ノーベル賞受賞者・山中伸弥さんがやり残した研究とは?【博士の20年】

NHK
2023年3月25日 午後9:30 公開

iPS細胞によって、病気の治療の仕方が画期的に変わる時代が近づこうとしています。2007年にiPS細胞の作製成功を発表し、2012年にノーベル賞を受賞したのが、京都大学iPS細胞研究所の名誉所長の山中伸弥さんです。

「20年前はこんなことになっているなんて夢にも思わなかった」というほど劇的な進歩を遂げた生命科学の世界で、山中さんは今なお「やり残した研究」をやりたいと基礎研究に打ち込んでいます。前編・後編にわたり、山中さんに、この20年のiPS細胞研究の進歩と研究を続ける理由について語り尽くしていただきました。

後編では、山中さんの子ども時代、臨床医から研究の道へ進んだときの苦悩、そして、現在、60歳を過ぎて再び自分の原点である遺伝子の研究に立ち返っている山中さんに迫ります。

「父を救いたい」から「重い病状の患者さんを救いたい」へ~臨床医と研究で悩んだ時代

――20年よりさらに昔のこともお伺いしたいのですが。山中さんはどんな子ども時代を過ごしていましたか?

子どものときは、町工場を父親と母親が営んでいましたので、機械に囲まれて、一歩外に出ると町工場の鉄線とか、いろんな機械がごろごろしている中で育ちましたから、生物より機械のほうに興味ありましたね。

家にあるラジオとか置き時計とかを勝手に分解して中を見るのが非常に楽しかったです。どうして時計が動いてるのか、どうして音がラジオからするんだろうかとか、ものすごい興味がありました。自分では元に戻せるつもりでしたが、元に戻せないっていうことで、母親にいつも怒られてましたけれども。父親が直していたんじゃないですかね。

――そこから医師を志したのはどんな変化ですか?

父親の病気というのが一番大きかったように思います。私が中学生ぐらいのとき、とても元気だった父親が仕事中にけがをしまして、それは治していただいたんですが、そのときの輸血が原因で肝臓の病気になってしまったんです。まだそのときは原因のウイルスも分かっていなくて、治療法もないので、どんどん父親が悪くなってしまったんです。肝臓の病気って悪くなると、顔色もどんどん黒っぽくなってしまうのですが、それを見ていましたから、父親を治したいという思いが医学に対する興味につながりました。

医師の道に進んで父は喜んでいましたが、そのうちに入退院を繰り返すようになり、父親に注射や点滴をしてあげたりしましたが、そのときも原因も治療法も分からないままだったんですね。だから結局、何もできなくて、私が研修医になった2年目に父親が亡くなってしまって、これはかなりショックでしたね。まだ25歳ぐらいで、せっかく臨床医になったのに父親に何もできないと。

医師になっても、研究の道を選んだのはなぜ?

研修医で担当したたくさんの患者さんも、非常に重い病気の方もたくさんおられて、これまた何もできないということで、やっぱりあの思いは今も残ってます。そういう今は治せない病気が治るようになるとすれば、それは「研究」なんですね、だから、医学の研究の道に進みました。

もう1つは、外科医を目指していたんですが、残念ながら外科医としては才能をほぼ感じることができませんでした。手先は器用だと思っているんですが、相手が人間の患者さんになるとやたらめったら緊張してできることができないという。このまま外科医をやっているより、研究者でいる方が世の中の役に立つんじゃないかと思ったのもあります。

そのあと研究者になって実験動物の手術をするようになったのですが、自分で言うのもなんですが、これはもう天才的にうまい。でも同じことが人間の患者さんだと緊張してできなかったんです。やっぱりプレッシャーに弱いんじゃないかなと思います。

――同級生は臨床医になっていく中で、研究の道に進んでみてどうでしたか?

アメリカでは研究者の地位がかなり高いんですね。研究をしている人と臨床で患者さんを診ている人の地位が同じぐらいだと思いますが、日本はやっぱり結構差があると感じました。だから日本に帰ってくると、臨床の先生のほうが患者さんに貢献して、僕たち研究者は毎日ネズミの世話ばっかりで、世の中の役に立ってるのかな、というジレンマがありました。それで日本に帰って数年は、臨床の現場に戻ろうかと思ったぐらいです。

非科学的な話なんですが、本当に研究をやめて臨床に戻ろうと、就職する病院まで決めていたときに、母親から電話がかかってきて、「きのうお父ちゃんが夢枕に立った。『伸弥に考え直すように言え』と言ってた」と言われて、ちょっと決意が揺らぎました。そうこうしているうちに、たまたま奈良先端大というところで自分の研究室を持つというチャンスを得まして、もうひと頑張りしようと思ったのが、なんとか研究に踏みとどまった最大の理由ですね。今となっては、あのとき踏みとどまって良かったなと思います。

苦労もあるけど、楽しい研究 醍醐味は「ひとつわかるとひとつ広がる謎」

――山中さんは、2020年にiPS細胞研究所の所長を辞められて、研究の現場に戻られたんですよね。

そうなんです。もう十数年以上、自分の基礎研究から離れて、iPS細胞研究所、オールジャパンのまとめ役を自分なりに担ってきたんですが、ただ、自分としてはやり残している基礎研究がありまして、気が付いたら60歳になっていました。しかも中学から本当に仲の良かった親友がコロナの間に2人ばたばたと亡くなってしまって、やっぱり先延ばしにしたらダメだと。やり残してる研究は今やろうと思いまして。

iPS細胞研究も企業の方にバトンタッチする時期に差し掛かっていますので、所長も退任して、iPS細胞ができる前から自分が取り組んでいた基礎研究をもう一度、一生懸命やっています。

研究者としていくつかの遺伝子を見つけましたが、最初に見つけたのが、留学時代に自分で見つけて「NAT1」と名付けた遺伝子です。その遺伝子は皮膚の細胞でも、血液の細胞でも、心臓の細胞でも必ず使われていて、全身で非常に大切な役割してると信じているんですが、調べると万能細胞に必須、なくてはならない遺伝子だっていうことが分かりました。それから万能細胞の研究を始めて、iPS細胞ができて、とても忙しくなって、そのきっかけになった遺伝子がちょっと置いてきぼりになっていました。いまだに、ほかの方も研究はされてるんですが、謎だらけなんですね。だからもう一度その遺伝子に戻って、ほかの細胞では何をしてるのか、そしてなぜ大切なのか、そういうメカニズムの解明を今、一生懸命やっています。

研究って、そのことをずっと考えてると、ちょっとずつ解けてくるんですね。1個分かったらまた1個、謎が広がり、なかなか苦しみもありますが、久しぶりにわくわくして楽しいです。

ああ、やっぱり僕は研究者だなと思って。これが楽しくてやってたんだなと。それがいつ医学に、患者さんに役立つかとかはまだまだ分からないんですね。ああいうことに役立つかもしれないというアイデアはありますが、今はそれよりも、その前の謎を解くところで必死です。もう一度こういう感覚を持てて本当に良かったなと思っています。

――最後に、これを読んでいる人に伝えたいことはありますか?

研究だけじゃなくて、どんな仕事も本当に大変です。僕もアメリカで研究していますけれど、アメリカの国の研究費っていうのは申請しても申請しても、もらえないんですね。それくらい競争が激しくて。でも研究費がなかったら研究できないですから、なりふり構わず自分のしたいことをやるためには、本当に必死にやるしかないという。

でも、なんとかやっていたらだんだん打破できるといいますか、チャンスが生まれてくるというか、やってて良かったなと思える時期もあります。どんな仕事、どんな立場の方も、やっぱり自分の好きなことができるかどうかにかかっている。好きだったら苦労もできると思いますから、自分の好きな、できることを見つけていただきたいなと思っています。