家康の世界地図 ~知られざるニッポン “開国”の夢~

NHK
2023年12月25日 午後7:10 公開

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

 (2023年12月17日の放送内容を基にしています)

戦国の覇者・徳川家康。貴重な肖像画が長期の修復を終え、よみがえりました。数多く描かれた家康像の中でも、晩年の面影をよく伝えるものといいます(下画像)。

德川記念財団 德川典子さん「顔をご存じの方が描いた。戦国乱世を生き抜いた家康公が、晩年には穏やかな生活になっていた。そういう表情を写し取ったもの」

260年以上にわたる太平の世・江戸時代を切り開いた家康。日本は、海外との貿易を制限する鎖国のもとで、独自の国づくりを進めました。しかし、それは家康が思い描いた日本の姿とは大きく異なっていた・・・。いま世界で進む調査から、意外な事実が浮かび上がってきました。

これは、スペインの修道院で、“聖櫃(せいひつ)”として大切にされてきた日本製の漆器です。家康が海外への主力商品として輸出を奨励したものでした。家康は日本を世界に開くことで、新しい国づくりを進めようとしていました。さらに、家康の世界戦略は壮大なスケールを描きます。

国内統一の裏で繰り広げられたもうひとつの戦い。外交顧問ウィリアム・アダムスとのドラマを交え、知られざる家康の世界戦略に迫ります。(※ドラマ部分は斜字となっています)

<愛用の屏風(びょうぶ)が物語る 国際派・家康の実像>

家康以来、江戸幕府の歴代の将軍たちが居城としたかつての江戸城、現在の皇居です。その一角で、将軍家に代々受け継がれた史料の撮影が、特別に許されました。

「萬国絵図屏風」。世界地図が大きく描かれた屏風はおよそ400年前のもので、家康の愛用品だったといいます。当時の史料には、家康がこの世界地図を前に、海外に関心を寄せていた様子が記されています。

「家康は世界図屏風を見ながら、海外の国々について議論した」(慶長16(1611)年9月20日/駿府記)

描かれているのは、西はアメリカ大陸から東は日本まで。世界全体が一目で分かる地図です。

日本は現在の北海道を除く姿(上画像)。半島や島々も見分けることができます。

地図の左右には、当時世界にいるとされた42の民族が描かれています。

さらに屏風はセットでもう1隻、残されていました。そこには、世界の覇権を争う国王たちの姿や世界の名だたる都市が描かれています。

港には貿易船が押し寄せ、海の向こうの国々の繁栄を物語ります。世界に関するこれほど豊かな情報を、当時どのようにして集めたのか。詳しいことは、謎に包まれていました。

ところが、オランダでこの謎を解く“カギ”が見つかりました。

オランダ海洋博物館 学芸員 ディーデリック・ワイルドマンさん「こちらはオランダのブラウ家が、1606年から1607年にかけて作った世界地図です」

オランダのブラウ家は、当時ヨーロッパ最高峰の地図製作者でした。これは、各地の測量データを総動員し、1607年に出版した最先端の地図です(上画像)。

研究者たちが、この地図(上画像・左)と屏風の世界地図(上画像・右)を比較したところ、各大陸の海岸線が極めて似ていることが分かりました。

国王たちの姿も一致しています。

1607年のオランダ製の地図が、屏風のもとになったと判明しました。つまり、家康が屏風を眺めたのは、オランダの地図が完成してからわずか4年後のことだったのです。

ディーデリック・ワイルドマンさん「当時ヨーロッパから日本への航海に1年はかかった。家康は驚異的な早さで、世界の最新情報を入手していたことになる。地図は家康側から依頼した可能性が高い」

<家康はなぜ海外に強い関心をもったのか>

国内統一を進める家康が、なぜこれほど海外に強い関心をもったのか。そのきっかけは「関ヶ原の戦い」に勝利する、およそ半年前の出来事にあります。慶長5(1600)年、豊後国(現在の大分県)に、1隻のオランダ船が漂着しました。船に乗っていた“ある人物”との出会いが、家康を大きく変えていきます。

イギリス人航海士のウィリアム・アダムスです。世界情勢に精通したことから、のちに家康の外交顧問に抜てきされ、「三浦按針」という日本名まで与えられました。

アダムスの母国・イギリスには、アダムスが、日本から家族や友人に宛てた手紙11通が残されています。

そこには、家康と出会ったときの様子や家康の目が世界に開かれる経緯などが記されていました。

<新しい世界を知る アダムスとの出会い>

前に連れてこられると、王は私を凝視しました。

家康「その方らの国の名と場所、この日本に来た目的を申せ」

ウィリアム・アダムス「我々はオランダとイギリスという国から参りました。スペインやポルトガルとはまた違った国です。貿易によってお互いの友好を深めたいと望んでいます」

家康「イギリスとオランダから、どうやって来たのじゃ」

王は、我々が日本に着くためにとったルートについて質問しました。

私は世界地図を持っていたので、マゼラン海峡を通り抜けたことを説明すると、たいそう驚いたようでした。

実は2人が出会ったころ、世界は新たな時代を迎えていました。15世紀に始まった「大航海時代」です。先駆けとなったのが、ポルトガルとスペインでした。ポルトガルは地球を東回りで、スペインは西回りで、ヨーロッパからアジアに至る航路を開きます。両国は各地でキリスト教を布教しながら、香辛料や武器などさまざまな品を売買し、巨万の富を得ていました。

しかし16世紀後半、新たな勢力が台頭します。オランダとイギリスです。旧勢力と新勢力は激しく対立し、世界の覇権をかけて、各地で戦いを繰り広げていきました。

そうした国際情勢の中、日本では家康が「関ヶ原の戦い」に勝利します。国内の政権基盤を固める一方、外国との新たな関係を模索し始めました。

<激動する世界情勢に触れる家康>

家康はアダムスに、世界情勢から西洋人の習慣や信仰、家畜の種類に至るまで、あらゆる質問をします。アダムスは、海外と貿易する利点について力説しました。

ウィリアム・アダムス「私が日本に来た目的は互いの国にないものを補い、豊かになるためです」

「貿易で世界中の品々を手に入れ、この国を豊かにする」。アダムスと語り合う中で、家康は海外とのつながりを強く求めていきます。

<家康の対外政策のビジョンとは>

家康の対外政策は、どのようなビジョンで進められたのか。日本の研究チームが、その全容に迫っています。

20年前からヨーロッパ各地に眠る史料の収集と調査を続けてきました。家康が送った書簡や面会した外国使節の日記など、さまざまな言語で書かれた史料は10万ページにもおよびます。研究の中心を担ってきたのは、国際日本文化研究センターのフレデリック・クレインス教授です。

まず書簡の調査から、家康が晩年の20年間に、多くの国々と直接交渉していたことが分かってきました。

アジア諸国との間で交わした書簡は42通。特に熱心だったヨーロッパとその植民地は64通。合わせると13の国や地域と、実に106通もの書簡をやりとりしていたのです。それまでにない多様な国々との交流は、まさに「全方位外交」と呼ぶべきものでした。

さらに、家康がその先に描いた戦略も明らかになりました。

フレデリック・クレインスさん「1611年にオランダの使節が家康と秀忠に面会したときの記録が残っています」

クレインスさんがオランダで見つけた史料(初代平戸オランダ商館長 ジャック・スペックスの日記)には、使節に対して家康が語った言葉が記されています。

「日本において外国船は警備や監視に邪魔されることなく、自由に売買することが許される」

「わが国はすべての異国に対して自由であり、開かれている」

すべての外国人に日本での自由な売買を許す“自由貿易”。

家康はこれによって世界中の船を呼び寄せて、海外の品々を日本に集めようとしたのです。

フレデリック・クレインスさん「関ヶ原の戦いのあと、非常に積極的な外交を展開する。戦乱から国の経済を立て直さないといけない。そこに海外の貿易を引き入れると、国の経済が活性化し成長していくという狙いはあったと思う」

しかし、当初は大きな壁が立ちはだかっていました。原因は前政権・豊臣秀吉の外交政策です。秀吉は朝鮮に侵略し、アジア諸国にも領土拡大の姿勢を見せました。さらに、ヨーロッパから来た宣教師たちも迫害します。強圧的な姿勢が、諸外国の警戒を招いていたのです。

家康は、秀吉とは全く異なる方法で諸外国との関係を築いていきました。

下の画像は、家康がオランダのマウリッツ公に送った書簡です。オランダ語に翻訳されたものは失われ、漢文の原本だけが残されていました。

研究者が注目したのが、通常の外交文書では使われることのない「陋国(ろうこく)」という表現。これは「取るに足らない国」という意味です。

「日本は取るに足らない国ですが、オランダと貿易関係を結ぶという新たな道を切り開きたい」

家康は相手を敬い、へりくだることで、海外の君主たちの警戒心を解こうとしていたのです。

さらにイギリスにも、国王ジェームズ1世に宛てた書簡が残されていました(上画像)。ここでは、相手に破格の待遇を約束していました。

「イギリスは、日本国内のどの港を利用しても構わない」

「イギリス人は江戸の好きな場所に屋敷を建ててよく、誰を相手に商売をしても構わない」

イフォ・スミッツさん「貿易を始めるためには、傲慢な内容では交渉が成功しないと考え、相手がその気になるような誘惑的な書簡を書いた。彼は非常に狡猾(こうかつ)な国際政治家。優れた軍人であるだけでなく、外交問題にも戦略を巡らせた」

自由貿易が功を奏し、日本に各国の使節や商人が次々と訪れるようになりました。

<自由貿易の成果 世界の富が集う日本>

家康をまつる久能山東照宮(静岡)には、海外との交流や貿易で手に入れた品々が残されています。

これは、当時ヨーロッパで誕生した“鉛筆”。日本で最初に使用したのが、家康とされます。先端は丸みがかり、熱心に使っていたことが分かります。

こちらは地図の中の距離を測るための“コンパス”(上画像)。家康が地図にコンパスをあて、日々、対外戦略に情熱を注いだ様子がしのばれます。

家康は海外の品を日本に集めるだけでなく、自ら使うことで、外国の技術や文化までも学び取っていたのです。

家康は鉄砲や大砲などの武器も、貿易を通じて大量に入手していきます。これらの品々の多くは、当時の国際通貨だった「銀」で購入していました。家康は銀を蓄積するため、国内の鉱山を次々と開発します。産出量は、世界の3分の1を占めたとも言われます。こうして日本には、ヨーロッパや東南アジアから多くの船が来るようになり、世界の富が集まるようになったのです。

<家康が直面した苦境とは>

順調に外国との貿易を進めたかに見えた家康。しかし、大きな苦境に立たされます。原因は、当時輸入に依存していた「生糸」をめぐる問題でした。戦国乱世が終わりに近づくと、大名や裕福な女性たちは、中国産の生糸から作られた高級絹織物で着飾るようになります。その結果、生糸の需要が高まり、日本の輸入品の中で最大の割合を占めるまでになりました。ところが生糸の貿易は、中国に拠点を作ったポルトガルが独占していました。高値で売りつけ、日本に深刻な貿易赤字をもたらしていたのです。家康は、この危機を乗り越えようと策を巡らせます。

<オランダ参入で独占の解消を目指す>

家臣「平戸にオランダ船が到着したとのことです」

家康「すぐに連れて参れ」

家臣「恐れながら、先に到着していたポルトガルの使者をすでに城下に待たせております。彼らと先に面会するのが筋ですが・・・」

家康「いや、ポルトガルはあとに回す」

家康はオランダ使節と先に面会し、ポルトガルよりも有利な条件を与えていきます。

ウィリアム・アダムス「『オランダ商人は、この国のどこでも、誰とでも商売をしてかまわない。そして関税も一切かけない。商売に一切口出しはしない。自由な貿易を行って構わない』と上様はおっしゃっています。さらに、『オランダに限っては、平戸にオランダ商館を作ってもいい』とおっしゃっています」

家臣「商館の建設は、ポルトガルにもスペインにも許しておらず、先例がございません」

家康「かまわぬ。その代わりにポルトガルより多くの生糸を運んでくるのじゃ」

フレデリック・クレインスさん「彼ら(オランダ)が生糸を日本に舶載(はくさい)してくれると、独占のリスク、価格高騰のリスクをおさえることができるので値段が下がり、日本の経済が非常に潤うことになる。自由に貿易をさせると、まず何が起こるかというと競争。どんどん新しい国が参入してくる。それらの国の間に競争を作り、日本は有利な立場に立てる。そういう考えもあったのではないかと思う」

長崎県・平戸。当時オランダが建てた商館が、復元されています。ここには、毎年のように生糸を積んだオランダ船が来港するようになり、ポルトガルによる独占は解消されていきました。

ヨーロッパ諸国の競争を巧みに利用した家康。次に目をつけたのが、イギリスでした。

<イギリスを後押し 日本の利を狙う>

ウィリアム・アダムス「上様、イギリスにも、オランダと同じ破格の待遇をお与えになるということでよろしいですね?」

家康「かまわぬ。加えて、『蝦夷(えぞ)の通行権』も与えるがよい」

ウィリアム・アダムス「なるほど。それは各国が喉から手が出るほど欲しがる特権です。イギリスは喜び、日本に繰り返し船を送ってくることになるでしょう」

家臣「なぜじゃ?」

ウィリアム・アダムス「『北西航路』でございます」

蝦夷を通り、ヨーロッパへと向かう「北西航路」。イギリスは、ポルトガルやスペインに対抗するため、当時まだ開拓されていなかったこの航路を探索していました。家康はこのイギリスの思惑を利用します。蝦夷の通行権をあたえ、航路の探索を後押ししたのです。イギリスが新航路を発見すれば、それを使って多くの品々を運んでくるようになるというもくろみでした。

<家康が抱いた壮大な野望>

今回、家康がさらに壮大な野望を抱いていたことが明らかになりました。

それは、外国船を呼び寄せるだけでなく、日本自ら世界の海に乗り出すという前代未聞の試みでした。上の画像は、家康が息子の秀忠と連名でスペインの副王に出した書簡です。そこには、こう記されています。

「日本の王である家康は、日本とヌエバ・エスパーニャとの間に貿易船を毎年往来させるよう望む」

アメリカ大陸に、植民地ヌエバ・エスパーニャを設置したスペインは、アカプルコを拠点に、ヨーロッパからアジアにまたがる世界中の品々を取引していました。家康はそこに日本の船を送りこみ、現地で直接売買することで、新たな貿易利益を手に入れようとしたのです。さらに、現地に渡った日本人に、ヨーロッパの最先端の技術を学ばせようとしました。

ファン・ヒルさん「銀を精錬する技術、巨大な船を作る技術、大海原を航海する技術。これらすべてに家康は非常に興味を持っていた。彼が目指したのは、ヨーロッパ文明が持つあらゆる優れたものを、日本のために利用すること。それは、一種の革命だった」

しかし、スペインの航路に参入するのは容易なことではありませんでした。当時ヨーロッパの国々は、自ら築いた航路に他国が参入してくれば、武力を使って締め出していました。家康は、スペイン国王に許可を求め何度も書簡を送りますが、拒まれ続けます。

ところが、転機が訪れます。1609年、1隻のスペイン船が日本の近海で座礁したのです。

<厳しい条件を提示されたスペイン交渉>

座礁したスペイン船に乗っていたのが、スペイン国王に仕える重臣のひとりビベロです。家康は日本がスペイン航路に参入する許可をもらえるよう交渉を始めます。

ウィリアム・アダムス「貿易のことですが、上様は互いの船を自由に往来させるための許可を、スペイン国王から得たいと希望されております」

ビベロの出した条件は、あまりに強気なものでした。キリスト教の教会やミサを許可する。オランダ人を国外追放する。スペイン人が鉱山を発見した場合、利益の4分の3を与えるなど、数々の厳しい条件を連ねました。

家臣「こんな無理難題、到底飲めるものではございません」

家康「いや、条件を飲もう。スペイン航路に参入できるなら、その価値はある。ただし・・・オランダ人は国外に追放せぬ」

加えて「鉱山の利益を与える」という条件も断りますが、それ以外は全て飲むことを伝えます。そしてスペイン国王からの回答を待ちました。

望み続けたスペイン航路への参入。家康は、その準備にいち早く取りかかっていました。

スペイン南部の修道院で、大きな発見がありました。

1年に1度だけ、特別な儀式で使われる聖櫃(せいひつ)。日本製の豪華な漆器であることが、調査によって明らかになりました。もともとこれは1610年頃に、日本からヨーロッパへの主力輸出品として用意されたものでした。さらにスペイン各地には、同時代に作られた輸出用の漆器が少なくとも30個以上残っていることも分かりました。

川村やよいさん「ヨーロッパの人のために作ったもの。形も模様も非常に派手で、日本人が好むようなスタイルではないんですけれども、そういうものを作った。家康も分かっていた。どういうものが日本の製品でぜいたく品として好まれるかということを」

ビベロが帰国した翌年。家康のもとに、あるものが届きます。黄金に輝く「洋時計」です。スペイン国王から家康へ、直々の贈り物です。

この洋時計の扉を開くと、絵がつながる仕組みになっています(下画像)。アーチ状の窓の先には、スペイン国王の居城が望めます。スペイン王室お抱えの技師が作った世界最高水準の時計でした。

また、スペイン本国でも重要な許可書が作られていたことが、今回明らかになりました。

「予は殿下と友好を深め、通商を始めることに喜びを感じる」(1613年6月20日/フェリペ3世)

ついに、スペイン航路への参入を認める許可書が、家康に送られることとなったのです。

許可書を待つ家康。そこに「大坂の陣」が勃発します。激しい戦いの末、豊臣方に勝利した家康は、政権基盤を盤石にすることに成功しました。しかし、スペインからの許可書は結局届くことなく、家康は75歳でこの世を去ります。世界をまたにかけた貿易。それは、見果てぬ夢に終わったのです。

スペインからの許可書は、実はアメリカ大陸のアカプルコで止まっていました。

キリスト教徒の増加に脅威を感じた家康が「禁教令」を発したという情報がスペインに届き、発送が差し止められていたのです。貿易と布教を別のものと考えた家康。しかし、それを切り離せないものとしたスペインは、禁教令に反発し、交渉を白紙に戻しました。

<閉ざされる日本 家康の夢の跡>

家康の跡を継いだ2代将軍・秀忠は、父の対外政策を転換していきます。

家臣「将軍に何の御用ですか?」

ウィリアム・アダムス「将軍様が貿易の制限令を出したため、我々は平戸と長崎の2か所でしか商売をすることが許されなくなりました。是非とも元に戻していただきたく、お願いに参りました」

キリスト教への警戒心が家康より強かった秀忠は、商人の中に布教を進める者が出ることを危惧し、ヨーロッパとの貿易を制限します。アダムスは、家康の時代の自由貿易に戻すよう訴えますが、聞き入れられませんでした。

秀忠以降、禁教と貿易制限はさらに進みます。

1641年。幕府は、ヨーロッパとの貿易を長崎でのオランダ相手のみに限る鎖国体制を固めます。

江戸時代。

日本は200年以上続いた鎖国の中で、独自の文化を花開かせました。しかしそれは、家康が目指した“開かれた日本”とは異なる姿でした。

ファン・ヒルさん「残念なのは家康の政策が、彼とともに死んでしまったこと。ヨーロッパ文明がもつすべてのものを、日本の特殊性や精神を失うことなく取り入れることができる。それが秀忠には理解できなかった。世界に門戸を開くのは常に不安なもの。なぜなら競争に苦しまなければならない。考え方の異なる人が来るかもしれない。だから世界に心を開くのは居心地が悪い。しかし、家康は開くことを恐れなかった」

家康の愛用品とされる「世界地図」。海上には、ヨーロッパ各国の貿易船が描かれています。それらに混じって太平洋の真ん中にあるのは、日の丸を掲げた「日本の貿易船」です(上画像)。オランダの原図にはなかったものです。

ヨーロッパ各地の港にも、日本の船が数多く停泊しています。それは、世界の海に乗り出そうとした家康の夢の跡なのかもしれません。

江戸幕府が滅び、明治時代へ。

日本は再び世界に開き、貿易立国としての道を歩み始めました。それは戦後の高度経済成長を支え、日本経済の原動力となっていきます。そして今もなお、島国日本が世界で生き抜くための“国のかたち”であり続けています。