕はドラムの打ち込みとスクラッチみたいな感じでしたけど、青春すべてを突っ込むというぐらいはまって、クラブでライブをやったりということをしていました。
スクラッチしているのは僕ですけれども、他で生バンドの人たちと一緒にセッションをしたりとか、今だったらラップトップを持ち込んでビートを流したり録音したりできると思うんですけど、このときはデスクトップとかすごい大がかりな機材を持っていって、小さなクラブでライブをするというようなことをしていました。このころパソコンで音楽を作ったりミックスしたりということを、スタジオにも通って学んでいたので、今の制作活動にかなり役に立っているというのはあります。
そのあと海外に渡って、ニューヨークのラッパーと一緒に活動をしていました。そこまで行けたのは、今思うと怖いもの知らずだったところもあるし、今みたいにネットですぐ海外のことが分かるということもなかったので、やっぱり自分で飛び込めて良かったなと思います。
ひとつすごく絶望する事件があって、ニューヨークのラッパーと海外ツアーもあってヨーロッパに行って、ドイツ・カールスルーエでライブをやって、そのあとパリでライブがあったんですけど、ステージに上がったら大ブーイングを受けたんですね。当時はすぐに原因が分からなかったですけれど、やっぱりある種の人種差別もあったでしょうし、僕がなんでニューヨークのラッパーの人とやっているんだみたいなことで、この先ずっとやっていくのも難しいんじゃないかなと思って、方向転換をするきっかけになりました。
ルーツ③「数学」
そして3つ目の要素が数学です。大学までは結構いい点を取っていたんですけど、大学の数学というのは高度に抽象化された世界で、ちょっと落ちこぼれていくことになります。「位相幾何学」というジャンルはすごく好きだったんですけど、ゼミでは「フェルマーの最終定理」の証明をやったり、あとは当時「JAVA」というプログラミング言語がはやり始めていたので、そういう課題をやったりしていたという感じです。
以上3つ。「ゲーム」と「音楽」と「数学」というのが、僕を構成している要素かなという気がします。
この写真はサラリーマン時代のものです。僕はゲームが好きだったので、本当はゲーム業界に進みたくていろんな会社を受けたんですけど、残念ながらというか当たり前だったかもしれないですけど、どこの会社にも入れずでした。ただプログラミングに関する仕事はしていきたいというふうに思っていたので、あと音楽と数学の関係性というのもすごく興味が出てきた時期だったので、マルチメディア開発部マルチメディア開発室というところに就職しました。電機メーカーですね。扱っているのはトンネルの中の防災システムのカメラ映像と緊急放送の音声で、確かにマルチメディアなんですけど、僕がやりたかったようなマルチメディアではなかったという感じです。
そのあと大学時代の数学科の同級生に声をかけてもらって、ITベンチャーで働くことになったんですけど、あっという間に会社の経営が悪化してクビになって、ハローワークに通うことになりました。それが23歳とか24歳ぐらいのことですかね。
そのあと「IAMAS」という学校に行きます。当時は専門学校もあって、僕は専門学校の方の「国際情報科学芸術アカデミー」というすごく難しい名前の学校ですけれども、そこに進むことにしました。それまで音楽を作るということはやっていましたけど、やっぱり自分の憧れているミュージシャンとかトラックメーカー、当時だとDJプレミアというヒップホップのトラックメーカーがいて、とにかく彼に憧れてまねをしていたという感じです。
IAMASは、何かをまねするというよりは、一から新しいことを考えなくてはいけない学校で、僕は本当にそれにカルチャーショックを受けて、結構最初は大変でした。大変というか、周りの人たちのすごさに圧倒される時期がありました。「アートにおいて大切なことは何か」ということすら何も分かってない状態だったので。例えば、問題提起をすることが大事なことだということであったり、「How」より「Why」、要は「どうやって作ったか」ということより「なぜ作ったか」が大事だということだったり。具体的になり過ぎず、その作品を抽象化していくとか。そういったことがすごく難しかったですね。
学校で出る課題というのも正解のない問いが多くて、抽象的なものなんです。例えば、「2.5次元の音楽を作りなさい」とか「P2P(ピアツーピア)ネットワークを使ったシンセサイザーを作りなさい」とか「コミュニケーションツールを作りなさい」とか。先生たちも正解を最初から知って出しているというよりは、正解がないけれどもそういった抽象的な課題の中で学生がどう考えるかということを、訓練として出していたと思うんです。それが最初はすごく難しくて、それまではエンジニアリングとかそういったところ、音楽もそうだったんですけど、もう少し具体的な目標とか指示みたいなものがあったんですけれども、そういったものがない世界で制作しなくてはいけないということで、最初はそれで自信喪失もしました。そこでそういったことを経験して卒業して、しばらくは東京芸術大学の助手をやることになりました。
<身体×テクノロジーがアートになる>
今思うとすごくラッキーだったなと思うのは、卒業してすぐにダンスのプロジェクトに関わることができたことです。山口に、通称「YCAM」の山口情報芸術センターというアートセンターがあって、そこで行われたダンスのプロジェクト「Refined Colors」という作品に参加することができました。音楽ライブのことは知っていましたけれども、舞台芸術のことは何も知らなかったので、そこで6年くらい、いろんなプロジェクトでご一緒させていただきました。そのときはディレクターというよりはエンジニアとして、たまに作曲家として参加していたんですけれども、そこでダンス公演とか舞台芸術の基礎を学ぶことができたというのが、自分にとって大きな経験でした。
※映像(開始点23分01秒)とあわせてご覧ください。
これが初めて自分でディレクションをして、ダンス作品を作ったときの実験映像です。さっきご覧いただいた筋肉に流れる微弱な電気信号を取るセンサーを使って、「踊りを音に変換する」というようなことをやったものです。これは2006年、2005年とかです。これは両腕にしかついてないので、そんなに複雑なことはできないんですけれど、このときはゲームのコマンド、ストリートファイターみたいなもので、右・左・右・右・両手というふうに力を入れると、音色が変わるとかキーが変わるとか、そういうようなことをやっていました。このころから「身体」と「テクノロジー」ということに少しずつ着目して作品を作るようになります。
※映像(開始点24分10秒)とあわせてご覧ください。
これもさっきご覧いただいたものに近いですね。さっきはつけた電極が4つでしたけど、このときは8か所ですね。電気刺激をして。筋肉は1秒間にどう頑張っても10回前後しか収縮しないので、その性質を利用して音楽に合わせて顔の筋肉に電気刺激を与えて、自分では作れないような不自然な表情を作るというようなことをやっている実験です。実は他にやりたいプロジェクトがあって、半分遊びというか実験でやった動画なんですけど、なぜかこの動画がものすごくバズりました。当時2008年なので、YouTubeはまだ今ほど見られてないですけど、南アフリカとかメキシコ、ブラジル、アメリカ、ヨーロッパの30都市以上で、このプロジェクトを発表する機会に恵まれました。この作品というか実験動画のおかげで、海外の人たちとつながることができたと思います。
※映像(開始点25分32秒)とあわせてご覧ください。
これがもともとやろうとしていた実験です。自分の顔の表情を、センサーと電気刺激装置を使って、隣の人たちにコピーできないかということをやった動画です。なんでやろうと思ったかというのは、今となっては正確には思い出せないんですけど、これをそのあとライブでいろんな国でやることになりました。
※映像(開始点26分15秒)とあわせてご覧ください。
そして、顔の電気刺激の“ピピピっ”という動画を見た海外のアーティストが連絡をしてきてくれて、一緒に作品を作ろうということで、ザカリー・リーバーマンという方が作品のディレクターなんですけども、彼は当時からオープンソースのコミュニティではすごく活躍していて、「openFrameworks」というツールを作っている人なんです。彼とこの時期一緒に仕事をすることになって、どうやってコラボレーションをするべきかとか、オープンソースのカルチャーはどういうものなのか、そういったことを学ぶことができました。
僕が彼と一緒に仕事をしてすごく感じたのは、過度に役割分担をせずに、コードとプログラミングを介して柔軟に自分の役割を見つけて、一方、他人には適切なハードルを作るということです。コラボレーションの面白さとか難しさみたいなことをいちばん最初に学ぶ機会を得た、すごく思い出深いプロジェクトです。
これはニュージーランドですけれども、すごく大きなプロジェクトに関わらせてもらいました。このときに一緒にコラボレーションしていたジョエルという人が、マッシヴ・アタックとかU2とかと、すでに大きなエンタメのライブの仕事、ドームとかそういう5万人、6万人規模の仕事をやっていたので、どういうふうにしたら大きなライブを成功させることができるかということを学びました。
※映像(開始点28分11秒)とあわせてご覧ください。
あともうひとつ、これも僕とライゾマティクスにとっては大きな機会でした。本当にブレイクスルーが起きたプロジェクトと言ってもいいと思うんですけれども、2010年Perfumeのドームコンサートですね。これに関わることができてすごく大きなエンタメの仕事、それまではシアターの仕事とかが多かったんですけれども、ライブエンタメの仕事に触れる機会を得ることができました。
先ほどの抽象化の話とかにつながるんですけれども、このとき舞台演出を担当しているMIKIKOさんに言われたのが「舞台上には3人しかいない。3人がより大きく見えるような演出を考えてほしい」ということでした。プロジェクションマッピングをしたいとか、レーザーをこうしたいというような具体的なオーダーではなくて、すごく抽象化されたお題を与えられたことで、ライゾマティクスの僕らもすごくいろんなことにチャレンジすることができたかなと思います。
当時の3Dスキャンのカメラを使って、今はもっときれいにできますけど、3人の踊る後ろで、こういった映像を流すみたいなことをやりました。