お坊さんの説法には生きる知恵がたくさんつまっている。
ここでは、『他人の些細なことに対して、ついイライラして平常心を保てなくなる』・・・
そんなときに聞くと心がスッキリするような3人の説法をご紹介します。
【曹洞宗 安達瑞樹さんの説法】
ここのお寺には柴犬が1匹いるんです。私は毎朝、犬と散歩するわけでございます。皆さまの中にも経験があると思うんですけれども、歩いていると誰か拾たはらへんのでしょうね。犬の糞が落ちてるわけですわ。なんで拾わへんのやろと。しかもすごい大きいんですよ。うちの犬なんかちっちゃい犬なんです。気もちっちゃいんです。どう考えてもうちの犬じゃないほどの大きさなんです。せやけど、なんでしょう、「あの和尚さん、糞拾たはらへんかったわ」というふうに思われるの敵わんですしね。だから結局、私がそれを拾うんです。それに時々、すごいイライラするわけでございます。
さて、この『煩悩』というのがありますけれども、煩悩を『三毒』でお示しになります。『貪・瞋・痴』ですね。貪は貪りの心。あれも欲しい、これも欲しい。瞋っていうのは怒り。そして痴っていうのはやまいだれに知ると書きますが、正しい見方をできないと。この貪・瞋・痴に私たちは苦しめられるわけでございますが、このイライラというのが貪・瞋・痴の真ん中、瞋でございます。この3つは、もうただただ自分自身を痛めつけるだけ、そのものなんですよね。
『煩悩即菩提』という言葉があります。この“菩提”というのは“お釈迦様のお悟りに近づきたいという思い”ですね。煩悩があるからこそ、私たちはこの菩提が起こるわけでございます。もしあなたがいらいらっとしたとき、それはもしかしたらターニングポイントなのかもしれません。少し立ち止まってじっくり考えてみる、それができればきっと良い方向へと転ぶことができるのではないでしょうか。
【日蓮宗 三木大雲さんの説法】
先日私、コンビニエンスストアに行きましたら、えらく怒ってられる方がおられるんですよ。で、私、何かなと思って話を聞いてますと、「なんでここには〇〇チョコレートがないんだ」ってえらく怒ってられるんですね。これ子供さんかなと思って見に行ったら、私よりももう年上の方が怒ってられたんです。大人なのに怒って…こんな世の中になってきたのかと少し寂しく感じたんです。だんだんとこの世の中、子供の国になりつつあるのではないか、私そんなふうに思うんですね。
どういうことかっていいますと、大人が減ってきたんですね。私も含めてですけれども、格好は大人ですけれども、中身はなんか子供のようなところがあって、すぐにイライラする方っていうのは結構増えてきたなというふうに感じるんです。
じゃあ、いらいらしないためにはどうやって生きていけばいいか。これはちょっと私流なんですけれども、例えば誰かが肩を当ててきて、「おい、おまえ気を付けろ」って言われたとき、イライラするところを、私はラッキーと思うようにしているんです。
どういうことかと言いますと、実は前世、前々世、前々々世でやった悪いことが、今、悪いこととなって現れているんです。ですから現れる世と書いて現世と。そんな世の中で嫌なことがあったときに私はいつも前世、前々世でやったことが今返ってきてるんだなというふうに考えるとともに、今これを許すことで私の罪が1つ消えるんだ、そんなふうに思うようにしてるんです。
ですからなんか嫌なことがこれは、過去の自分の罪が消せるチャンスだな、というふうに考えるようにしているんです。そうしていくと、徳を積んでいくことにもつながるんです。仏教では『積徳』、“徳を積む”ということをよく言われます。この徳を積むことで悟りに近づけるというふうにお経にも出てきます。
皆さんもどうか損得の得を積むのではなくて、この道徳の徳を積むように生活していっていただければ、この現世、現れる世の中というものが代わってきます。自分はイライラしやすいなと思われる方は、特に周りの人を許すということを心掛けていっていただければ、徳が積めるのではないかなというふうに思います。
【浄土宗 長谷雄蓮華さんの説法】
本当に僕もいらいらします。腹が立つっていうことあるんですよね。人のことの余計なこと、気にしなくてもいいこと、気にしちゃうのが人間ですよね。私自身も耳が痛くなりました。気にしなくてもいいことを気にしてしまう。それ、実はそういうことを自分がやってることなんですよね。自分がやってることの鏡で、人がやってることが気になって、許せなくなってしまう。
でも人のことを怒ったり、イライラしてるときの顔って鏡で見たことありますか。どんな顔してると思います?それはそれは見れたもんじゃないですよ。ひどい顔してます。あんな顔、よく人の前でできるな、と思います。だからそんな鬼みたいな顔しちゃ駄目です。イライラってしたら、自分そんなことしてないかなって省みてみるのはいいんじゃないでしょうか。そういうふうに省みてください。
『鬼』という言葉があります。実はこの『鬼』という言葉も仏教の言葉なんです。鬼という字は今のような漢字じゃなかったんです。鬼という字は、“隠れる魂(隠魂)”って書くんですよね。隠れる魂とは何か。実は自分自身の中に、鬼が住んでいるんです。
また、宗派によっては“お施餓鬼”という法要があります。昔はお施餓鬼という法要の鬼、上に角、書かなかったそうです。角のない鬼って誰なのか。実は、あなたのこと、私のことなんです。人のことでイライラして、モヤモヤしても、鬼にならない。これが仏様の考え方かもしれません。
鬼になりそうだったら、イライラしそうだったら、ちょっと手合わせてみるのもいいかもしれませんよね。手合わせてみたら、「あ!鬼になってる!」、そう省みていただきたいと思います。鬼になっちゃ駄目ですよ。仏様みたいなお顔になりましょう。