ひとりぼっちの“スパイ・イルカ”

初回放送日: 2024年3月23日

シロイルカ(ベルーガ)は「サンクトペテルブルク製」と書かれたハーネスを着けていたため、軍事利用目的の“スパイ・イルカ”ではないかと推測された。驚くほどの人懐こさでノルウェー中の人気者に。やがて海岸線に沿って南下を始め、群れにかえることなく5年に渡って2200キロをひとりぼっちで泳ぎ続けている。このまま自由に泳がせておけばいいのか、それとも人間が保護するべきなのか?一頭のイルカを巡る論争を伝える。

  • 番組情報
  • その他の情報
  • 詳細記事

目次

  • ■ダイジェスト動画
  • ■まとめ記事

■まとめ記事

(2024年3月23日の放送内容を基にしています)

広い海をひとりぼっちで泳ぎ続けているシロイルカがいます。名前は、ヴァルデミール。推定14歳。人間の年齢でいうと、20歳くらいの若いオスです。ヴァルデミールが有名になったのは、こんな動画がきっかけでした。

カモメをからかったり、

ラグビーボールを投げると持ってきてくれたり・・・。

今度はなんと、海に落としたスマホを拾ってくれました!

シロイルカは本来、人が少ない北極圏に暮らす生き物です。なぜこんなに、人に慣れているのでしょうか。

5年前(2019年4月)、ノルウェー沖で最初に発見されたとき、ヴァルデミールの体にはハーネスが装着されていました。ロシア製だったことから、ロシアで人に訓練されたスパイのイルカだとみられたのです。

 ヴァルデミールは、ノルウェー沿岸を北から南へ、2200キロ以上に及ぶ旅を続けています。自由になった今も、人のそばを離れようとはしません。そのせいで、危険な目にも遭っています。このまま自然にかえした方がいいのか。それとも人間が手助けをするべきなのか。ひとりぼっちの“スパイ・イルカ”を追いました。

<ヴァルデミールの出現>

ノルウェーの最も北にある町、ハンメルフェスト。ヴァルデミールは最初に、この町の近くの海で発見されました。人口はおよそ1万。静かな港町です。

ヴァルデミールは、町に戻る住民のボートについて港に現れました。

 

ヴァルデミールを見た男性「すぐに見に行ったよ。あんな動物、初めて見たから」

ヴァルデミールを見た少年「大きくてビビった。でも手を伸ばしたら、頭をつけてくれたんだ」

フレンドリーなシロイルカは、あっという間に町のアイドルになりました。

ヴァルデミールを見た少年「小さなパトカーのおもちゃを海に落としちゃったんだけど、シロイルカが海の底から拾ってきてくれたんだ。すごくうれしかった。『ありがとう』って頭をたたいたら、喜んでくれたんだ。こんなふうに笑ってくれたよ」

 人々は彼を「ヴァルデミール」と名づけました。「ヴァル」は、ノルウェー語でクジラの意味。シロイルカは、クジラの仲間です。それに、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の名前をもじって「ヴァルデミール」。ロシアから来たスパイかもしれない。皮肉とユーモアを込めた名前です。

 でもなぜ、ヴァルデミールは“スパイ・イルカ”と疑われたのでしょうか。

<ヴァルデミール発見~軍用動物とは?~>

上の画像は、ヴァルデミールが発見された当時のものです。体にハーネスが装着された状態で泳いでいました。最初に見つけた漁師のヨーアル・ヘステンは、こう話します。

 ヨーアル・ヘステン「ヴァルデミールは私たちの船へ泳いでくると、ハーネスを外してほしそうに体をこすりつけました。野生動物は賢いから、助けが必要なときは人間を探すと聞いたことがあります。このイルカは一体何なのか。私は警察や漁業局、それからメディアに電話をかけました。でも、酔っ払った漁師からの電話だと思われたんでしょう。ハーネスをつけたシロイルカなんて、誰も信じませんからね」

ヨルゲン・リー・ウィーグ「私はそれまで、ノルウェー沿岸でシロイルカを見たことがありませんでした。しかもハーネスをつけているなんて。海でトラブルに遭った動物を助けるのも漁業局の仕事なので、まずハーネスを外してあげることにしたんです」

こうして、ヴァルデミールのハーネスを外す作業が始まりました。その任務を買って出たのは、第一発見者の漁師、ヨーアルです。外されたハーネスから、驚くべき事実が分かります。ハーネスには、小型カメラを取り付けられる部品がついていました。部品を調べると、「サンクトペテルブルク」の文字。ロシア製のハーネスだと分かったのです。

「ロシアから脱走した“スパイ・イルカ”がノルウェーで見つかった」(BBC/2019年4月29日)

衝撃的なニュースは、瞬く間に、世界中を駆け巡りました。

オスロに住む男性「フェイクニュースでしょう。“スパイ・イルカ”がいるなんて、信じられないよ」 

ハンメルフェスト市職員「軍事目的でイルカを飼うなんて、正気の沙汰ではありません」

スパイ活動をするイルカなんて、本当にいるのでしょうか。

実は、軍事利用を目的とした海洋哺乳類の飼育は、1960年代の冷戦下に、アメリカとソ連で始まったと言われています。現在、アメリカ海軍では、およそ70頭のイルカが訓練されています。主な任務は、海底に仕掛けられた機雷を発見することや、ハーネスにカメラを装着して敵の動きを監視することなど。イラク戦争などの前線にも、派遣されてきました。

<初期のヴァルデミール>

発見後まもなく、専門家によるヴァルデミールの調査が行われました。

アウドゥン・リッカルセン「彼はトレーナーがよく使う手のサインに反応していたので、明らかに訓練された動物だと分かりました。かなり幼いときに捕獲され、長い間、飼育されていたようです。そのため、野生の習性の多くを失っていました」

野生のシロイルカは、ノルウェー本土のさらに北、北極圏のスバールバル諸島などに生息しています。仲間と協力してエサをとるなど、“群れ”で生活する動物です。また、シロイルカは声を出すことで、仲間同士のコミュニケーションをとっています。よく鳴くことから、“海のカナリア”とも呼ばれています。しかし、ヴァルデミールはほとんど鳴きません。人間に育てられたため、鳴くことを知らないのかもしれません。

知能が高く社交的なシロイルカは、訓練しやすい動物としても知られています。

そんな訓練を幼いころから受けて育ったとみられるヴァルデミールとって、エサは“人間がくれるご褒美”。海に魚を放しても、人間の手からでないと食べようとしません。

アウドゥン・リッカルセン「ロシアから脱走して自分でエサをとることができなかったので、かなり痩せてしまっていました。10年以上も人間しか知らずに生きてきたのです。自分のことをクジラというより人間に近い存在だと思っているのでしょう」

<専門家が動き出す>

このままではヴァルデミールが野生の中で生きていけない。海洋動物の専門家たちが行動を起こします。まず、自力でエサをとるための指導を始めました。

3か月ほどで魚を捕まえることを覚えたヴァルデミールは、徐々に、エサを求めて港の外へ出ていくようになりました。

ヴァルデミールにとって幸運だったのは、ノルウェー沿岸には、あちこちにサーモンの養殖場があることです。サーモンのエサのおこぼれを目当てに、生けすの外には小魚が集まってきます。たくさんの魚が簡単にとれる、格好のエサ場です。いつしか、養殖場に居つくようになりました。

でも、養殖場を管理する人たちにとって、ヴァルデミールはちょっと迷惑な来訪者。大切なサーモンに悪い影響を与えないか、心配していました。

そんな中、ヴァルデミールの安全を守るため、立ち上がった保護団体があります。「ワン・ウェール」。一頭のクジラという意味です。まさに、ヴァルデミールのためだけに結成されました。

セバスチャン・ストランド「今日ヴァルデミールは、サーモンの養殖場で網の点検や修理をしている近くにいたよ。そのうちホースをかじって遊び始めたから、私たちが誘導して離したんだ。すべてがうまくいって、ホッとしたよ」

ヴァルデミールに魅了され、ワン・ウェールに参加したセバスチャン・ストランド。海洋生物学者です。最初の出会いは3年前。港でフェリーを待っていたとき、偶然、ヴァルデミールが現れました。

セバスチャン・ストランド「ヴァルデミールが両目でじっと私を見つめてきたんです。それで私も目を合わせて注意深く静かに近づくと、彼もゆっくり近づいてきました。それから6時間、彼と過ごしました。本当に特別な時間でした」

そのときにセバスチャンが撮影したヴァルデミールです(下画像)。セバスチャンをうかがいながら、ゆっくりと近づいてきました。

セバスチャン・ストランド「ヴァルデミールに会って、クジラがどれだけ賢くて優しく、そして面白い存在なのかを知ったんです。私にとってヴァルデミールは、信じられないくらい大切な、家族のような存在になりました」

この団体を立ち上げた、レジーナ・クロスビーです。保護活動を世界中に発信し、寄付を募っています。

レジーナ・クロスビー・ハウグ「ヴァルデミールの意思を尊重し、適切な距離感で見守りたいと思っています。彼を野生に戻すため、たくさんの資金を集めたいんです」

<人を求めるヴァルデミール>

ヴァルデミールは最初に発見されてからおよそ3年の間、本来の生息地であるスバーバル諸島など北に戻ることなく、ノルウェー沿岸を泳ぎ続けていました。

人々は当初、彼が野生に戻ることを期待しました。でも、ヴァルデミールは人間が大好き。人のそばを離れることはありませんでした。そのせいで、ケガをすることもしばしば。ボートのスクリューで、こんな深い傷を負うこともありました(下画像)。

対して、人間がとがった棒でつつこうとしたり、遊び半分で固い板をかませたり、ヴァルデミールの口を踏みつけたりすることもあります。

レジーナ・クロスビー・ハウグ「見てください。10隻以上ものボートが、ヴァルデミールを取り囲んでいます。若者はボートの操縦に慣れていないから、事故が起きないかとても心配です」

ワン・ウェールでは、ヴァルデミールの行動を見守り、危険が予想されるときには船を出します。コミュニケーションをとりながら、よりリスクの低い場所へと誘導していくのです(上画像)。

セバスチャン・ストランド「ひとりぼっちでいる今は、人のところへ来てしまうのはしかたがないことです。仲間がいれば魚をとるのも楽になるし、人間に対する興味も薄れるんですが・・・。そうだね、本当は群れにかえれたらいいんだけど」

夕暮れ。ヴァルデミールはいつも船の下で眠ります。シロイルカは群れの中で眠る習性があります。ヴァルデミールも、船に囲まれていることで、仲間がいるような安心感を得ているのかもしれません。

<人に飼育された動物は野生にかえれるのか>

人に飼い慣らされた動物が、再び自然に戻ることはできるのか。その問題に向き合ってきた人がいます。アメリカで海洋哺乳類の保護に取り組む、チャールズ・ヴィニックです。およそ30年前、訓練されたシャチを野生復帰させるプロジェクトに参加しました。

対象となったのは、映画「フリー・ウィリー」で主役を演じたシャチのケイコ。幼いころから、水族館で芸を仕込まれてきました。

チャールズ・ヴィニック「最初のころ、ケイコに生きた魚を与えると、魚を捕まえてはおもちゃのようにくわえて戻ってきました。食べ物だと分からなかったのです。でも生きていくためには、一頭あたり1日に60キロもの魚をとらなくてはいけません。野生では、それを群れで行動することで賄っています。皆で魚を囲み、取って分け合うんです」

ケイコを海に戻そうと、資金が集まり、およそ20年ぶりに生まれ故郷のアイスランドへと移送されました。そこで、シャチの群れがいる海に放されたのです。

チャールズ・ヴィニック「あるとき、15頭のシャチがケイコの近くに泳いできました。でも、ケイコは興味を示しませんでした。ずっと水中聴音器で聞いていましたが、結局ケイコからも、シャチの群れからも、互いに声が聞こえることはありませんでした。体が弱っていたケイコは、冬にウイルス性の病気にかかり死んでしまいました。これほどに飼育した動物の野生復帰が難しいのは、家族の絆がある群れに戻せないからです。人間に育てられたから、どうしても人間に絆を感じ求めてしまうのです」

<猛スピードで南下し始めたヴァルデミール>

2019年、最初にハンメルフェストに現れたヴァルデミールは、およそ3年をかけて、沿岸をノルウェー中部までゆっくり移動していました。しかし、2022年から急にそのスピードは上がります。なんと1年で1200キロも移動したのです。ノルウェー南部には、首都オスロなど大都市があります。船の往来が多く、ヴァルデミールにとって危険も増します。本来の生息地である北極圏とは反対に、猛スピードで南に向かうのはなぜなのでしょうか。

セバスチャン・ストランド「バカンスで南に向かう人たちの船について行ったのだと思います。だからあんなに速く移動したのです。ヴァルデミールは今14歳。人間でいうと20歳くらいで、オスとして十分成熟しています。パートナーを見つけたい強い衝動が、彼を駆り立てているのです」

急速な南下にともなって、心配なことがありました。ヴァルデミールが痩せ続けていたのです。体重が野生で暮らすシロイルカの平均に比べ、およそ2割も少ないことが分かりました。南に行くにつれ、エサ場となるサーモンの養殖場が減り、エサ不足が心配されていました。

「フンはしていた?」

「ヌルヌルした黒っぽいフンをしていたよ。ちゃんと栄養がとれているわけじゃないけど、何かは消化されていたことを示している。運動量に対して、必要なカロリーはなんとかとれているみたい」

「急に痩せたのは、これまでずっと移動しているからだよ」

「泳いでいるからね」

ワン・ウェールでは、一般の人たちが投稿するSNSを手がかりに、ヴァルデミールを追跡しています。

ワン・ウェール スタッフ「写真にタグ付けされた位置情報とか、それがなければ本人に直接連絡したりして、場所を特定しています」

危険があったときにはすぐに対処できるよう、セバスチャンは車での移動生活を続けていました。

セバスチャン・ストランド「ヴァルデミールの追跡に忙しすぎて、ご覧のとおり、めちゃくちゃでしょ。荷物を整理する時間が少しでもとれたらいいんだけどね。ヴァルデミールがどこにいるか、常に把握していたいんです。だから、おちおちホテルで寝ていられないし、港で寝る方が気が楽なんですよ」

南下することで船や人との接触が増え、ヴァルデミールの行動にも変化が現れていました。ロープやボートに強い執着を見せるようになったのです。

セバスチャン・ストランド「ロープやブイを見つけると、引っ張ったり巻きつけたりして何時間も過ごしています。遊んでいるだけか、寂しさを紛らわしているのか。もしかしたら、昔教えられたことなのかもしれません」

トロムソ大学 北極海洋生物学部 教授 アウドゥン・リッカルセン「断言はできませんが、そうした行動はロシア海軍で教え込まれた可能性が極めて高いでしょう」

< “スパイ・イルカ” どのような訓練を行うのか?>

ノルウェー・ハンメルフェストからロシアとの国境を隔てて、およそ500キロ東にあるムルマンスク州のフィヨルドは、ロシア海軍の基地がある場所です。

拡大すると、基地の近くにある囲いの中に、シロイルカらしき姿が確認できます(上画像)。ヴァルデミールはこうした場所から逃げ出したのではないかと考えられているのです。

 軍用動物の訓練は、どのように行われているのでしょうか。元アメリカ海軍の訓練士に聞きました。

元アメリカ海軍 訓練士 リック・トラウト「これはイルカの鼻につける装置です。イルカはこれをつけて敵のダイバーに向かって泳いでいく。そうすると、赤い部分から弾丸が一斉に発射されて、ダイバーに当たるんです。残酷な任務です。自爆する危険もあるので、人間ではなくイルカにやらせるんです」

アメリカ海軍での軍用イルカの訓練期間は5年から7年。長い時間がかかるといいます。

元アメリカ海軍 訓練士 リック・トラウト「学ぶことはたくさんあります。うまくできたらご褒美をあげ、徹底して褒めて育てるんです。たたき込んだ軍の習性を元に戻すのは、そう簡単ではありません」

ヴァルデミールの行動も、ただ人間に褒めてもらいたいだけなのかもしれません。

しかし、ヴァルデミールが南に行くにしたがって、トラブルが増えていました。漁師が仕掛けていた漁具を持ち去ったこともあれば、遊んでいるうちにロープに絡まって地元の消防艇が救助に出動したこともありました。

<さらに南下 ついに都市部へ>

去年(2023年)6月、ついにヴァルデミールが人口密集地に現れました。

首都オスロの南80キロにあるフレドリクスタ。街の中心を流れる川に迷い込んでいたのです。

セバスチャンたちが、ボートを出してやって来ました。

背中を見せたヴァルデミールのすぐそばを、大きな船が通ります。早く対処しないと、頻繁に通る定期船にぶつかる危険もあります。

セバスチャンに気付いたのか、ヴァルデミールがボートのもとへやって来ました。無事に、定期船のルートから離すことができました。

セバスチャン・ストランド「ヴァルデミールが近づきすぎないように、このまま見守りを続けるよ」

<人間と動物を巡る悲しい出来事>

ヴァルデミールが現れた同じオスロ近郊の入り江です(上画像)。実は2年前の夏、人間と動物を巡る悲しい出来事が起きました。一頭のセイウチが迷い込んできたのです。

セイウチは、シロイルカ同様、北極圏で群れをつくって暮らす動物です。このセイウチはまだ子どもで、母親とはぐれ、泳いできたと見られていました。メスだったので北欧神話の女神から「フレイヤ」と名付けられました。

フレイヤが人の近くにやって来たのは、ヴァルデミールと共通する点があったからだといいます。

生物学者 ルーネ・オー「フレイヤはおそらく、気づいたときには群れから離れてしまっていました。セイウチも人間を恐れないので、フレイヤは母親恋しさに人に近づいてきたのでしょう」

 その珍しさから、写真を撮ろうと人が集まり、フレイヤとの距離が近づいていきます。ノルウェーの漁業局は、近寄らないよう指示を出すものの静観していました。

やがて、ボートを壊されるなど、実害が出るようになります。徐々に、人々はフレイヤを「迷惑な存在」と見るようになりました。

そして、夏休み。

混雑する海水浴場にフレイヤが現れます。人間に向かって泳いでくるフレイヤに、海水浴場は騒然となりました。このことで、漁業局はフレイヤを「危険な存在」だと判断。4日後に殺処分したのです。

ボートの持ち主「必要に迫られてのことだから、しかたないよね」

ボートの持ち主「人間の脅威になるから殺処分されるんだ。動物は本来の生息地で生きるべきもの。人間と同じところでは生きられないんだよ」

果たして、フレイヤを殺す必要はあったのか・・・。

殺処分から8か月後に披露されたのは、有志によって制作された等身大の像です。悲劇を忘れないようにと、フレイヤが命を落としたオスロのマリーナに設置されました。

象を制作した彫刻家 アストリ・トノイアン「実はフレイヤ像を制作していたとき、子どもが見に来たので、殺処分されたフレイヤのこと、彼女がまだ幼い子どもだったことを話しました。するとその子が『フレイヤのお母さんが知らない間に、彼女は殺されちゃったの?』と言ったんです。フレイヤは迷子の子どもだったのです。だけど人間たちはそんなことより、ボートを壊したとか、ここにいるべきではないとか、そんなことばかりを考えていました。ヴァルデミールにもフレイヤと同じことが起きないか心配しています。フレイヤの死を教訓に、人間が正しく接することができれば、ヴァルデミールは無事でいられると思います」

愛くるしい行動をするヴァルデミールも、実際は1トンもある大きなクジラです。強い力で人間にケガをさせる可能性も十分あるのです。

<ワン・ウェール VS. 一般市民>

2023年6月。ヴァルデミールがオスロ近郊のマリーナに現れたという情報が入りました。すでに大勢の人が集まっています。

見かねてワン・ウェールが行動を起こします。

レジーナがヴァルデミールを人の少ないところへ誘導しようと近づきました。

そのとき。

見物する人「よけいなことをしないでよ!」

見物する人「やめなさいよ!ヴァルデミールが危ないじゃない!」

ヴァルデミールとふれあいたい地元の人たちには、ワン・ウェールの活動をなかなか理解してもらえません。中には、やじる人も現われました。

それでも30分かけて、マリーナの外へ誘導しました。

レジーナ・クロスビー・ハウグ「まあ成功かな。私の後をついてきてくれたわ」

ところが、ヴァルデミールがまたマリーナの中に戻ってきてしまいました。

「かわいい!」

「これクジラ?」

すぐにまた人だかりができます。

何か口にくわえていると思ったら・・・空き缶です!水中で拾ってきて、見物客にプレゼントします。

空き缶をヴァルデミールから受け取った人「私に目を合わせてきたから、口に手を伸ばした。そしたら空き缶をくれたよ。ベッドサイドのテーブルに置いておこう。宝物にするよ」

今度はなんと、水に入ってヴァルデミールと遊び始めた人がいます。しかも、どんどん集まってきてしまいました。

ワン・ウェール スタッフ「泳いでいる君たち!何かあったら責任をとらされるのはヴァルデミールなんだよ!」

一緒に遊ぶ男性「でも、おとなしいけど?」

ワン・ウェール スタッフ「急に攻撃的にもなるんだ。突然つかんで、引きずり込むこともあるよ」

一緒に遊ぶ男性「君たちだって、さっきボートで遊んでいたじゃないか」

ワン・ウェール スタッフ「あれは必要なことなんだよ」

一緒に遊ぶ男性「ふ〜ん」

ワン・ウェール スタッフ「漁業局だって許さないよ」

 必死の忠告もむなしく、男性たちは遊ぶことをやめませんでした。

レジーナ・クロスビー・ハウグ「これまでヴァルデミールが尻尾をたたきつけたり、カメラを引っ張ったりするのを見てきたから言っているのよ」

一緒に遊んだ男性「ヴァルデミールと泳ぐより、車道を歩いている方がよっぽど危ないよ」

レジーナ・クロスビー・ハウグ「あなたがひかれるとか、そういう問題じゃないの。もしヴァルデミールが誤って誰かに危害を加えたら、彼が殺処分されるのよ。だから、あなたの心配をしているんじゃないの。私はヴァルデミールを心配しているの」

この騒動のさなか、セバスチャンがボートでヴァルデミールを誘導していきました。20キロほど離れた静かな入り江まで連れていくと、今度は戻ってはきませんでした。

<カナダの保護区>

自然にかえすことが難しい、飼育された動物たちをどう保護していくのか。新しい取り組みが始まっています。

カナダ東部のノバスコシアに、海洋動物の“保護区”の計画が進められています。40ヘクタールにわたって海を仕切り、その中に、水族館などで飼育されたシロイルカやシャチを受け入れるというものです。これを率いるのは、かつてシャチの野生復帰プロジェクトに失敗したチャールズです。

チャールズ・ヴィニック「動物たちは24時間のケアが必要です。岸辺には事務所をつくって、獣医や業務にあたるスタッフが常駐します。この保護区は動物の終(つい)の住みかです。自然の海へかえすことはしません」

建設費はおよそ20億円。運営には年間3億円を見積もっています。

チャールズ・ヴィニック「私たち人間が動物から野生を奪ってしまったのだから、最後まで面倒を見る責任があります。それが人間にできる精いっぱいのことなのです」

ヴァルデミールが最初に現れたハンメルフェストの街でも、保護区をつくる構想が立ち上がっています。

一方で、今のまま自由に泳がせることが彼の幸せだという意見もあります。

トロムソ大学 北極海洋生物学部 教授 アウドゥン・リッカルセン「いろんな議論があります。でもヴァルデミールが本当に何を望んでいるかは誰にも分かりません。大事なことは、ヴァルデミールをきっかけに、私たち一人一人がこの問題について考えることなのです」

今年(2024年)2月。ヴァルデミールは、ノルウェー南西部を泳いでいました。去年、スウェーデンまで南下しましたが、進路を変えて北上。エサ場となるサーモンの養殖場近くに、半年ほど滞在しています。心配されていた体重は、元に戻りました。

セバスチャン・ストランド「冬は海に人が少ないから、静かに暮らせていると思います」

最近になって、ある変化が見られるようになったと言います。ずっと静かに泳いできたヴァルデミールが、“鳴き声”を発するようになったのです。

セバスチャン・ストランド「楽しくて興奮しているとき、声を出すようになりました。ヴァルデミールはずっとひとりぼっちで、クジラの言葉を知らずに育ちました。でも、これはクジラの鳴き声に近いものです。ほかのクジラとコミュニケーションをとっている証拠です」

実際に、ほかのクジラと一緒に泳ぐ姿も目撃されています。

セバスチャン・ストランド「今後ほかのクジラと出会うことで、彼の話す言葉はきっと大きく変わっていくでしょう。このまま野生にかえってくれるといいんですが」

 そして、セバスチャン自身にも変化がありました。

地域の小学校を訪ね、子どもたちにヴァルデミールのことや、クジラの生態や保護について、伝える活動を始めたのです。

セバスチャン・ストランド「授業のあと先生から連絡があり、ある生徒が、父親が海に落としたチョコレートの包装紙を拾って学校に持ってきたと聞きました。その子は『プラスチックをヴァルデミールが飲み込まないよう、僕が拾っておいたんだ』と、とても誇らしげだったそうです。子どもたちに伝えることが、どれほど良い影響を与えるかを実感しました。ヴァルデミールと出会ったことで、私の人生は本当に大きく変わりました。これが一生をささげたい仕事だと、はっきり分かったんです」

5年前、ノルウェーに突然現れたヴァルデミール。人と動物はどのような距離でともに生きるのか。そんな問いを私たちに投げかけながら、今も、ひとりぼっちで泳ぎ続けています。