iPS細胞によって、病気の治療の仕方が画期的に変わる時代が近づこうとしています。2006年にiPS細胞の作製成功を発表、2012年にノーベル賞を受賞したのが、京都大学iPS細胞研究所の名誉所長の山中伸弥さんです。
「20年前はこんなことになっているなんて夢にも思わなかった」というほど劇的な進歩を遂げた生命科学の世界で、山中さんは今なお「やり残した研究」をやりたいと基礎研究に打ち込んでいます。前編・後編にわたり、山中さんに、この20年のiPS細胞研究の進歩と研究を続ける理由について語り尽くしていただきました。
前編では、意外なiPS細胞作製秘話と、その実現によって未来の医療がどう変わるのか、そしてひとりでも多くの日本人に革新的な医療を届けるためにあるべき研究の姿に迫ります。
iPS細胞からゲノム編集まで、劇的な進展を遂げた生命科学の20年
――『サイエンスZERO』は放送開始から20年ですが、生命科学のこの20年はどう変化しましたか?
この20年は私自身の研究にとっても非常に大切な20年だったので、番組の20年と僕たちの研究の一番ハイライトの20年がちょうどオーバーラップしていますから、なんか親和性を感じます。
この20年は、ゲノム解析の急速な技術の進展に始まり、iPS細胞ができたこともそうでしたし、さらにはそのあとゲノム編集という技術ができたのもそうですし、僕にとっては本当に驚きの連続でした。20年前は、今こんなことになっているなんて夢にも思わなかったですから。
――20年前、山中さんはどんな研究をされていましたか?
20年前はアメリカから帰ってきて、自分の研究室を初めて持ち、若い学生さんたちと、iPS細胞を作るための準備のような研究をしていましたので、大変でしたが、今から思い返すと、一番楽しい時期だったようにも思います。
自分たちの研究も3年後、5年後が全然読めないどころか、1日先さえ予想できないんですね。学生さんは夜も実験していますから、朝起きて電車に乗って、大阪の家から奈良先端大に通う1時間の間も、どんな結果を出してくれているのかなとワクワクでした。今日はいったい何が起こるんだろうと、1日1日が楽しみでした。
一方で、なかなか実験をやっても思うような結果が出ずに、モチベーションを維持するのが大変なこともあったんですね。マラソンでいうと、スタートしてまだ5キロぐらいで、今日はいったい調子がいいのか悪いのか、どういうタイムでゴールできるのか、さっぱり分からない、そういう時期でした。
でもそのときに失敗だと思った実験が結局、iPS細胞を作るための鍵になっているんです。研究だけでなく、人生もそうかも知れませんが、最初から全部がうまくいくっていうことはあんまりなくて、「もう駄目だ、これ失敗だ、やめたほうがいいかな」という中に実はものすごいヒントというか、宝の山があったというのを思い出します。
iPS細胞をマウスから人間へ…「99.9%何かの間違い」と思った地道な実証実験
――当時、すでに万能細胞に関わる遺伝子は見つかっていたんですか?
見つけつつありました。まさに当時やっていた研究で、万能細胞を作るのに必要な遺伝子候補として、24個の遺伝子を選んでいて、2004年ごろから候補を絞り込むという大切な作業をしていました。
4つの遺伝子が最終的に必要で、そのうちの3つはもう非常に有名な遺伝子でした。もう1つの「Klf4」というのが万能細胞で大切だろうというのに気付いたのは私たちが最初の1つのグループだったんですが、それを見つけてくれたのは学生さんです。あのころのメンバー誰1人欠けてもiPS細胞はできていません。僕もまだ若かったですし、学生さんたちは20代前半の、研究者としては本当にまだ初心者ですよね。でもそういう人たちが集まるとすごい力が出るんだということを実感した何年間かでもあります。
――iPS細胞ができたときの気持ちはいかがでしたか?
最初ネズミのiPS細胞ができて、学生の1人が「先生、なんか万能細胞ができてます」と持ってきてくれたんですが、僕は「99.9%、これは何かの間違いだ」と思いました。なぜなら研究室の中でES細胞という、天然型の万能細胞をたくさん使っているんですね。細胞というのは、少しでも混ざるとそれが増えたりしますから、研究室でも気をつけてはいますが、きっとどこかからES細胞が混じり込んだんだろうと思いました。だから「喜ぶな」と、とりあえずやり直そうということで同じ実験を何度も何度もその学生にやってもらいましたし、数名のベテランの研究者に少しやり方を変えてiPS細胞を作る実験をしてもらったんですね。
そしたら、何度やっても万能細胞が出てくるし、ほかの研究者が少しやり方を変えてやってもやっぱりできるし、できるどころかもっといいのができるというのが分かってきて、あ、これはもう間違いないということで論文を出しました。
疑っていたので、喜び損ねたといいますか、乾杯という瞬間はなかったですね。それで、ネズミの論文が発表される前に、査読といって分野のトップの研究者数名に論文を見てもらう必要があるんですが、その段階で秘密が広まっていますから。それまでは僕たちだけの秘密だったんですけれども、論文になる何か月も前から、それが世界中に広まっているというのが分かりますから、人間のiPS細胞を作る競争の方に対するプレッシャーのほうが大きくなりました。
――『サイエンスZERO』に初めてVTRでご出演いただいたのが2006年ですが、覚えていらっしゃいますか?
iPS細胞ができた頃だったので、いろんな取材もいただいて。それまでテレビとかメディアってほとんど出たことがなかったですから、一気に世界が変わってしまったので1つ1つはなかなか思い出せないんですけども、でも全部ビデオが残っています。
2006年は、iPS細胞はネズミではもうできていて、人間でも理論的にはできるはずだと一生懸命研究していました。この年は僕たちにとってはおそらく人生で一番忙しかった1年で、本当にずっと働いていたという感じでしたね。ネズミのiPS細胞を国際学会で発表したり、夏には論文に発表していますから、世界中の人が、たった4つの遺伝子で体の皮膚の細胞を万能細胞に戻せるんだということに驚いて、でも非常に簡単な方法なので、世界中の人がうわーっと実験に取り掛かって。当然、ネズミでできたら次は人間ですから、ものすごい競争だったんです。
ラボのメンバーと時にはお酒を飲みに行ったりしますけれども、そのあとも彼らは実験をし、僕はコンピューターに向かって論文を書いたり海外の研究者とやりとりしたりしていました。
――このときの番組では「マウスは4つの因子だけど、人間はもっと複雑だろう」とおっしゃていました。
遺伝子を幾つか入れて細胞をがん化させるという研究を僕たちの前にたくさんの人がしていて、ネズミの細胞は1個、2個の遺伝子でがん化することが分かったのですが、人間の細胞は1個、2個ではだめで、3個、4個とネズミに必要な遺伝子にプラス2つくらい入れないと変化しないんです。寿命も長いですから、細胞を守るいろんなメカニズムがあることが分かっていました。だからきっとiPS細胞も、ネズミが4つだったら人間は6つ、7つ、8つ要るんじゃないかなと。ほぼそうだろうと思ってましたが、結果としてはネズミと同じ4つでできたので、それは本当に意外でしたね。
――2007年にヒトのiPS細胞作製が発表されたので、それからわずか1年で完成したということですね。
実はもっと早くできていました。論文にするには1年ぐらい時間かかりましたけれども。かなり早い段階で、「あ、人間でもできる」という感触は得ていましたけれども、もし間違いだったりしたら大変ですから、もう相当慎重になりましたね。ネズミのときもものすごく慎重になりましたが、人間のときは、競争があるから早く出したいけれども、なんかの間違いがあってもいけないから慎重さも求められますし、そのバランスが本当に大変でしたね。
どうなる?5年後、そして20年後の生命科学と医療
――iPS細胞によって社会は将来どうなると思いますか?
次の10年、20年という単位で考えると、iPS細胞という技術ができたことによって健康寿命が延びていくのではないかと思います。健康寿命というのは、自分の力で自分のやりたいことができる、介護も看護も要らない、そういう期間です。それと平均寿命の差は、今の日本では10年ぐらいありますが、その間は介護や看護が必要になります。健康寿命を1年でも延ばしたいというのが私たちの目標で、iPS細胞が必ず役に立つだろうと。まだ臨床試験という段階ですから本当の意味では患者さんに届いていませんが、次の5年、10年、20年ぐらいで、かなり貢献できるんじゃないかなと思っています。
さらに、医学、科学の進歩はどんどん続いていきますから、きっともっとすごい技術が生まれて、「昔、iPS細胞というのを使っていたんだな」と、2050年とか2100年ごろにはそういう時代が来るのではないかと思います。外から細胞を移植するのは昔の話で、薬を飲んだら体の中で勝手に再生するとか、指を切断しても薬を塗ったら指が生えてくるとか、将来的にこうなっても全然不思議じゃないです。
――健康寿命を延ばすとは?
残念ながら加齢に伴って、体の中でいろんな細胞機能っていうのは落ちていっているんですね。年を取っていくと、僕もだんだん物忘れが激しくなってきたり、走っていても前のようには走れない。心臓の機能も落ちていきますし、骨もちょっともろくなったりとかします。
「若返り」っていうと科学的じゃないイメージをお持ちの方も多いかもしれませんが、実際、たくさんの人が苦しんでいる病気のかなりの多くは細胞とか組織の老化によって引き起こされている状態ですから、病気を本当の意味で治していくためには、いかに老化の速度を緩やかにするか、もしくは老化で落ちた機能をいかに戻すかということになります。
今はそれぞれの病気に対する治療法をそれぞれの先生が一生懸命考えているんですね。もちろん、こういう個々の病気を治すというのはこれからも非常に大切ですけれども、ぱっと見は違う病気、脳の認知の病気だったり目の網膜の病気だったり、関節機能とか心肺機能の低下だったり、違う病気に見えるけれども、根本には細胞の老化によって細胞機能が落ちていると、共通なメカニズムがあるんですね。
そうすると、個々の病気じゃなくて共通のメカニズムに効くような薬や治療法が今後開発される可能性があります。そうするともう個々の病気に対する治療という概念とはちょっと違う、別の種類の医学、治療法が出てくる可能性があると思っています。だからそれは、病気になってしまってからの治療というよりは、予防に近いかもしれません。
――薬をつくることにもiPS細胞をいかせると聞きましたが。
iPS細胞というと、再生医療は非常に分かりやすいので有名なんですが、創薬につなげることも同じぐらい大切です。病気の人からiPS細胞を作って、病気の原因や薬の効き方を調べることができます。
例えば、同じアルツハイマー病という診断名がついても、1人1人やっぱり違うんですね、原因も違うし薬の効き方も違うんです。だから、1,000人のアルツハイマー病の患者さんからiPS細胞を作って、脳の細胞や立体的な「小さな脳」を作り出せば、1,000人のアルツハイマー病患者で何が違うのか、どんな薬がどの人には効くのかを調べることができます。
これからの新しい医学というのは、この1,000人のうちの、この人たちにはAという薬が効きます、この人たちにはBという薬が効きます、この人たちには今の段階ではiPS細胞から作った脳の細胞を移植するのが一番いい治療ですと。そういう個々に最適の治療法を選んで、それを投与するという使い分けですね。
「個別化医療」と呼ばれているものですが、iPS細胞は、もう既にそこに活用されつつありますし、これから大きく貢献できる可能性があるのではないかと思います。
“死の谷”を克服して、ひとりでも多くの患者救いたい
――社会実装していくためには、やっぱり企業との関わりも大事になってくるわけですよね。
もちろんです。大学といったアカデミアにできることは本当に限られていて、10人とか20人っていう少ない患者さんには臨床試験っていう形で届けることができるかもしれませんが、より多くの患者さんに届けるためには、やはり製薬企業を中心とする企業、特に大企業の力が絶対必要ですので、いかにアカデミアから企業に橋渡しをするかというところが1つの鍵になってくると思います。
2019年にiPS細胞研究財団を設立しましたが、役割は京都大学iPS細胞研究所をはじめとする大学、アカデミアのノウハウから出てきたイノベーションをいかに企業にシームレスに届けるかという橋渡しです。アカデミアと企業の間には「死の谷」と呼ばれる深い谷があって、せっかく大学で出てきたいろんな基礎研究の成果がそこに落ちてしまって、企業に渡らないことがあります。
もしくは日本ではダメなので、海外の企業に行って薬になってしまうという。海外で薬になると、一部のお金を持っている人のための、非常に高額な医療になるケースが多いんですね。投資家からものすごいお金を集めて研究開発を進めるという流れになっていますから。
そうすると、せっかく日本で生まれた研究の成果なのに、海外に渡ってしまうと逆輸入をする必要があって、そのときには1人当たりの患者さんの治療費が何千万円とか何億円とか、そういうことになってしまうケースが実際起こっていますので、この流れはなんとかしていかないと本当に大変なことになると思っています。iPS細胞は日本で生まれた成果ですから、多くの人が使える価格で提供できるように、日本でしっかり企業に橋渡しをしたいと思っています。
――20年ほど前はマラソンで言うと5キロぐらいだとおっしゃっていましたが、今はもうゴール直前くらいでしょうか?
いやいや、今はちょうど中間点過ぎた辺りかなと。これまでのところはもうほぼ全員の選手が棄権せずにしっかり、いいペースで走ってきていますから、本当にここまでは順調だと思うんですが、ただ、マラソンと一緒で、ここからが本当に大変で。たぶん30キロぐらいまではみんないけると思うんですけれども、35キロの壁とかいいますけれども、それが医薬品の開発も、ゴールが近づけば近づくほど失敗の確率が高まっていきますし、必要な研究開発費の額も、もうどんどん上がっていきますから、ここからがもう本当に正念場だと思っています。
世界の競争で勝ち残るための正念場を迎えた日本~カギは“ワンチームでの研究”と「失敗の共有」
――2008年に番組に出演されたとき、「今は僕一人でマラソンを走っている。海外はチーム、駅伝でやっていると。日本はこのままではバテてしまう!」とおっしゃっていたのが印象的でした。
2007年からサンフランシスコでもiPS細胞の研究を部分的にやりだして。そうすると感じたのは、アメリカはサンフランシスコを含むベイエリアだけとか、ボストン、テキサスだけでとかそういう地域で日本全体の研究者と同じくらいの優秀な研究者が集まっていて、予算も集まっていて、チームがいっぱいあって、横の強いつながりがあるんです。
日本は、ようやく私たちの京大や東大、理化学研究所などが集まってようやくアメリカの1つのチームと対抗できるぐらいの力になると。もし日本の研究者がばらばらに研究していたらアメリカのどのチームにも勝てないというのがもう火を見るより明らかでしたので、だからもう「オールジャパン」でやってくださいと。最初のiPS細胞作製には日本が成功しましたが、そうしないと絶対、全部アメリカ、ヨーロッパに持っていかれますという危機感、恐怖感がありましたから。
――欧米と日本では研究のあり方が違いますか?
1990年代の後半もアメリカでポスドクとして研究していたんですが、そのときのアメリカと10年たった2000年代後半のアメリカでは、全然違ったんです。1990年代のアメリカは、日本と同じような感じで、ある意味のんびりしていて研究を楽しもうという雰囲気があって、日米で雰囲気に差を感じなかったんですが、10年たつと、いかに特許を取って、ベンチャーをつくって、投資家からお金を集めて、薬にするかっていう、みんなで一気に駆け抜けるというふうに変わっていました。一方で、日本はそこまでいってなかったんですね。今、日本もかなり頑張っていますが、ちょうどiPS細胞ができた頃が、アメリカと日本の差が一番広がっていた時期じゃないかなと。
――研究者が集まってチームでやると違いますか。
やはり1人でやっているのとは全然違う。みんなで得意なところを分担して、情報を共有して。特に大切なのは「失敗を共有」することです。こんなふうにやったらうまいこといきませんでしたよ、ということを共有するのが本当に大切なんです。うまくいったことは論文や学会発表で共有されるので、失敗を共有するっていうのが、かなり鍵になってるような気がします。
――山中さんが他の研究者からのヒントをもらったという経験はありますか?
奈良先端大で自分の研究室を持って研究を始めたのが2000年ですが、そこには植物の研究者や、ゲノムの研究者がたくさんおられて、同じビルの中で非常に横のつながりが強かったんです。
それまで私は、植物の研究者やゲノムの研究者の前で研究を発表する機会なんてまずなかったんですが、奈良で「僕たちは動物の皮膚の細胞を万能細胞に作り替えたいんです。でも非常に難しいと思っています」という話をすると、植物の先生が、「山中さん、ずいぶん難しそうに言ってたけど、植物っていうのは全身万能細胞みたいなもんだよ」とおっしゃって。それが本当に目からうろこといいますか。植物は接ぎ木とか挿し木でどんどん増やせる種が多いんですけれども、あれはまさに切ったところから万能細胞ができているんですね。だから、植物でそんなに普通に起こっていることだったら、動物でも自分たちが思ってるほど難しくないんじゃないかなっていう。自分で勝手に限界を作っていたのが、それ破れるといいますか、そんなふうに感じたのを覚えています。
――日本はワンチームになりましたか。
ないかというのはありますが、80点、90点くらいの点数を付けられるくらいになっていると思います。
最初に自分の自分の研究室ができたときは10人くらいの本当に小さなチームで。でも、iPS細胞研究所は600人くらいの組織で、大学の病院の先生方とか、他の研究機関の人も入れると何千人というチームなんですね。だんだんチームが大きくなると、「任せたほうがうまくいく」ことがどんどん分かってきました。自分でできることは限られていて、チームの枠組みはつくって、必要な情報のやりとりはきっちり行うけれども、あとはお互いに信頼して、いかに任せるかだと思っています。
今は研究所の中に若い研究者もたくさんいますが、若い人たちから学ぶこともすごい多いです。実際、実験手法とかの進歩の速度が速過ぎて、私も60歳になりましたがなかなか理解できないんですね。測定方法もそうですし、出てくる大量のデータをどう解析するかもコンピューターにかなり精通してないと解析できない。さらに今はAIも取り入れて解析していますから、教えてもらわない限りできないですから、20年でずいぶん変わりました。
20年前のチームとは全然違うチームになって、より成熟して大きくなった。そんなふうに思います。