テーマ③ 生きる意味 番外編~番組でご紹介しきれなかった説法 part1~

NHK
2022年6月26日 午後8:25 公開

お坊さんの説法には生きる知恵がたくさんつまっている。

ここでは、『今の人生に生きる意味を見出せない、自分は生きていてもしようがない』・・・

そんな思いを抱えたときに聞くと心が楽になるかもしれない3人の説法をご紹介します。

【日蓮宗 三木大雲さんの説法】

昔、ちょっとこんな話をお聞きしたことがあるんですね。

小学校に上がる手前の女の子のお話なんです。この子が新しく買ってもらったランドセルを背負って、ちょっと外散歩してくるって言って、外へ出掛けようとしたその瞬間ですね。この子がこんなことを言ったんです。「あ、今度は気を付けなくちゃ。」、そう言ったそうなんです。それを聞いたご両親が、「ん、どうしたの?」そう聞きますと、「いや、私、前ランドセル背負ったまま車にひかれて死んだから、今度は気を付けなくちゃ」、そう言ったそうなんです。いわゆる前世の記憶を持つ女の子だったんですね。

で、この子が言いますには、実は前世でランドセルを背負ったまま車にはねられて亡くなった。今度は気を付けなくちゃ、そう思ったそうなんです。そこでご両親が聞かれたんですね。「○○ちゃんはなぜここへ生まれてきたの」、そう言いますと、「うん、私、お父さん、お母さんを選んで、このお父さん、お母さんがいいなと思って生まれてきた」、そんなことを語ったそうなんです。

これ実は、お経の中に全て出てくるんです。私たち人間というものは、この人間に生まれる少し前、『求名霊』、名前を求めてさまよう霊となって両親を選ぶそうなんですね。「どうか私に名前を付けてください」、「いいよ」って言ってもらえたところに子供として生まれてくる、そういうことがお経の中に書かれてるわけです。

そのときに、実は私たちは1人1人、この世に人間として生を受けたからには、こんなことをしようという、ある目標を1人1人持って生まれてくるんです。ところが、残念なことにこの記憶を私たちは生まれたら忘れてしまっているんですね。これもお経の中に、『失本心故』という言葉が出てきます。“本心を失えるが故に”、という意味なんですけれども、私たちは生まれてくる前の記憶を失ってしまって、目標を失ってしまったが故に、いろんな悩みに悩まされるっていうんですね。

ですけれども、共通する私たちの生まれた目標が1つ、お経の中に出てきます。それは“衆生を哀れむが故に”、というふうに出てくるんです。私たち人間は、この世に、人を助けたい、人を喜ばせたい、人のために何かするために生を受けたというふうにお経に出てきます。なので、生きる意味を失ったな、そんなふうに感じる方は、どうか、何か1つでも周りの人が喜んでくれるようなことをしていただけたらなというふうに思います。

【曹洞宗 篠原鋭一さんの説法】

自分が生きている意味、この問い掛けっていうのは古今東西、もう多くの人たちがした問い掛けでしょうね。自分が生きている意味、それは、人間だということです。人間だから、こういう悩み、こういうモヤモヤを持つんですね。近くを飛んでいる鳥や、咲いている花が、「私はどうして生きているんだろう」という問い掛けをしていると思いますか。私はそんなことをすることもなく、淡々と自分の命を生ききろうというふうに私は考えていると思います。

だから人間も、なぜ自分が生きているか、自分が生きている意味はなんだろうか。これは考え始めるともうどこまでもいってしまって、ある意味では観念論になってしまう。そこで1つのヒントを私は申し上げたい。

実は私たちのことを「人間」「人間」と言ってますけれども、生まれた瞬間は”ヒト”なんです。霊長目ヒト化ホモ・サピエンスですよ。ところが生まれた瞬間に誰かに会いますね。つまり自分以外の人と会いますね。そうするとそこに間ができるんです。自分という人と自分以外の人との間ができるんです。だから、間という字を書いて、中国では人間(じんかん)と呼んでいます。それがやがて日本に経典と、共に入ってきたときに、読み方が人間(にんげん)になってたから、われわれ日本人は「人間」と。つまり、これはすごくわれわれが、この世に生を受けた人間とは何かという意味を表していて、私たちは自分と自分以外の人との間を持ってこそ生きていくことができる。で、その間にどういう条件を埋めていくか。

この世で二度とない人生を、不幸に生きようなんて思っている方はいらっしゃらないと思います。幸せに生きたいですよね。そしたら自分と自分以外の人との間に幸せな条件を埋めていく、積み上げていく。

そして、人間として命をいただいたんです。このいただいた命を生かして生かして生ききる。これが、自分がこの世に生きる、自分が命をいただいてこの世に生を受けた、つまり、自分がなんでこの世に生きているんだろう、生きる意味はなんだろう。人から人間になって、そしてこのいただいた命を生ききるということが、実はこのテーマの答えだと私は思っているんです。

そして、もう1つ言いたいことは、生かされているんだろうというふうに考えたほうがいい。だって、空気にお金払っていますか?払ってませんね。お水をいただいている、基本的には私たちはこの大自然の中からいただいたもので、この命を養っている。つまり生きているんですね。

人生を生きるんではなくて、もっと言う、生ききるという、生きるというよりは、生ききってやろうじゃないか。そういうふうな思いでこのもやもやを解消していこうじゃないですか。以上です。

【融通念仏宗 関本和弘さんの説法】

仏教には『業』という言葉があります。簡単に言うと行いのことなんです。私たちの業というものには3つありまして、まず体と言葉と心の業、合わせて3つの業、『三業』といいます。この3つは連動しているんです。

私たちの日常では、体でもって人を傷つけてしまうことがあるかもしれない。あるいは言葉でもって人を傷つけてしまうかもしれない。あるいは心でもって、あんなやつって思ってしまう心が働くかもしれない。日常にあって罪に問われるのは、体でもって相手を傷つけたとき。ところが仏様の目から見たときに、その3つは同じ罪なんです。

そういう教えがある中で、実はこの3つを深めていくところに、この3つが連動しているということが分かってきます。言うなれば、大きな悲しみを心に抱えてしまうと、心の中の感情があふれてきて、それは体に出てきます。涙となって体の反応として出てくる。あるいは不眠、過食、拒食、いろんな影響が体のほうにあふれてきます。心の中に怒りを抱えると、人様に対して八つ当たりをしてしまう、物を壊してしまうこともあります。これらは心から体のほうへあふれてしまう。思いがあふれてしまった結果、体が反応してしまう。

その体にあふれてきたものを言葉に、心の中にあるものを言葉としてこの口から出すことができれば、その体にあふれるものが多少薄まります。話聞いてもらって、ちょっと心が楽になりました。そうおっしゃる方がたくさんいらっしゃいます。心の中にあるものを安心して言葉として外に出すことができる。これが今の世の中、この生きづらさの中に生きる意味を求める方々の苦しみに効く特効薬ではないでしょうか。

心の内をお話をするということ。なかなか安心してお話しできる場所が、もしかしたらないのかもしれません。それどころか、心の内を誰かに聞いてもらった経験というのは、実はそんなに多くはないのかもしれません。でも、けどな、俺なんかな、そんなふうに言われたことがある方は、そんなふうにおっしゃる方のところで心の内を話すことはおそらくできないでしょう。あなたの大切な気持ちを安心して話せる場所、それがお寺であってほしいと思うのです。