テーマ② 承認欲求 番外編~番組でご紹介しきれなかった説法 part2~

NHK
2022年7月5日 午前7:19 公開

お坊さんの説法には生きる知恵がたくさんつまっている。

ここでは、『仕事や職場などで承認欲求が満たされない』・・・

そんなときに聞くと心がスッキリするような3人の説法をご紹介します。

【臨済宗 桂紹寿さんの説法】

達磨大師という有名なお方がおられますけれども、皆さんご存じのだるまさんですね。禅宗を開かれたという本当に、立派な方なんですけれども、そのお方のお言葉に、『結果自然に成る』というものがございます。意味はというと、“生まれながらに備わっている仏性というものを自覚すれば、悟りはおのずと開かれる”ということなんです。忍辱・精進、いわゆる我慢して努力していれば、結果というのはあとから勝手にくっついてくるもんなんですよね。だから焦らないことが一番だと思います。

長い人生の中の一瞬を切り取って、他人と比べたところで、結局は嫉妬であったり、ねたみであったり、逆に優越感なんていう、そんなつまらん感情しか起こってはこないでしょ。人はみんなそれぞれ違う歴史を背負って生きてますし、また違う人生をそれぞれ歩んでるわけですから、他人と比べる必要なんてどこにもありません。

そんなつまらんことに時間を使ってるくらいだったら、<即今只今>といいまして、自分の置かれたところで今自分ができる精いっぱいのことをやっていれば、結果とか評価というのはあとから勝手にくっついてくるもんです。評価されたいとか、褒められたいとかなんていう気持ちで物事をやっておりますと、褒めてもらえたらやるけど、褒めてもらえへんのやったらやらないということになっていくわけですよね。これでは自分自身の行動するための基準が自分じゃなくて他人さんの目になってしまっているんですよ。

せっかく自分の人生を歩んでいるんでしたら、他人さんの目を基準にするんじゃなくて、まずひたむきに、丁寧に生きていれば、もうそれでいいんだと思います。捨てる神があれば拾う神があるなんていうことを言いますから、「運が良かったら、まあまあ、そのうち、あんじょうしていくでしょう」、くらいのお気持ちでおられたほうが、何事も万事うまいこと進むもんですよ。だから他人と比べずに、焦らないことです。

【浄土真宗 川村妙慶さんの説法】

私たち僧侶がお話しするのを法話といいます。仏様のお言葉を届けるということなんですね。そのときは合掌で迎えていただきます。普通だったら拍手となるのですが、拍手をいただくと、私は1曲歌わなあかんくなるんです。つまり拍手は“盛り上げる、その人を持ち上げる”ということなんです。

私たちは煩悩というのがあります。煩悩の1つに『慢の心』というのがあります。慢というのは上がったり下がったりする比較の心を持っているんですが、持ち上げられると慢の心がどんどん上がって、調子に乗るんです。すると「私って大したもんだな」ということで、やはりみんなに認められる、認められるという気持ちになると、慢の心が上がる。これを“傲慢”といいます。優越感なんです。優越感を得るとそら気持ちがいいですよね。

しかし、この慢の心は、もしも認めてもらわなかったら、平気で慢を下げてしまいます。これを“卑下慢”と言います。劣等感のことです。優越感はいいんですが、それが当たり前となると、今度は認めてもらえないときに私たちは落ち込むんです。

私はちょっとうれしいことがあったときに、師匠のところに行き、「先生、これからの私を励ましてください、何か一言でもいいので言葉をください」と頼んだんです。すると師匠は、「うん、分かった」って書いてくれていただいた言葉が、“当てにするな”、だったんです。私は「もうちょっと頑張れ、これからの君を期待してるよ」って言ってくれるかなと思ったのが、当てにするな、だったんです。褒められることを当てにするな、みんなから評価されることを当てにするな、当てにせず、そのままのおまえを生きたらええんや。慢を上げることも下げることもなく、どうかそのままのおまえを生きたらいいんや。なかなか認めてもらえない、私、こんなに頑張っているのにと思っている方、いるでしょう。その気持ちは分かります。

しかし承認欲求の「認」という字、右側は忍ぶと書きます。自慢することよりも、私ができることを謙虚に生きるほうのがすごくステキなんです。忍んだ生き方、そして私ができることを、ぼちぼちとやらせてもらう。そこに人間は魅力を感じるんですよ。どうか、このままの私を当てにせずに生きてください。

【曹洞宗 安達瑞樹さんの説法】

誰しも誰かに認めてもらいたいという気持ちはあるかと思います。曹洞宗を開かれました道元禅師さまの教えの中に『典座教訓』というのがございます。この典座というのは台所、食事をつかさどる役職のことを典座というのですが、この『典座教訓』は道元禅師さまが中国で修行されたときの経験を基に書かれているわけでございます。

この中の逸話でございますが、あるとき、道元禅師が境内、本堂の前を通り掛かったときに老典座和尚、年配の年老いた、もう眉毛も白い鶴のように伸びて、そして背中も弓のように曲がった本当に年配のお坊さんが炎天下の中、一生懸命、シイタケを干してはったわけでございます。もう暑いさなかですから、もう汗だく、本当につらそうやなと。

道元禅師さまはそれをご覧になって、こう言わはったわけでございます。「あなたのような年配の方がそんなお仕事しはらへんでも、誰か若い修行僧に頼まはったらええやないですか」と。ほんならこの典座和尚さんはこう言わはったわけでございます。「他はこれ吾にあらず」と。“私がやらないで誰がやるというんですか、私がやったことにならないじゃないですか”と。“この与えられた仕事をただただ私は一生懸命する、それが喜びでございますと。私はそれをしているだけですと。そんなことが分かれへんのですか”と。

重ねて道元禅師は聞かれるわけでございます。「じゃあ、せめてもうちょっと涼しなってからしはったらどうですか」と。そうすると、この老典座は言わはるわけでございます。「更に何れの時をか待たん」。“いつやるの? 今でしょ”っていうことですね。どこかで聞いたことがありますけれども。このシイタケというのは暑い炎天下に干すからこそ味が増すわけでございますね。この修行というのも時と場所を選んではいけない。今、できることをただひたすらやることというふうにお示しになったわけでございます。

あなたもいろいろ考えるところがあるかと思いますが、きっとあなたの一生懸命は誰かがご覧になっていると思いますし、あなたの姿を見て励まされる方もおられるのではないでしょうか。まずは今、与えられた仕事を一生懸命するということが大切かと思うのですが、いかがでしょうか。