お坊さんの説法には生きる知恵がたくさんつまっている。
ここでは、『自分の見た目が嫌でモヤモヤしている』・・・
そんなときに聞くと心がスッキリするような5人の説法をご紹介します。
【臨済宗 桂紹寿さんの説法】
平安時代の絵巻物なんかを見ておりますと、だいたいが今でいう下ぶくれで、細い目で、かぎ鼻っていうようなお顔の描かれ方をしているんですけれども、きっとその当時というのはそれが美男美女の条件だったんでしょう。
トップモデルの方が痩せ過ぎの問題で、痩せ過ぎを禁止するというようなことが話題になっておりますけど、痩せてるからって美しいかというと、どうでしょう。「ミロのヴィーナス」を見ておりますと、決して痩せてないですもんね。それなりにふくよかなお姿をなさっていると思うんです。だから美男美女の容姿の条件というほど、時代によっても場所によってもころころ変わるようなものはないんじゃないでしょうかね。
仏像をご覧になると、実はどの仏様も美男美女かというと、案外そうでもないですよね。ただ共通して言えるのは、仏様のお顔、お姿を見ていると、見てる側のこちら側の気持ちが、ほっ、と優しくなったり穏やかになっていく。そういう効果、そういう姿をなさっているんですよね。そんな仏様の見た目の相を『仏の三十二相』という言い方をするんです。修行を完成して仏になったときに、自然とそういう容姿が備わってくるそうなんですけれども、人間の相も同じようなもんでして。その方の生き様のようなものが相として表れてくるんだと思うんですよ。意地の悪いことばかりやっとったら、やっぱり意地の悪い相になっていきますし、日々清らかな心で過ごしておられる方を見てると、やっぱり清らかな相をなさっていますよ。
だから外見だけを気になさるんではなくて、内面を磨いていただいたほうがいいんじゃないかなと思うんですね。決して美男美女にはなれないかもしれませんけど、清らかな相、容姿になっていくんだと思いますけれどもね。
【浄土宗 長谷雄蓮華さんの説法】
私も自分の見た目があまり好きじゃないです。背も高くないし、横に広いし、何よりも顔も真ん丸だし、目も眼鏡、もう老眼も始まってます。私もラジオをさせていただいてますが、自分の声も嫌いなんですよ。みんな一緒ですよね。この番組のアンケートで相談された方、素晴らしいと思います。気が付くってすごいなと思います。気が付かれたらもうコンプレックスじゃないんじゃないですか。
実はあなたが思ってる、その容姿、声、姿、本当にそれは皆さんが思っている通りなんでしょうか。皆さん、鏡見たとき、その姿は自分が見た姿ですか。鏡を通してですよね。あなたがどう感じてるか、ほかの人が思ってるほどそんなことないですよ。だってそうはいっても鏡越しに見えるのは容姿だけですよね。人間はほとんどの細胞が3カ月で全部変わるっていいます。だから生物学的にいえば、3カ月前の自分は違う自分なのかもしれない。
気が付くということは、素晴らしい目を持って見えること。逆にそうやって自分自身のことに気が付くのはうらやましい限りだと思います。
修行していく私たちの中で大切なことの1つに“自分自身を知る”ということがあるんですよね。よく懺悔するって言います。自分自身、ああ、こんなことしちゃった、こんな人間になった、こんな悪い罪をしてしまった、悪い行いをしてしまった。それに気が付くことが大切なんです。気が付かない人が多いですよね。皆さんもどうですか。あの人、なんでこんなことするのに気が付いてくれないんだろう、あんなひどいことをしてるのに。気が付いたらもう仏様と一緒に歩いてることなんです。仏様が気付かせてくれたんですよね。
だから、もちろん容姿のことだけじゃない。自分自身が今までつくってしまったいろんな罪、そしていろんな汚れ、これに気が付く。そして気が付いたらどうするか、手を合わせて、仏様と1つになるのもいい。そして仏様と一緒に歩いていくのが大切なんですよね。だから自分自身をよく見て、自分自身のいろんなことに気が付く。その一歩になって、この方々は素晴らしいと思います。一緒に仏様と私たちと歩んでいきましょうよ。
【真言宗 小池陽人さんの説法】
自分の見た目で悩んでる方というのは非常に多いと思います。そして、この悩みというのは非常に解決しづらいんですね。なぜならば、変えられないからなんです。お釈迦様がおっしゃった真理には、『四諦』というのがあります。そして、諦(たい)という字は諦めるという字なんですが、お釈迦様の教えというのは“明らかに見る”の諦めるということなんです。
何を諦めるのかというと、“どうにもならないことをどうにもならないんだ”というふうに諦めるということなんです。親から授かったこの体、姿というのは自分では変えられない。どうすることもできない。それを諦めるというのが大事なんだろうと思います。とはいえ、それが諦められないから皆苦しんでるということも私は想像します。ですから本当にこの悩みに対しては、私も何かいい答えがないのかな、とずっと悩んでまいりました。
そんな時、臨済宗の野田僧正さんが『泥かぶら』という絵本を紹介しながら、この見た目へのコンプレックスに対する答えを導いてくださいました。
『泥かぶら』というのは見た目が醜い少女の話なんです。皆からばかにされて、罵倒されて、ものすごくすさんだ心になっていた。ところが旅の老人に出会って、3つのことを実践しなさいと言われるんです。その3つとは、1つ、「自分をかわいそうだと思わないこと」。2つ、「笑顔を絶やさないこと」。そして3つ、「思いやりの心で人に手を差し伸べること」。泥かぶらは必死に愚直にこの3つを取り組んでいきます。その結果、泥かぶらの笑顔が周りの人の心を癒やしていく。そんなストーリーです。
私はこの話を聞いたとき、これかもしれないなと思ったんです。というのは、お釈迦様は物とかお金がなくてもできる施し、『無財の七施』というのを説かれました。その中に『和顔悦色施』という施しがあります。これは笑顔なんです。笑顔というのは誰でもできます。そして笑顔というのはどのような顔であっても、『無畏施』といいまして、人の心を安心させる力があると思うんです。そして笑顔は何か見返りを求めて作ることをしません。私この見た目へのコンプレックスを抱えている方に1つ言えることがあるのであれば、笑顔を作る。その心掛けに尽きるんではないかなと思っております。
【浄土真宗 武田正文さんの説法】
他人の誰かと比べてコンプレックスを抱く、これは誰しもが心の中で抱えている思いだと思います。私たちはついつい自分ではない誰かのことを見て、うらやましいと思ったり、自分のほうが劣っているなと思って元気がなくなってしまうことがあろうかと思います。
阿弥陀如来が私たちのことをどのようにご覧になっているのでしょうか。『仏説無量寿経』というお経のお経の中で、阿弥陀様が私たちにどんな願いをかけておられるのか、その数、全部で「四十八の願い」がかけられているそうです。その中の『三願』と『四願』。『三願』は、“私たちがみんな黄金に光り輝くように”という願い。『四願』は、“私たちの美しい・醜いという違いを超えて、生き生きと幸せに生きられるように”という願いが込められております。
仏様が私たちをご覧になったときには、自分と誰かの違いというものは見ておられないようです。仏様からご覧になると、背が高い、背が低い、美しい、醜い、勉強ができる、勉強ができない、そういったことは関係ないそうです。もっと言うと、人間だろうが、犬だろうが、猫だろうが、虫だろうが、全ての命は等しく光り輝いていると仏様はご覧になっているそうでございます。
私たちは自分にコンプレックスを抱えて自分のことが嫌いになると、自分のことを大切にできなくなってしまいます。そうすると、本当は食事に気を使ってダイエットをしたいのに、ついついお菓子の袋を開けて食べてしまう、そういったことになってしまいます。しかし、仏様は私たちのことを、あなたの姿はあなたのままで光り輝いていると、あなたのその姿が美しいんですよ、と応援してくださってるんです。そう思うと少しだけ自分のことを大切に思うことできるような気がしませんか。
これから自分のことを大事にし、少し変わっていきたいと思っておられる方、。阿弥陀様はコンプレックスを抱えながらも生きるあなたが美しいと言っておられます。そうすると少し私たちは自分のことが好きになれて、これから変わっていく第一歩、歩み出せるんじゃないかなと思っております。どうかなりたい自分に少しずつ近づいていき、それがなかなかできないときには、仏様がその姿が美しいと言ってくださっていること、大切になさってください。
【日蓮宗 三木大雲さんの説法】
私は怪談から説法する怪談説法というものをいつもさせていただいているんです。どういったものかって言いますと、皆さんの中にもおられるかもしれませんけれども、四季の匂いが分かる方っておられますかね。四季というのは、春夏秋冬ですね。春の匂いがしてきたなとか、夏の匂いがしてきたなとか、私の統計だとだいたい200人に1人ぐらいおられるんです。けれども、私はさらに、病気の臭いも分かるんです。父親から病気の臭いがした時も、病院に連れて行ったところ、胃がんが見つかったんです。
ある日私が本屋に行くと、どこからか病気の臭いがしてきたんですね。どこからするのかなと思ってウロウロしてますと、雑誌コーナーで本を読んでる男性からこの臭いがしてきたんです。その男性に声を掛けまして、「もし良かったら、あした病院へ行っていただけませんか」、説明をした上でそうお声掛けさせていただいたんですね。そうしますと、「いやいや、もう声を掛けていただいただけでもありがたいです、もう大丈夫です」っておっしゃるんですね。
私もう一度、「いや、私本当に臭いでいろんなものが分かるんです。どうか病院行って、何もなければいいわけですから、お願いできませんか」、そう声を掛けますと、その男性が本を閉じて、私のほうに向き直って、「いや、どうしようかな、でもお坊さんっておっしゃってましたよね?」と言われるので、「はい、そうです。」と答えると、「どうしようかな…」何度か迷われて、最後にその男性がこうおっしゃったんです。「分かりました。じゃあ全部言います。実は私ね、去年の12月8日にもう死んでるんですよ」って言って私の前からふっと姿を消されたんです。どうやらもう亡くなられた方だったんですね。
まあ、こんな話があるわけですけれども、臭いっていいますのは、これよく人を表すことがあるんではないかな、私そんなふうに思うんです。よく、うさんくさい人という言い方しますね。これどういった字を書くかっていいますと、「臭い」の字が自分に大きくって書きますね。例えば、私は誰々と知り合いで、大物政治家と知り合いでなんておっしゃる方いますけども、なんとなく聞いてるとうさんくさい。これっていうのはどういうことかって言うと、自分を大きく見せたいと思うから、なんとなくうさんくささというものがその人から出てくるんですよね。
ですから、自分を大きく見せたいと思っていろんな高価な物を身に着けたり、いろんなことをします。外見を変えたりしますけれども、それでは臭いは取れないんですよね。うさんくささというものを持たないためにはどうすればいいかというと、やはり自分の内面を変えていく。それによってそういった臭いがなくなって、周りの人からも、あ、あの人は立派な人だなというふうに見ていただけるんだと思いますので、どうか内面をきれいにするということに心掛けていただけたらなというふうに思います。