イベント企画「私の作ったNスペ、一緒に見てもらってもいいですか?」スタート
30年以上にわたって時代を記録し、ジャーナルなテーマから濃密な映像ドキュメンタリーに至るまで、NHKの総力を結集してお届けしてきたNHKスペシャル(以下、Nスペ)。
しかし今、特に若い世代が目にする機会が減っている、という現状があります。
多様なコンテンツが溢れるようになった、テレビ離れが加速した…など様々な要因があると考えられますが、放送以外でもあまりNスペを身近に感じられる機会がなかったのではないか―
そこで、番組だけでなく、実際に作った制作者たちの顔も知ってもらうような試みが出来ないかと考え、『私の作ったNスペ、一緒に見てもらってもいいですか?』という企画を立ち上げました。
一般のみなさんに、Nスペを制作したディレクターと一緒に番組のオンエアを見ていただき、感じたことなどを本音で語り合うイベントを開催。その様子を、参加者のみなさんそれぞれの視点で、記事にしていただこうという試みです。
第一弾は、8月6日放送のNHKスペシャル「原子爆弾・秘録 〜謎の商人とウラン争奪戦」。
制作した宮島優ディレクター、大小田紗和子ディレクターと一緒に番組を視聴したのは、ウクライナ出身のノヴィツカ・カテリーナディレクター、大学生5人、そして作家の岸田奈美さん(著書に『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』など)です。
ここでは、岸田奈美さんに参加して感じたことを綴っていただいた文章をご紹介します。
オンエアを視聴し、ディレクターや大学生たちと対話して感じたこととは…
「他人の平和と、一生の問い」 岸田奈美
32歳の誕生日、自動車教習所へ通いはじめた。
生徒が集められた教室では、わたしが最年長だった。
「最近の交通事故のニュースといえば、なにが浮かびますか」
教官にたずねられた。
テレビやネットで、いくつか心当たりがあった。
悲惨な見出しが、記憶にこびりついている。
しかし、おどろいた。
わたしの他に、答えられる人がひとりもいないのだ。
「どんなのでもいいんですよ」
教官は、前の席から順にたずねていく。
大学生の女の子が悩んだ末、やっと答えた。
それは、ある芸能人が自殺したニュースだった。
授業が終わってから、その子に聞いてみた。
「ニュースって、見ないの?」
「あんまり見たくないですね」
ニュース番組に出演している身としては、動揺した。
「だって、しんどいじゃないですか。暇つぶしたくてスマホ見てるのに。自分に近いことか、推しのことなら知りたいけど」
どこかで、知らない人が、巻き込まれた。
そういうニュースを、彼女は他人事のように避けた。
一瞬、言葉を失ったものの、わたしが悲しみよりも「わかりみ」を感じたのは、彼女が“他人事であろうとした”からだ。
身を守るために、つとめて、他人事であろうとする。
わたしにも、そういうフシがある。
たとえば家族や、家族の友人や、その友人の友人のことになれば、わたしの感情は揺れ動く。
状況を打開するために一肌でも二肌でも脱ぎまくる。西へ東へと走りまわる。どうにもならないことは、肩を震わせて、ともに泣く。
突き動かされるようにして飛び出る馬力は、かなり疲れる。
だからわたしはたぶん、わたしの知らないところで、わたしを温存させている。いざというときに動けるように。それまで穏やかであるように。
この身で受け止められる悲しみには、キャパがあるのかもしれない。
どこかずっと遠くで起こっている、とてつもなく強大で、どうすることもできない現実は、まともに受け止めないように体と心ができてる。流れるような動きでパンチをかわす、武術家のごとく。
とはいえ、完全に無視できるわけでもない。
だからサッサと線引きをしてしまうのだ。
あっちと、こっち。わたしと、わたしじゃない人。
悲しみを手放すため、前向きに諦める。
「かわいそうに」とかの言葉には、線引きも隠れてる。
ちょっと考えすぎかもしれんが。
いつからだろう。
毎年、8月6日が来れば、
「平和でありますように」
と、ぼんやり、わたしが祈るようになったのは。
そんなことを考えたのは、2023年の8月6日。
NHK放送センターの会議室でのことだった。
8月6日のオンエアに合わせて行われた試聴会
_
ある一言が、わたしを貫いた。
「平和を祈っていても、平和は来ません」
ドキュメンタリー番組『NHKスペシャル』の放送を一緒に見るというイベントに集まったメンバーの一人、カテリーナさんが言った。彼女は、NHKに勤めて5年目のディレクターで、ウクライナの出身だった。
カテリーナ・ディレクター
_
頭をガツンと殴られたようだった。
思い知らされたからだ。
わたしにとって戦争も、原爆も、他人事だったということを。
生まれるよりもずっと前に起こった、あまりに苦しく、重く、悲しみと怒りにまみれた歴史に「平和でありますように」と、ゆるやかに線を引いていたことを。
もうあと5分もしないうちに、番組は始まってしまう。
毎年、原爆についての特集をすることはわかっていた。
きのこ雲の映像、犠牲者の声が、脳裏に浮かぶ。
観ながらまた、心を痛めて、線を引いてしまうんだろうな。
想像できてしまった。わたしはわたしが、後ろめたかった。
一緒にいるメンバーには、大学生たちもいた。
そのうちの一人が、
「NHKスペシャルは、見るとHP(体力)が削られる」
と本音を言った。心の中でうなずいてしまった。
一緒に視聴した大学生たち
_
ところが、始まったのは、予想もしなかった特集で。
『原子爆弾・秘録 謎の商人とウラン争奪戦』
番組の主人公 エドガー・サンジエ
▼視聴した番組のHP
謎の……商人……?
エドガー・サンジエ。
原爆の材料となるウランを、ひそかにアメリカへ売り込んだ人物だ。
知らなかった。
いや、それより。
日本のいたるところで黙祷が行われたこの日に、戦争に巻き込まれた人の話ではなく、戦争を起こした人の話をするのか。いいんだろうか。
エッ、と声が出そうになった。
『彼は果たしてモンスターか、身近なビジネスマンか』
サンジエの正体への問いかけから、番組は始まった。
そっからは、もう、釘付けだった。
こんなの観ていいんかという気持ちは、やがて、観なければならないという気持ちに、変わっていった。
最初はサンジエのことを、身の毛がよだつような悪者だと思っていた。
彼は1920年代、ほとんど価値のなかったウラン鉱石に目をつけ、大量の在庫を抱えていた。原爆の材料になることがわかるとアメリカへ売り込み、莫大な利益を彼の会社へもたらした。大勢の命を奪い、今もなお、核兵器が世界を脅かすことと引き換えに。
なんてやつだ。理解できない。
こんな悪者さえ、いなければ。
そう思ったのに。
サンジエが残した3万ページにも及ぶ手記や、彼にまつわる人物をたどっていくにつれ、小さな共感がわいた。恐ろしかった。
彼の行動のひとつひとつには、ごくありふれた、ビジネスマンとしての考え方があるとわかってくるのだ。
誰も知らない、世界がまだ価値に気づいていない商品を見つけ出した。自分の鉱山会社が窮地に追い込まれる中で、一攫千金の機会が到来した。歴史に名を残すほどの交渉に挑戦することとなった。家族や社員の生活を何代にも渡って潤わせ、守ることができた……。
もちろん結果は、最悪だ。
しかし、戦時下の激変する日々の中で彼は、どこまで結果を自覚できていたかはわからない。個人の範疇を超えるほど大きな欲望と武力で、国家も彼を利用したといえる。
サンジエの話は、わたしの話でもあった。
他人事なんかじゃない。
強烈に自分事だった。
わたしの日々は、判断の連続で、できている。
家族や友人を守るため、なにかを手に入れる。
組織を豊かにするため、なにかをやり遂げる。
数ヶ月後をより良くするため、なにかを始める。
じっくり考えたつもりでも、思いもよらぬ結果にたどり着いて、泣きを見ることなんて何度もあった。わたしの預かり知らぬところで、なにかが起きていたって不思議じゃない。
わたしが手に入れたせいで、だれかが失ったかもしれない。
数ヶ月後のために、数十年後を犠牲にしたかもしれない。
しょせん、わたしはひとりの人間だ。
スーパーコンピュータでもない、脳みそひとつ、搭載しただけの。
戦争しよう、兵器使おうなんて、わたしは絶対に思わない。
思わないけど。
家族を守ろうとは、絶対に思う。これからも思い続ける。
その判断の先に取り返しのつかない惨事が待っていないとは言いきれない。ぼやっと祈るだけじゃだめなんだ。線を引いて終わってはだめなんだ。心に自戒の楔が、打ち込まれる。
サンジエが、結果をどう受け止めていたかは、わからない。
彼は晩年を沈黙で閉ざしている。
彼の墓の映像で、静かに番組は終わる。
番組もまた、彼の心境を語らない。
エドガー・サンジエの墓
_
あるのはただ、事実のみ。
観終わってしばらく放心したあと、すごいな、と思った。
この番組を作った人は、すごいな……。
作ったのは、広島放送局ディレクターの宮島さんと大小田さんだった。
わたしとほぼ同年代と知り、度肝を抜かれた。
制作した大小田ディレクター(左)と宮島ディレクター(右)
_
原爆を扱う上で、サンジエを扱う葛藤は当然あっただろうし。
しかも、いまは“タイパ”の時代だ。
結論はハッキリわかりやすく、短いコンテンツが人気になる。
それでも。
サンジエへの「わからなさ」を「わからない」ままに、探って、追っていった取材。サンジエが「語れなかった」ことを「語らない」ままに、映し出して、心を揺さぶる49分ぶっ通しの構成。
知恵と勇気がなければ、できない。誤解されたくないという不安から、文章を書きすぎてしまうわたしには、よくわかる。
二人から、
「放送の一ヶ月前までは、サンジエに絞って作る予定ではなかった」
と打ち明けられ、また度肝を……!
膨大な資料を読み込み、ベルギーやコンゴまで飛んで、その場でアポイントを取り付けて取材を重ねていくうちに、サンジエが浮かび上がってきたそうだ。
ベルギーの住民たちにも「知らない」といわれたサンジエの墓を、二人が探し当て、カメラを回しはじめたのは、帰国便が発つ4時間前だったという。
同年代の若いディレクターたちが、とてつもない葛藤を抱え、成長しながら、予定になかった番組を作りあげた。
彼は理解できない悪魔か、ありふれた人間か?
自分はどうか?
ひょっとすると、一生に渡って残り続ける問いが、そこで生まれた?
ディレクター自身の問いに呼応した同年代のわたしや、より若い大学生たちが、同じ問いを、分かち合い、向き合っている。
わたしにはそのことが、希望に思えた。
(岸田奈美)
▼番組を制作したディレクターが書いた記事はこちら