87年前の飛行家の夢の続きを(2023年4月26日放送)

NHK佐賀放送局 真野紘一 小野錦
2023年4月28日 午後7:21 公開

ジャピー機遭難之地

神埼市の脊振山の頂上の手前、車を降り石段を下っていくと大きな石碑が建っています。

「ジャピー機遭難之地」―遠く離れたフランスのある飛行家が、90年近く前ここに墜落しました。

1903年にライト兄弟が有人飛行を初めて成功させて以降、空の技術競争はひときわ熱を帯びていました。より早く、より遠くへ―1920年代から30年代にかけ、大陸間をまたにかけた何千キロにも及ぶレースが盛んに行われていました。

  そのレースに挑んでいた1人がフランス人飛行家アンドレ・ジャピーです。  

32歳でパリ~東京間のレースに挑戦

(画像提供 「赤い翼:パリー東京」実行委員会)

1936年、彼はコードロン・シムーン号でパリから東京を目指すレースに1人で挑戦。

それは1万5千キロの距離を100時間以内に飛ぶというものでした。パリを飛び立って55時間後の11月18日の夕方には香港に到着。記録達成は確実で、日本でも多くの人がジャピーの到着を待ち望んでいました。

ところが、高まる期待とは裏腹に暗雲が垂れこめます。香港で天候が悪化していたのです。足止めを食ったジャピーは、制限時間が刻一刻と迫るなか、香港に着いて半日が経った19日早朝、意を決し離陸します。その結末は―

「山襞(やまひだ)に衝突 大破」

大破し、原形をとどめない飛行機。

ジャピーが乗ったコードロン・シムーン号は、脊振山に墜落してしまったのです。福岡への緊急着陸を目指す途中でした。

脊振は「空の難所」

なぜ脊振山で墜落したのか。それは、このあたりが空の難所だからです。

秋から冬にかけて、脊振山周辺には玄界灘からの強い風が吹き付けます。そのため気流が乱れやすく、天候も変わりやすいのです。標高は1055メートとそれほど高くありませんが、箱根や鈴鹿と並ぶ空の難所とも言われています。

取材した日もこの通り。最初は晴れていましたが、ほんの30分ほどで辺り一面霧に包まれました。濃霧のなかを飛んでいたコードロン・シムーン号は、乱気流にのまれ山にぶつかってしまったのです。

近くに住む執行栄一さんです。当時のことを父親から聞いて育ちました。

飛行機が墜落したとき、父親の榮さんは山で炭焼きをしていました。大きな音を聞き、真っ先に救助に向かったそうです。

執行さん「道はないですから、落ちた方向を目指してみんな這い上がっていきました。寒いからタオルで(顔を)隠していたので、その姿にジャピーさんもえらく怯えたそうです」。

脊振の人々の思いは国やことばの壁を越えた

頭などに傷を負う大けがをしたジャピー。しかし「助かって欲しい」という脊振の人たちの懸命な介抱で、一命を取り留めます。

当時の新聞記事によると、脊振の人たちはりんごや番茶を与え、つきっきりで世話をしていたそうです。ジャピーはこれに感激し、何度も体を起こして握手をしたとも記されています。国やことばの壁を越え、佐賀とフランスが“真心”でつながった瞬間です。

執行さん「あれくらい(小さな)飛行機でフランスからここまで来たことがとても信じられないです。俺たちからしたら(ジャピーは)英雄ですね」。

ジャピーはその後、日本の航空技術の発展にも貢献します。日本での療養中、2人の日本人飛行家に経験や技術を伝えたのです。墜落のよくとし、この2人が乗った「神風号」が東京からロンドンまで94時間で飛行することに成功。ジャピーの教えが大いに生かされました。

名機コードロン・シムーン号を後世に

多くの人をひきつけたコードロン・シムーン号。

その名残は、神埼市の神埼情報館に残されていました。翼の一部と見られるパーツです。寄贈される前は執行さんが家で大切に保管していました。

断面をよく見ると、骨格の木がむき出しになっています。飛行機の骨格は木でできていて、そこに金属や布を組み合わせて作られていたのです。

(今月25日に県庁で開いた記者会見)

この貴重な飛行機を後世に伝えようと、いまジャピーの親族も参加して日本とフランス合同で復元プロジェクトが進んでいます。それは、別の機体の部品を再利用しコードロン・シムーン号を当時の姿に復元しようというもの。プロジェクトに参加しているのは、日本とフランスの航空関係者や有識者などおよそ40人です。

100年越しにレースの完結を

(画像提供 「赤い翼:パリー東京」実行委員会)

  今後飛行許可を得ることができれば、ジャピーがなしえなかった佐賀から東京の区間を飛んでレースを完結させることを目指します。  

ジャピーの兄の孫、ニコラ・ジャピーさん「100時間以内にパリ~東京の飛行は成功しませんでしたが、100年以内にはこのプロジェクトは成功できると思います。2036年までは、まだ時間があります」。

コードロン・シムーン号が脊振の空を駆け抜けるその日まで―プロジェクトは飛行機の復元をしたのち、まずはフランスで飛行を成功させることを目指します。

取材後記

脊振山では、最初は晴れていたものの石碑で取材を始めるやいなや霧が立ちこめ、真っ白になりました。タイミングがあまりによかったので、当時の様子を想像しやすいようにとジャピーがそうしてくれたのかと思わずにはいられないほどでした。追加の撮影のため翌日訪れたときは、一転して雲一つない快晴。コードロン・シムーン号が復元された暁には、あのような気持ちのよい青空を駆け抜けて欲しいと思いました。(記者 真野紘一)

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