テーマ③ 生きる意味 番外編~番組でご紹介しきれなかった説法 part2~

NHK
2022年5月25日 午前2:41 公開

お坊さんの説法には生きる知恵がたくさんつまっている。

ここでは、『今の人生に生きる意味を見出せない、自分は生きていてもしようがない』・・・

そんな思いを抱えたときに聞くと心が楽になるかもしれない3人の説法をご紹介します。

【臨済宗 桂紹寿さんの説法】

生きる意味とはなんぞや。私のようなまだまだ修行の足らん未熟者の坊さんには、非常に難しい質問ですね。おそらく、頭とか理屈でいろいろごちゃごちゃ考えても答えというのは見つからないと思います。だって今、自分が今ここに生きてるのは理屈じゃないですよね。いろんなご縁の中で生かされて生きてるわけです。ご縁という言葉が難しければ、いろんな関係性の中で私たちは生かされて生きているわけです。

じゃあ、いったいあんたはなんのために生きてるのかと問われると、自分の中の仏様に気付くために私は生きているんだと思います。じゃあいったい自分の中の仏様とはなんぞやと問われると、我を捨てて、分別を捨てて、初めて見えてくる、あるがまま、そのままを映し出すような、そんな鏡のようなものが仏様なんだと思います。

何を訳の分からんような理屈を、屁理屈を並べとるんだと言われるかもしれませんけれども、だからこそ理屈では分からんのですよ。要は実践をしていくことですね。実践というのは今置かれたところで、今を懸命に生きる。まさに、“ただ今”というものを生ききることを大切にすることで、初めて見えてくる世界なんだと思いますね。

そのときに大切なのは『大慈大悲の心』、つまり“慈悲の心”を忘れんことです。私が私がという、自己に執着していれば決して見えてこない世界です。理屈を捨てて、一生懸命まず生きてみることです。それが一番大事なんだと思いますね。

【浄土真宗 武田正文さんの説法】

皆さんは生きる意味、どんなときにお感じになるでしょうか。自分の大切な人と過ごす時間、自分の大好きなことをしている時間、きっと大事な意味を感じていると思います。一方で、大切な人を亡くされた方、自分の好きなことができなくなった方、生きる意味が分からなくなっている人も少なくないと思います。

仏教では『諸行無常』、私たちの持っているもの、私たちの姿そのものが失われていくと説かれています。

では、生きていることに意味がないのか。私たちが意味を求めるのは、生まれてから死ぬまで、この間に、出会った人、出合ったものの中で、目に見えるものの中で意味を探しているのが私たちの姿です。阿弥陀如来は、無限の命、無限の時間を私たちに教えてくださっているものでございます。

仏教でいう縁起という言葉は、私たちには、目に見えるつながりだけではなく目に見えないたくさんのつながり、これは生まれてから死ぬまでの短い時間だけではなく、私たちが生まれる前から引き継いできた命、そして、命が終わってからも続いていく命を、仏様は教えてくださっています。

仏様は、私たちの命は、もっと大きな、もっといろんなものとのご縁の中で生かされていることを示してくださいます。親鸞聖人は「本願力(ほんがんりき)にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳(くどく)の宝海みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし」とおっしゃっております。「本願力」というのが”阿弥陀如来のお力のこと”でございます。「本願力」に会えば、「むなしくすぐるひとぞなき」、“むなしくこの人生が無意味だと考える人はいなくなる”そうでございます。

生きる意味が感じられないと思っている皆さん。目に見える意味だけにとらわれてはいないでしょうか。自分たちの周りを眺めてみてください。当たり前にある、周りにある景色、自分の目の前にあるもの、目に見えるものだけではなくて、あなたの命を支えているもの、きっとたくさんあるんじゃないかなと思います。

私たちは、この目の前にある目に見えるものだけにとらわれていくと、それが失われたときに意味を感じられなくなってしまいます。そうではなく、もっともっと長い時間、もっともっと広い広い空間の中で生かされていることをお感じになれば、私たちの今思っている目に見えることだけの意味だけではなく、目に見えないようなずっと無限の時間の中で今を生かされていること、気付けるかもしれません。

【真言宗 小池陽人さんの説法】

お寺にもよく「生きる意味が分からない。」そんな悩みを抱えて来られる方がたくさんおられます。悩みを抱えておられる方の多くが、私が思うに、“役に立つ”という言葉にとらわれているような気がするんです。「自分はもう人の役に立たないから生きる価値がない」、あるいは、お仕事引退された方で、「介護とかお世話になるばかりで自分は誰のためにもなってない」と。

この“役に立つ”という言葉について考えてみると、役に立つということ自体は素晴らしいことですね。私も法話をして、「その法話を聞いて、救われました」という言葉に救われたりして、そして、ものすごく喜びを得ることもあります。だから役に立てたとき、非常に大きな喜びを得るということはすごく分かります。

しかし、“役に立つ”という言葉には大きな危険性もはらんでいると思っているんです。それは役に立つということにこだわっていくと、人間のことを『役に立つ人間』と『役に立たない人間』という2つに分けてしまいます。

この分けて考える考え方を『分別』というふうに仏教ではいいます。よくわれわれが使う、「分別がある人」というのはいい意味で使いますよね。でも仏教では決していい意味ではないんです。“物事を分けることによって悩みを深めてしまう”、そういうふうに説くわけです。

仏教はどう説くか。無分別を説きます。つまり、分けない考え方なんです。われわれは役に立つ、役に立たない、幸せとか不幸とか、全てを二項対立で考えてしまう。そうすると“意味があるもの”“意味がないもの”というふうに分けて、“意味がないものには価値がない”という考え方が生まれていきます。「価値がないんだから生きてる意味がない」、そういうふうにとらわれていってしまうんです。

そして、生きている意味を求める、考えるのは動物の中で人間だけではないでしょうか。自然に触れてみてください。自然の美しい木々であったり、動物であったり、皆、ただ呼吸して、そのときを生きています。人間も動物なんです。ただ生きる。その意味を下ろす時間をつくってみてはいかがでしょうか。