お坊さんの説法には生きる知恵がたくさんつまっている。
ここでは、『仕事や職場などで承認欲求が満たされない』・・・
そんなときに聞くと心がスッキリするような4人の説法をご紹介します。
【真言宗 小池陽人さんの説法】
承認欲求。これは多くの人が抱えているもの・持っているものではないかなと思います。ましてや、このSNSが盛んになった現代で、「いいね!」の数とか、自分への評価が数値化されるというか、可視化される社会にあって、何か目に見える評価みたいなものを求めてしまう。そういう世の中になっているのではないかな、というふうに思うんですね。
で、多くの場合が、自分は頑張っているのにそれを認めてもらえてないっていうことに対しての不満というのが多いと思います。これはやっぱり真面目な人とか、頑張っている人が陥りやすいんですよね。不真面目な人は、こういう悩みをむしろ持たないかもしれません(笑)。頑張って頑張って、いるのになかなか認めてもらえないという悩みが、やはり生まれる。
でも私が思うのは、頑張っているということがもう十分すばらしいことであって、それはもう自分で認めてあげていいんじゃないかなと思うんです。そして、このわれわれが大切にする仏教の教えの1つに、『施し』というのがあるんです。『布施』ですね。ただ布施という施しの行には、大事な条件が付くんです。それは何か。“見返りを求めない”ということなんです。どんなにすばらしいことであっても、見返りを求めてそれをしたならば、悩みをつくる原因になってしまうというふうに説かれるんですね。
正当な評価が受けられないっていうことに不満を持つというのは、正当な評価を、見返りを求めているということにもなるわけです。じゃあ、どういうふうに考えればいいのか。見返りを求めずに、ただ自分が信ずることをやっていくということですね。つまり、どういうことかというと、自分の価値というものを他人に委ねない生き方なんではないかな、と思うんです。
誰かからの評価を得てうれしくなることは、たくさんあります。自信を持つこともたくさんあります。でも、それはあくまでも、他人の物差しで、自分の価値を測ろうとしているんですね。そうであれば、それが続けば、いつまでたっても人に認められるために自分を変えていかなければいけないという思考に陥ってしまいます。そうではなくて、自分、『主人公』という言葉があります。これは仏教用語なんですね。自分の中の自分。周りの評価じゃない。自分にとっての自分が正しいと思うことを、ただひたすらにやればいいんではないでしょうか。
【日蓮宗 三木大雲さんの説法】
私、怪談からお説法を説く怪談説法というものをさせていただいてるんです。では、この怪談説法のきっかけになったのは何かっていいますと、夜中に公園に集まってる若い人たちに、実は一番最初、お説法をしようと思って近づいていきまして、なかなか話を聞いてくれないので、「お坊さんがする怪談聞かない?」って言って怪談をするわけですね。
一番最初に、私がある怪談をしたんですね。登場人物が、最後にふぅ~と消えていなくなった、そんな話を彼らにしたんです。そうしますと10代の集まりだったんですけれども、1人の少年が手を挙げるんですね。「三木さん、消えたそのお化け、僕です」って言うんです。え、どういうこと、思わず私が聞き返しますと、「いや、僕もう家に帰ると誰もいないように扱われる」、そんなことを言うんですね。実はその男の子、家庭に恵まれなくて、お父さんは1日酒浸り、お母さんはそんな家計を支えるために夜に仕事行かれるので昼間はいつも寝てられるんです。ですから、小学校から帰ると「ただいま」って言っても、「おかえり」って返してもらえないそうなんですね。
ある時、その子、頑張ってテストで100点を取って帰っていった。もしかするとお父さん褒めてくれるかも、そう思ってお父さんのところに100点の答案用紙を持って行くと、「それでお酒が買えるんか」そんなふうに言われたそうなんです。お父さん酔っぱらってるから仕方がない、次はお母さんのところに行って、「ねえねえ、お母さん!見て見て、100点取ったよ」って言うと、お母さんは、「もう~寝てる!邪魔しないで」って言ってビリビリに答案用紙をやぶったそうなんですよ。
人間っていうのは誰かに見てほしい、誰かに認めてほしい、そんなふうに思うんですけれども、これなかなかうまくいきませんね。ですから子供が頑張って勉強しますね。これはなんのためにかっていうと自分が将来お金持ちになるためではなくて、お父さん、お母さん、先生に認めてほしい、そう思って子供は頑張るので、大人の方はそれを褒めてもらいたいなと思うんです。
で、大人になってもその欲求をお持ちの方は、水泳と一緒で潜ろう、潜ろうとすると体、浮いてしまうんです。で、浮いていようと思ったら逆に沈んでしまうんですね。これと一緒で、認めてほしい、認めてほしいと頑張ってもなかなかこれ認めてもらえないんです。
ですから認めてもらえなくても頑張ろうとして生きることが、実はそのうち皆さんに認めてもらえるようになるんですね。ですからどうか、認めてほしいからやるのではなくて、やっていたら認められるような人間になれればなというふうに思います。
曹洞宗 篠原鋭一さんの説法
われわれ生きてるということはさまざまな苦しみに出合いますけれども、自分自身を認められない、自分のことを認めてもらえない。この苦しみは大きいですよね。で、最近、会社等で、職場等で自分と上司との関係がうまくいかない。自分のことを認めてくれない。あるいは同僚同士で、あいつのほうが先に出世した、俺はなぜ取り残されたんだって、そういうふうなことに対する苦悩の苦しみが、あるいは、つらさを私のところに吐き出したいと言っておいでになりますけれども、私たちの生きている社会っていうのは、根本的に申し上げておきますよ、仏教で『娑婆』という言葉があるんですよ。
娑婆、古代インド語でサーハーとかスーハーという、苦しみの世界っていわれているんです。でも、われわれは生まれた瞬間に娑婆という苦しみの世界に生まれたんだから、そういうさまざまな苦しみに出合うのが当たり前。
で、私が提案させていただきたいのは、どちらかというと相手を変えようとするのではなくて、自分自身が変わっていく。自分自身を変化させていく。
一人の人生で80年まで生きたとしますね。本当にこの人と出会えて良かったというのは何人だと思いますか。200人といわれているんです、一番多い人で。ひょっとしたら、嫌だ嫌だと思っている人も自分にとっては大切な出会いの一人である可能性は十分ある。どうかそういうふうな意味合いで職場というものを1回、見つめ直していただければと私は思っていますね。以上です。
【融通念仏宗 関本和弘さんの説法】
頑張っているのに評価されないのは悔しいものです。それに加えて、ほかの人が自分を追い越していくのは、ねたましさも湧き起こりますよね。以前、奈良のあるお坊さんに『静思』という言葉を教えていただきました。静かに思うと書きます。この“静かに思う”、たったこれだけの言葉ですが、ノイズの多い現代において、静かによく考える時間がない方々ばかりではないでしょうか。
こんなにやっても誰も評価してくれないと思うとき。こんなに頑張った自分を見ている自分がいるはずです。こんなに頑張った自分を一番知っているのはご自身なのではないでしょうか。人は他人と比べて一喜一憂しがちです。比べることは大事なことですが、一喜一憂するために比べるのではなく、他人と比べて足りないところと自分が勝るところを見つけるために比べる習慣を付けましょう。一つの物事にとらわれない見方が大事です。
奈良の興福寺の前の猿沢池辺りで、こんな歌を教えてもらいました。
“手を打てば女中はいと答える、鳥逃げる、コイは集まる猿沢の池”
手をたたくという1つの動作でも、お店の店員さんは呼ばれたと思って、「はい」と答える。鳥は撃たれたと思って逃げていく。池のコイは餌をもらえると思って集まってくる。三者三様の取り方があるんです。
多くの側面からものを見れるようになれば、仕事においても承認欲求が満たされずとも、モヤモヤすることが減ってくると思いますよ。