テーマ④ 忘れられない過去 番外編~番組でご紹介しきれなかった説法 part1~

NHK
2022年1月7日 午後10:30 公開

お坊さんの説法には生きる知恵がたくさんつまっている。

ここでは、『過去を忘れられなくて、振り切れないことにモヤモヤしたり、苦しんだりする』・・・

そんなときに聞くと心が楽になるような3人の説法をご紹介します。

【真言宗 小池陽人さんの説法】

人の悩みの多くは過去のこととか未来のことがほとんどなんです。「過去にあんなことをしてしまった」とか、あるいはまだ来ていない未来に向けて、「いずれああなったらどうしようか」「この生活はいつまで続くんだろうか」と、未来に対しての不安を抱えたりします。

ところが考えてみますと、私たちが手にしているのは今一瞬だけなんです。過去に戻ることもできなければ、未来に行くこともできない。これを言ったのがお釈迦様の『諸行無常』という教えなんです。今一瞬、われわれが手にしているのは今一瞬だけだからこそ、懸命に今ここに力を注ぐ、一瞬に一生を懸ける、一瞬一生の生き方を説いていると私は思っております。

ところがわれわれはいろんな感情にさいなまれて、過去の後悔と未来への不安で今現在の時間がどんどん浸食されていってしまうんです。これに対してどうしたらいいか、どうやったら今一瞬を生きられるのかというと、私は感情に左右されない生き方だと思っています。私たちはつらいとか、悲しいとか、うれしいとか、楽しいとか、いろんな感情を持っていてその感情が大事だと思ってるんです。そして、いつも楽しいとかうれしくなければいけないと思ってしまいがちなんです。しかし、私は感情を当てにしてはいけないと思ってるんです。

感情には3つの要素があるといわれます。1つ目の要素は、「感情は思えば思うほど強くなる」。例えば、何か悩みを抱えたとき、椅子に座って1時間ずっと思い悩み続けたとします。最初のつらさが、1時間後には、ものすごいつらさに増幅しているということがあるんです。続いて2つ目の要素、「思えば思うほど強くなるんだけれども、思わなければ長続きしない」。誰かを亡くされて深い悲しみにある方が、24時間365日ずっとつらい、悲しいかというとそうではない。その悲しみから離れられるときも来るんですね。そして、私が大事だと思っている要素が3つ目です。「感情というのは何か行動しているとき、手を動かし、足を動かしているときに薄まる」。この3つの要素から見えてくることは、感情というのは当てにならないものだということです。

当てにならない感情よりもどう生きたらいいか。今一瞬を生きるためには、私は目的本位の生き方にするのが大事だと思ってるんです。感情はどうでもいいんです。放置してください。何か過去の悩みとか未来への不安を抱えたままでいいんです。それをどうにかしようと思わずに、その不安なまま、煩ったまま、手を動かし、足を動かしてみてください。やるべきことは必ず目の前に何かしらあります。洗濯を畳むとか掃除機をかけるとかなんでもいいんです。何か手を動かし、足を動かしているときに感情から離れられる。そして、そのときに今一瞬を生きるという生き方が見えてくると思っております。お釈迦様が説かれたことは感情本位から目的本位に生きる。その生き方だと思っております。

【融通念仏宗 関本和弘さんの説法】

薫に習うと書いて、『薫習』という言葉があります。お香をたくときに、お部屋に掛けた衣にいつしか良い香りが染み付いて、その衣を着ているといつでも良い香りがするように、生まれてから経験したことは頭で覚えていなくても行いに表れてきます。ふとしたしぐさがお父さんと同じ、お母さんと同じということはよくありますよね。無意識に体に染み込んで、それが自分をつくっていくのです。

そんな中、忘れられない過去があるということは、そのことを鮮明に覚えているということですよね。どうしたらよかったか、今だったらこうしていたのに。いろいろと逡巡されていることと思います。一度、目をつぶって頭の中でその光景を再現してみてください。その再現の中で、そのときできなかったことや、悔やんでいることや、そういったもやもやすることをやり直してみてください。言えなかったこと、できなかったことを頭の中で詳細に思い描いてください。何度も繰り返すうちに、きっとその過去は振り切れると思います。

薫習の悪い影響がいろいろなところに汚れをつくっているとするならば、その香りを手で1つずつ、ちょっとずつ拭っていくことで、衣に付いた香りも、あるいはふすまや壁に付いた香りも拭い去ることができるように、心の中にある悪い影響も自分の心の中でやり直すことができます。

つらい、あるいは忘れられない過去。なかなか離れるのは難しいですよね。でも、そうやって少しずつ、ちょっとずつ拭い去っていくことはできると信じています。

【曹洞宗 安達瑞樹さんの説法】

後悔という話でございますけれども、私ももう後悔しっぱなしでございます。後悔しないなんていう人はいないと思うんですけれども、後悔もいろいろありますよね。例えば、「ああ、特売日に行こうと思ってたのに行くの忘れてた」という後悔もあれば、「ああ、あのときああしていれば、あの人はこんなことにならなかった」なんていう後悔もあります。後悔、消せる後悔もあれば消せない後悔もあると思うんですよね。

私なんかはよくお葬式にお伺いすることがあるんですけれども、本当にその場所で後悔の話をよくお聞きします。「あのとき、お父さんとああしていれば良かった」とか、「お母さんともっと旅行に行っておけば良かった」といろんな後悔があります。私がそういうときにお話しさせていただくことが、『追善供養』です。追い掛けるという字に、善悪の善。亡くなった人の代わりに残された者がええことしようと。何かしようっていうことです。

例えば、亡くなった人の代わりに残された者がいいことをするっていうのはどういうことか。道端にごみが落ちてたら拾うとか、電車に乗ってて高齢の方が立ってはったら席を譲るとか、なんでもええんやと。亡くなった人の代わりにええことをするんやと。亡くなったお父さんが孫をかわいがってはったら、じゃあ私はお父さん以上にこの自分の子をかわいがってあげようやないかと。お母さんの代わりに一緒にお父さん、旅行に連れてってあげようとか、いろいろそういうことができるのも1つの供養なのかなと。

誰かのためにと思ってやっていることが、実は自分のためになる。だから供に養うと書いて、供養というのではないでしょうか。いろんな後悔がありますが、この後悔を何かに置き換えることによって、またその後悔がやがて希望に変わるということがあると思うのですが、皆さまの中ではどのように考えられますでしょうか。