腸内細菌がわれわれの健康を支配している?
私たちの腸に1000種類、100兆個あまりが生息していると言われる腸内細菌。おなかの調子を整えてくれるイメージがありますが、ここ10年ほどの研究で、腸内細菌が生み出す「さまざまな物質」が、睡眠や筋力、太りやすさに至るまで、私たちの体に想像以上に大きな影響を与えていることがわかってきました。
「腸内細菌こそが健康や体質を支配しているのではないか」そう思いたくなるような研究成果が次々と発表されています。腸内細菌に注目する企業も増え、腸内細菌をターゲットにした食品や医薬品、サプリメント、化粧品などの開発も加速しています。
さらに研究が進めば、「腸内環境を意のままに変えることで、健康維持や体質改善だけでなく、パフォーマンスの向上や、人体の機能拡張までできるようになる」と専門家は予測しています。最新研究でわかってきた「私たちと腸内細菌の切っても切れない深い関係」に迫り、どうつきあっていくのがよいかを探ります。
睡眠・肥満・持久力にかかわる腸内細菌 菌が生み出す驚異の力
20年以上、腸内細菌の研究に携わってきた慶應義塾大学特任教授の福田真嗣さんは、腸内細菌が生み出す物質にいち早く着目した一人です。福田さんは、腸内細菌の集団で構成される腸内細菌叢(ちょうないさいきんそう)を一つの“臓器”と捉え、そこから産生される物質が生体機能に与える影響を明らかにしてきました。
長距離ランナーに多い腸内細菌とは?
福田さんが7年前から研究対象にしているのが、長距離ランナーです。タイムが速く持久力のある選手の腸内細菌には何か秘密があるかもしれないと考え、ランナーの便を分析しました。すると、タイムが速い選手ほど、「バクテロイデス・ユニフォルミス」という腸内細菌を多く持つ傾向が見えてきました。
この腸内細菌が持久力の向上に貢献しているかもしれないと推測し、マウスによる実験を行ったところ、「バクテロイデス・ユニフォルミス」を投与されたマウスは、投与されていないマウスに比べて、倍以上も長く泳ぐことができるという結果が得られました。
しかし、腸にいる腸内細菌がどのように持久力に影響を与えるのでしょうか。
鍵を握るのは、腸内細菌のバクテロイデス・ユニフォルミスが生み出す酢酸やプロピオン酸などの代謝物です。酢酸とプロピオン酸が腸で吸収されると、血管を通って肝臓に運ばれます。すると肝臓の働きが活性化され、グルコース(ブドウ糖)が作られます。
グルコースは、私たちが運動をする時に失われていく、いわば燃料。バクテロイデス・ユニフォルミスの働きによって消費されたグルコースが補われることで、ランナーの持久力が向上するのではないかと福田さんは考えています。
「腸内細菌は、ヒト第二のゲノムと言われるくらい、我々人間に大きく作用しているということが分かってきています。腸内環境をデザインすることができれば、機能拡張、つまり人間ができることも増やせるのではないかと思います」(福田さん)
腸内細菌と私たちの“共生関係”
それでは、腸内細菌はなぜ腸に生息しているのでしょうか。実は、呼吸にかかわる口や鼻から遠く、消化管の最終経路にあたる大腸は、人体の中でも稀な、酸素が極めて少ない領域になっています。そして私たちが食事をすると、食物繊維など、消化しきれないものが腸まで届き、これが腸内細菌の“エサ”になります。エサが豊富な上、腸内細菌は酸素を好まないものも多いため、酸素が少ない大腸は、格好の住みかというわけです。
腸内細菌は、腸にやってきた“エサ”を食べてエネルギーに変えています。その際に生み出す“代謝物”が人間のパフォーマンスに影響を与えているのです。腸内細菌と人体の関係について研究している京都府立医科大学教授の内藤裕二さんは、その関係性をこう表現します。
「腸内細菌にはそれぞれ特徴があり、自分で作れない代謝物を別の細菌に作ってもらいながら、互いに補い合って生きています。偶然、その中のいくつかが人間の役に立っていて、私たちはそのおこぼれをいただいているようなもの。腸内細菌は我々にいろんなことをもたらしてくれるし、我々は菌のために腸という住みやすい環境を提供しているということになります」(内藤さん)
内藤さんによれば、人体に良い影響を与える代謝物を出す腸内細菌が、ここ数年で次々に見つかっていると言います。例えば、日本人に多い菌の一つとして知られている「ブラウティア」というグループの菌。その中の一つが、日本人の肥満に関与していると発表されました。この菌が少ない人は、肥満になりやすいと考えられると言います。また、ラクトバチルス・プランタラムという種類の菌の中の一つが、睡眠にいい影響を与えることもわかってきました。
治療が難しいとされてきた神経変性疾患や認知機能の低下などに腸内細菌の代謝物が影響している可能性が明らかになってきたため、メカニズムの解明が進めば、治療法の確立にもつながると期待されています。
「現代人の腸内環境」の危機?
腸内細菌が生み出す代謝物が、私たちが生きていく上でなくてはならないものになっている一方で、私たちの体調や体質を大きく左右することもわかってきています。腸内細菌と病気や健康との関係を研究する摂南大学の井上亮教授は、学生アスリートの腸内環境を調査し、一部の学生の腸内に異変が起きていることを明らかにしました。
ラグビー部員を対象に行われた調査の結果、一部の部員に、炎症を引き起こす大腸菌が多くなるなど腸内環境の悪化がみられました。詳しく調べたところ、大腸菌が増加した原因の一つは、食生活にあることがわかりました。一部の部員は、ラグビーで活躍できる体作りのために、タンパク質や糖質を多く摂ることを重視していました。
腸内細菌の食事は「野菜」?
一方で、体重に関係がなさそうな野菜の量は少なく、食物繊維が不足していました。実は、タンパク質や脂質は過剰に摂取すると、炎症を起こす腸内細菌を増やすリスクがあることがわかっています。体に良い物質を出す腸内細菌は、野菜などに豊富に含まれる食物繊維を好む傾向にあるため、良い菌が減ってしまったと考えられるのです。
また、私たちは、自分の意志で手足を動かすことはできても、自分の意志で便を作ることはできません。腸内細菌の代謝物が出すシグナルによって、もともと水のような便から水が吸収され、便が作られていきます。食事によって腸内細菌の偏りが生まれたうえ、炎症が起きた腸内では、こうした機能が低下し、柔らかい便がそのまま出て下痢になってしまうのです。
軟便や下痢によって排便の頻度が上がると、腸内に酸素が入るタイミングが増えてしまいます。腸内細菌の中には酸素を嫌う菌が多く、ビフィズス菌などの細菌は減ってしまいます。一方で大腸菌は酸素があっても生きられるため、ますます増える、という負のサイクルに陥ってしまうのです。
井上さんは、良好な腸内環境とは、多様な腸内細菌が共存している状態だと語ります。
「飽食の時代で何でも選べるようになってきたけれども、食べるものはだいたい決まっていると思います。意識しないと悪い菌ばかりが残って、腸内細菌の多様性を維持しづらいのかも知れません」(井上さん)
長寿につながる“腸内細菌とのつきあい方”
腸内環境を良好に保つ秘策を探る研究も始まっています。
京都府北部の京丹後市(きょうたんごし)は、100歳以上の割合が全国平均の3倍以上の長寿の地域として知られています。この地域に長寿の人が多い理由を探るため、京都府立医科大学による大規模な疫学調査が5年前から行われています。
調査の結果、酪酸産生菌が多い人たちは、共通して野菜や果物、豆類を多く摂っていることが明らかになりました。
「どの食材が酪酸産生菌を増やしているのかはまだ分かっていませんが、野菜あるいは豆類あるいは果物など、食物繊維の摂取というのが長寿の背景にあるのかなと思います」(調査にあたった京都府立医科大学・高木智久准教授)
実は、酪酸産生菌が生み出す酪酸は、細胞にエネルギーとして吸収される際、腸内の酸素を消費します。その結果、酸素の少ない腸内環境を好む菌を増えやすくし、腸内の多様性に貢献しているのではないかと考えられています。
前述の摂南大学ラグビー部の部員たちは、食事の改善と、豆由来の食物繊維を含んだサプリメントを摂取したところ、2週間で腸内環境のバランスがよくなったと言います。持続して食習慣を変えていけば、腸内環境は次第に改善されていくのです。
自分の体ひとつでは生きられない私たちが健康で長生きするためには、体の中の小さな「相棒」との、互いに快適な共生関係を築いていくことが大切だと京都府立医科大学の内藤裕二教授は考えています。
「まず、自分の腸内を知るところからスタートして、そのためには、何を食べるかが大事です。それだけではなく、筋力を維持したり、生活リズムを整えたり、トータルに健康長寿に向けていろいろな戦略を考えなければなりません。便利さももちろん必要ですが、現代における、多様性のある腸内細菌を作る方法をこれから提案していきたいなと思っています」(内藤さん)