歴史デリバリー〜素朴な疑問?歴史資料で解決!〜
天才コント職人 東京03がお送りする歴史バラエティ
日本人はいつから時間にうるさくなった?
初回放送日:2022年6月20日
コント職人 東京03が素朴な疑問?歴史資料とスペシャルコントでスッキリ解決!今回は「日本人はいつから時間にうるさくなった?」ハリセンボンも資料をデリバリー! 番組の舞台は、とある歴史番組の収録現場。時間に正確、厳しい国、と言われる日本。この時間感覚はいつから生まれたのか?飯塚悟志Pと豊本明長Dが打ち合わせをしていると…。歴史デリバリー社 角田晃広とハリセンボン(近藤春菜・箕輪はるか)が歴史資料をデリバリー。「平安時代 貴族は遅刻の常習犯!?」「江戸時代 時計の文字盤が動く謎!?」「明治時代 時間厳守の習慣と鉄道の関係!?」など意外な事実が明らかに!
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出演者・キャストほか
- 歴史デリバリー 配達員役俳優近藤 春菜(ハリセンボン)
- 歴史デリバリー 配達員役俳優箕輪 はるか(ハリセンボン)
よくある質問
番組で使用した資料について
1、「日本書紀」(国立公文書館蔵) 720年に完成した日本の正式な歴史書です。日本誕生から697年までの歴代天皇の業績が記録されています。今回は660年の記述を要約した文章を紹介しました。
2、「漏刻(ろうこく)模型」 奈良県の飛鳥資料館にある模型を参考に作りました。およそ1/2サイズです。天智天皇が実際にどのような漏刻を作ったかは資料がなく定かではありません。飛鳥資料館の模型も江戸時代の研究者の文献などを参考に作られています。サイズは、水落遺跡から見つかった漏刻が設置してあったであろう台から、想定しているそうです。なお、飛鳥資料館の漏刻の目盛りには刻」の単位まで示してありますが、実際の目盛りの示し方も、残念ながら資料が残されていないため、不明です。 【漏刻の仕組みについて】 漏刻にはサイホンの原理が使われています。水を高い位置の出発地点と低い位置の目的地点を管でつないで流す場合、管内が水で満たされていれば、管の途中に出発地点より高い地点があってもポンプでくみ上げることなく流れ続けます。 今回の模型では中が見えるようにビニールチューブを使いましたが、当時の漏刻には、細い銅管が使われていたと考えられています。 水槽がいくつも階段状に並べられているのは、いちばん下の水槽に一定のスピードで水を流せるように、下から2段目の水位を一定に保つだめです。途中の水槽は、水が増えつつ、水が減るので水位が一定になります。(水位が減ると水圧も低くなるので流れる量が一定になりません) 仮に、二つの水槽で漏刻を作ると、上の水槽の水面が一定になるように、注ぎ続けなければなりません。模型のように多段式であれば、水を灌ぐ回数を減らすことができます。
3、「時刻制度(飛鳥時代~)」 飛鳥時代から江戸時代までの宮中では、1日を12に等分し、それぞれおの時間帯を十二支でア表していました。それぞれの時間帯を「とき(時・刻・辰刻)」と呼び、さらに「とき」を四等分した「刻(こく)」という単位も使われていました。「刻」は「点」という呼び方もありましたが、今回は代表的な表し方を紹介しました。さらに「刻」を10等分した「分(ぶ)」という単位もありましたが、これは天文分野で使われ、日常的には使われていなかったそうです。 少なくても宮中では、平安時代まで、この時刻制度が使われていました。 1日を等分するこうした時刻制度は「定時法」とよばれ、天文の分野に限り、江戸時代まで、この時刻制度が使われていました。 確たる資料が残されていないため、断言はできませんが、宮中の外で暮らす庶民は日の明るさを基準にした不定時法(後述「8、江戸時代の時刻」)が使われていたと考えられています。 【子の始まりが現在の23時なのはなぜ?】 当時の日の出・日の入りの時刻が記録されていて、計算により、南中時がおおよそ「子(ね)の2刻」にあたることが分かっています。
4、「平安時代の時報」 宮中行事や貴族の決まり事を記した『延喜式』という書物によると、当時は、太鼓で「とき」を、鐘で「刻」を知らせていたことが分かっています。「とき」を知らせる太鼓の回数が「九」から始まる理由は、よくわかっていません。一説には、中国では九が縁起の良い数であり、その倍数の下1桁にしたのでは?とも考えられています。 また、当時の内裏では各部屋に時刻を告げる役人がいたことが分かっています。
5、漏刻の想像図 奈良文化財研究所飛鳥資料館からお借りした、漏刻の置かれていた建物内部の想像図です。穂積和夫さんによるイラストです。 当時、漏刻の扱いは、陰陽寮の漏刻博士(正七位下従七位下相当)という役人が2人、その部下として、守辰丁(しゅしんちょう)という役人が20人いて、2チーム、昼夜交代で時を計り、知らせていたと考えられています。
6、「小右記」 平安時代の貴族、藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記です。実資をはじめとした貴族の日記には、時刻が記されていることが多く、当時の貴族たちの時間意識を推測することができます。 今回紹介した文章は長和4年5月16日の記述を要約したものです。 (監修:細井浩志:活水女子大学教授)
7、「和時計」(写真提供:セイコーミュージアム銀座) 機械式の時計は、戦国時代にザビエルなどの宣教師から伝わりました。日本の一般社会では不定時法(後述「8、江戸時代の時刻」)が使われていたため、独自の工夫が施されています。 和時計は仕組みから大別すると2種類になります。ひとつは、昼と夜で針の進むスピードを変えられるもの。おもりの重さを変えて調整したそうです。もうひとつが、今回紹介した文字盤の位置を調整できるもの。これは割駒式と呼ばれています。
8、江戸時代の時刻 江戸時代の庶民は、夜明けと日暮れを境に昼と夜にわけ、それぞれを6等分して、数字を割り振った時刻を使っていました。 日本では、季節によって昼と夜の長さが変わります。そのため、季節によって、昼と夜の「いっとき」の長さが変わります。 なお、夜明けと日暮れの基準は、手のひらの筋が見える、見えないで決めていたと文献(幕末に出版された『西洋時辰儀定刻活測』「明暮六定ノこと」)に残されていますが、研究者によっては、日の出、日没を基準にしていたという方がいるなど、諸説あります。 また、当時は「八つどき」や単に「八つ」など、時刻を数で表すのが一般的でした。1日に同じ数字が2度あるので、「明け六つ」「暮れ六つ」と言って区別もしていました。
9、時の鐘の写真 写真は現存する浅草寺と寛永寺の時の鐘です。
10、時の鐘の位置 江戸に置かれていた「時の鐘」の位置を示した図です。時の鐘は、幕府の管理のもと、庶民が町内からお金を集めて運営していました。基本、「いっとき」ごとに鳴らしていたそうです。鐘が置かれていた位置や鳴らす順番は、時期によって変わります。最新の研究では、最も多い時期で10か所あったことが分かっています。時の鐘は江戸だけでなく、京、大阪などの各地にもありました。 また、半時(はんとき)は拍子木などで知らせていたという説もありますが、確たる資料が残されていないそうです。 【昼九つは現在で言うと何時から何時にあたる?】 監修していただいた浦井祥子先生によると、「昼九つ」の時の鐘は、昼を六等分した中央の時刻、つまり現在の時刻で表すとおおむね昼の12時ごろに鳴ります。江戸時代の庶民は、あくまでも鐘が鳴り始めてから、次の鐘が鳴るまでを、「いっとき」と考えていたことは確かです。現在の時刻(昼夜が同じ時期のみ)に当てはめると、12時から14時ごろになるとのことです。
11、「江戸名所図会(えどめいしょずえ)」 江戸の名所を絵入りで紹介した書籍から、金六町(現在の中央区銀座八丁目のあたりにあった町)にあった「しがらき茶店」を描いたページを紹介しました。江戸の町にはこうした茶屋がたくさんあったそうです。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。
12、「鉄道開業当時の時刻表」 日本の鉄道は明治5年に、新橋―横浜間で開業しました。日本の時刻制度が現在と同じ制度に変わったのは、翌年ですが、時刻表はすでに現在と同じ時刻で書かれていました。(ただし現在のように日本標準時ではありません。東京の標準時です)。「時」という文字の代わりに「字」が使われているのは、当時一般的に使われていた「とき」と区別するためだと考えられています。『史料鉄道時刻表 明治四年~二十六年 』(大正出版)の画像です。
13、「明治27年の時刻表」「明治27年の路線図」 明治27年の「新橋―品川―横浜間」の時刻表です。朝の5時台から運行していました。共に『復刻版明治大正時刻表』(新人物往来社)の画像です。