八島太郎による絵物語『The New Sun』(番組映像より)
日曜美術館ホームページでは放送内容に関連した情報をお届けしています。こちらは8/27放送「故郷は遠きにありて ~絵本画家 八島太郎~」に合わせたコラムです。1943年にアメリカで出版された八島太郎による『The New Sun』(邦題『あたらしい太陽』)。そこには、八島が日本にいた時期、プロレタリア美術運動に参加していたときの様子なども描かれています。
プロレタリア美術運動
1943年、太平洋戦争の最中、ニューヨークで出版された八島太郎による絵物語『The New Sun』(日本語版は『あたらしい太陽』1978年 晶文社)。八島の自叙伝的な内容とも言える本ですが、その中には鹿児島を出て憧れの東京美術学校に通うようになったものの当時流行していた最新の美術に戸惑い、失望するくだりが出てきます。しかしその続きに「新時代の生気をはらんだ芸術理論」と出会ったと書き綴っています。それこそが「プロレタリア美術」でした。
プロレタリア美術とは昭和前期、1920年代から1930年代まで続いた美術運動で、民衆(労働者)をテーマとしてリアリズムを追求しました。「民衆、民衆の芸術!それはまだ一度も芸術家が発掘したことのない鉱脈のようなものであった。」と八島太郎は『あたらしい太陽』の中に書いています。まだ二十歳だった若い画学生の八島は(※正しくは、岩松。八島太郎は渡米後に使うようになったペンネームで、本名は岩松惇)、プロレタリア美術の第一人者であった岡本唐貴や矢部友衛らが主宰する造型美術家協会の戸を叩きました。
プロレタリア美術に関する当時の資料(番組映像より)
1928年、「第一回プロレタリア美術大展覧会」と銘打たれた展覧会が東京府美術館(現在の東京都美術館)で開催され、八島は7点の作品を出品。翌1929年には「日本プロレタリア美術家同盟」が発足されました。太郎は次第に組織の中での中核的な存在となっていき、1931年には、プロレタリア美術運動の機関紙と言うべき『美術新聞』の編集長に就任することになります。
ただ、プロレタリアートは共産主義と結びつきの深いものでした。プロレタリアートとは、ドイツ語で「労働者階級」を意味し、ブルジョワジー(資本家)と対比的に使われる言葉ですが、その活動には貧富の差をなくすことを掲げ社会革命を起こす使命意識がありました。美術のみならず、文学、映画、演劇など共産主義に基づき階級闘争を掲げた諸芸術運動がプロレタリア文化運動と呼ばれましたが、治安維持の名の下に激しく弾圧されました。
八島太郎「廣場へ」 出典:『日本プロレタリア美術集』(1931年版)(番組映像より)
象徴的な出来事が1933年、『蟹工船』の著者でプロレタリア文学の代表格・小林多喜二が警察によって拷問され虐殺されたことでした。八島はこのとき岡本唐貴と共に小林家にかけつけています。そして小林多喜二のデスマスクをスケッチし、記事と共に「美術新聞」に掲載しました。『あたらしい太陽』の中にも当時の弾圧に関する記述があります。「展覧会では部分訂正、画題変更が強要され、たくさんの作品が撤回されるようになった」「出版物は意味がとれないほどの伏字を強要され、発売禁止、差し押えが、ひんぴんと迫った」。なおこの年の5月に『美術新聞』は廃刊の途をたどっています。
続く6月、八島、そしてプロレタリア美術運動を共にしていた妻の光子(本名は智江。光子はペンネーム)は検挙されます。妻の光子は妊婦だったにもかかわらず10月まで拘留。八島は翌1934年の2月になってようやく出所できました。監獄での体験も『あたらしい太陽』の中に挿絵と短文により生々しく描かれています。
『The New Sun』に描かれた拘留の様子。(番組映像より)
壊滅的な状態になったプロレタリア美術家同盟は1934年、解散。事実上、プロレタリア美術運動はこのときをもって終焉を迎えます。その後八島太郎と光子は、妻の実家があった神戸でしばらく過ごした後、1939年に渡米します。
プロレタリア漫画
八島太郎(岩松惇)は日本プロレタリア美術家同盟の前身的存在である造型美術家協会に二十歳で加入していますが、同年、「日本漫画家連盟」にも加入しています。
漫画雑誌『東京パック』に掲載された八島の作品「平和の取引」 1935年 出典:『1930年代-青春の画家たち』創風社編集部編 創風社
日本漫画家連盟の中心人物は柳瀬正夢という漫画家でした。柳瀬正夢が共産主義に傾倒しプロレタリア美術運動にも接近していました。
また、日本プロレタリア美術家同盟に所属する画家が漫画を発表することも多くあり、八島もそのひとりでした。八島はもともと中学時代から漫画を描くことが得意で、その当時鹿児島新聞に風刺漫画の連載を持ち好評を博していました。日本漫画家連盟に所属してからも、当時人気だった漫画雑誌『東京パック』で四コマ漫画など担当。新進漫画家としても注目されていました。
『からすたろう』『あまがさ』などアメリカで出版された絵本たち(番組映像より)
柳瀬正夢にせよ八島太郎にせよ、この時期手掛けた漫画がすべてプロレタリア漫画というわけではありませんでしたが、ブルジョワジーや体制を批判したり風刺したりする上で漫画という大衆メディアは適していました。プロレタリア美術運動が終焉した後も社会批評・風刺は漫画において重要な側面であり続けました。
渡米後、八島太郎は『あたらしい太陽』や『水平線はまねく』といった絵物語を手がけ、その後、児童絵本画家として活躍していくに至ったわけですが、カットやコマ割り的な絵に長けていたのは、漫画を描いてきた経歴とも関係していたでしょう。そして八島太郎の作品の根底に流れるヒューマニズムは、プロレタリア美術運動に関わっていた当時からずっと変わることのないものでした。