数学で命を救う!? 数学の“超難問”を解いて「痛くない乳がん検査装置」を発明

NHK
2021年11月25日 午後6:30 公開

日本人女性の9人に1人がかかるとされる「乳がん」。早期に発見すれば生存率が高いため、乳がん検診を受けることが大切です。ただ、現在推奨されている検査方法では、「高濃度乳房」というタイプの乳房の場合、がんを見落としてしまう場合もあることが指摘され、課題となってきました。

しかし、今、このタイプの乳房でもがんをきっちり見つけることができ、しかも検診時の痛みがないという画期的な乳がん検査装置の実用化が間近のところまできています。

開発の肝は複雑な計算式を駆使して「見えない物」を可視化するという技術。実は1人の日本人が数学上の“超難問”を解き明かしたことで実現にこぎつけました。この技術を使えば乳がんだけでなく、リチウム電池の発火原因となる内部の異常、さらにトンネル事故につながるコンクリート内部のひび割れなどの可視化も可能になるといいます。

数学なんて難しいだけで役に立たない…なんて思っている人も考えが変わるかもしれません。

まもなく実用化へ!“痛くない乳がん検査”

40歳以上の女性に対して、2年に1回受けることが推奨されている乳がん検査。推奨されている検査方法で見つけるのが難しいのが、前述した「高濃度乳房」というタイプ の場合です。

高濃度乳房は、乳房の形を支えるコラーゲン線維が多いタイプの乳房のことで、X線マンモグラフィーで撮影すると線維が白っぽい塊として映ってしまいます。一方、乳がんもX線マンモグラフィーで白く映ってしまうため、高濃度乳房の中に乳がんが隠れていると、発見が難しい場合があるのです。そして、この高濃度乳房は日本人女性、特に若い人に多いとされています。

この課題の解決に取り組んできたのが、神戸大学の数理・データサイエンスセンター教授で、発明家でもある木村建次郎さんです。

木村さんが発明した乳がん検査の方法は、乳房の表面にどの位置を検査したのかを記録するための格子状の線が書かれた薄いフィルムシートを貼り、アンテナと呼ばれる機器を当てて表面をなぞるだけ。X線マンモグラフィーのように装置に乳房を挟む必要がないので、痛みもありません。

アンテナで乳房の表面をなぞってデータが蓄積されると、すぐに乳房の中の様子が立体的に映し出されます。1ミリ以下の微小ながんも見つけることができるほどの精密さに加え、立体的に検査ができるのが利点だといいます。

「乳房全体の3次元マップなので、立体的な位置を正確に把握することができます。医師が実際に手術をするときにどのくらいの広がりを切除すればよいかが分かるのです」(木村さん)

そして、従来の検査方法で発見が難しい場合がある高濃度乳房でもしっかり映し出すことができます。これを可能にしたのが、検査に使われている「マイクロ波」です。

マイクロ波は電波の1つで、テレビ放送や携帯電話など身の回りで広く使われています。

油などは通り抜けるのに対し、水分子があると散乱されてはね返ってくるという独特な性質があり、乳房の場合、大部分を占める脂肪やコラーゲン線維は水分子をあまり含まないため、ほとんどはね返ってきません。

一方、がん組織の周りは毛細血管が非常に発達し、血液、つまり水分子が多く含まれるため、マイクロ波が当たると、がん組織の中の水分子によって散乱され、はね返ってきます。

検査では、乳房の中に向かって放射状にマイクロ波を発射します。もし乳がんがあれば、マイクロ波ははね返ってくるので、それをアンテナで受信し、そのデータを元にがんの位置や形が分かるという仕組みです。

このマイクロ波の特性を利用することで、X線では全体が白く映ってしまう高濃度乳房の場合でも、がんを鮮明に捉えることが可能になりました。

「この検査装置は高濃度乳房でも、若い女性でも年配の女性でも、あらゆるタイプの乳房の人に普遍的に適用できることが非常に重要なポイントです」(木村さん)

現在は治験を行っていて、2年後の実用化を目指しているといいます。

発明の裏にあった数学の超難問

実は、マイクロ波が乳がん検査に適していることは以前からよく知られていたことでした。しかし、マイクロ波はがんに当たると複雑に散乱するという特徴があり、受信した波のデータから乳がんの位置や形を導き出すのが難しかったため、乳がん検査に使うには大きなハードルがありました。

そのハードルを越えるために必要だったのが、「波動散乱の逆問題」と呼ばれる数学の超難問を解くことでした。

「波動散乱の逆問題」とはいったいどういうものなのか、木村さんが湖を例に説明してくれました。

静かな湖面に水滴が落ちると、そこから同心円状に波紋が広がっていきます。このとき、湖面に木の枝が浮かんでいると、波が散乱され複雑な波紋となって水面を伝わっていきます。

もし波を散乱させた木の枝の場所や形が分かっていれば、どのような波が伝わるかは理論的な計算で求めることができます。このように障害物という原因から、返ってきた波の形という結果を導く場合は「順問題」と呼ばれ、計算が可能な問題です。

これに対して、障害物の位置や形が分からないときに散乱されて 返ってきた波の形、つまり結果から原因である障害物の位置や形を明らかにすることを「逆問題」といいます。

「何があるか全く分からないときに、波を発生させてはね返ってきた波から障害物の形を数学的に理論的に正しく決定するという問題で、これが応用数学の歴史上で誰も解くことができなかった『波動散乱の逆問題』です」(木村さん)

マイクロ波を使った乳がんの検査装置を実現するためには、この「波動散乱の逆問題」を解く必要があったのです。実は、これまで何人もの研究者がこの「波動散乱の逆問題」にスーパーコンピューターまで駆使して挑戦してきました。

例えば、人工知能などを使って乳がんの位置や形を推定。そこに、マイクロ波を当てたときに返ってくる波を計算し、実際に受信した波形と比較します。推定した乳がんの位置や形を変えて何度も計算を繰り返して、受信した波形を再現できるがんの位置と形を探すという方法です。しかし、スーパーコンピューターを使っても500時間かかってしまうなど、実用化できるような解き方が見つかっていませんでした。

一方、木村さんは10年以上前から数式を駆使して、逆問題を計算で解く方法を考え続けてきました。そして、ついに逆問題の答えを短時間で導き出すことができる数式を発見したのです。

超難問の答えは「美しい…!」

10年間をかけて「波動散乱の逆問題」を解いた木村さんですが、解き終わった瞬間は放心状態になるとともに、数式に対してこんな感想を持ったといいます。

「対称性の美しさに感動しました。アインシュタインの方程式もニュートンの方程式も対称性が整っているのですが、美しい数式というのは自然界をよく表現しているのです。この対称性の美しさというのは間違いなく揺るがないものだろうと」(木村さん)

木村さんの考え方を簡単に説明しましょう。

乳がんの検査で、マイクロ波を出してがん組織に当たってはね返ってくる場合を考えてみます。マイクロ波は乳房の表面から出るため、距離のあるがん組織から返ってくる波は、あちこちではね返ってくるために非常に複雑なものになります。

しかし仮に、マイクロ波の発生装置と受信装置を乳房の中に入れることができ、がんのすぐ近くで波を出して散乱したその場で受信できるとすれば、そこががんだと簡単に分かります。

このように実際にはできないことをやってしまえるのが“数学の力”だと木村さんはいいます。

あらゆる乳房における、すべての点での散乱の様子を数式で表し、導き出した方程式に乳房表面での実際の測定データを入れます。すると、その人の乳房におけるすべての点での散乱の様子を求めることができ、散乱の大きいところががんだと分かるのです。

発見ラッシュ!“驚異の数学”が命を救う

木村さんはこの「逆問題」の解明は乳がん検査におけるがんの「可視化」だけにとどまらず、さまざまな透視技術に応用できると考えています。

その1つがリチウムイオン電池の検査装置です。

リチウムイオン電池はさまざまな製品に使われていますが、内部に異常が生じると、発火・爆発することもあるという危険な一面もあわせもっています。しかし、内部を調べるためにはこれまで電池を分解するしかありませんでした。木村さんは分解せずに調べる方法を発明し、すでに検査装置が世界各国の自動車メーカーで使われています。

また、トンネルコンクリートの内部を検査する装置などへの応用も始まっています。

トンネルのコンクリートは、高所作業車を使ってハンマーをたたいて行う打音検査という方法で検査が行われていますが、木村さんが発明した方法では、電車などで走行しながらリアルタイムでトンネル内部の構造全てを可視化することが可能なのだそうです。

原理原則の見直しが大きな変化を生み出す

さまざまな「見えないもの」を可視化し続けている木村さん。最後に数学的なブレークスルーが、成し遂げてきた成果について、次のように説明してくれました。

「我々がよく知っているX線CTやMRIの根幹を担っているものが1つの数式であったという事実を多くの人に知ってもらいたい。大きな変化を生み出すには、より原理原則的な理論を見直すことが最も大事だということは科学者全員が共通して持っている心のコアではないかと思います」(木村さん)

数学を役に立たない学問と思っている人もいるかも知れませんが、数学には人の命を救う驚異の実力があったのです。