あなたの名前を刻みたい~阪神・淡路大震災 遺族の29年~

NHK
2024年1月25日 午後5:30 公開

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

(2024年1月17日の放送内容を基にしています)

1月17日。

毎年、多くの人々がこの場所で祈りをささげ、大切な人の記憶と向き合ってきました。

母親を亡くした遺族「一人で逝ってしまったけれども、亡くなったのは一人だけではないと、やっぱり一番感じます」

震災で命を奪われた人々の名前が刻まれているモニュメント。そこに、29年たった今も、名前が増え続けているスペースがあります。“震災による死”と認められていない被災者の遺族が、希望して、名前を刻んでいるのです。この20年間で新たに名前が刻まれたのは503人。長い歳月がたった今も、なぜ遺族は名前を刻もうとするのか。

阪神・淡路大震災のあとも、大地震に見舞われ続ける日本。ここには、今なお残る、大震災の深い爪痕がありました。

<震災後 突然直面した父の死>

1995年1月17日。日本で史上初めて震度7を記録した「阪神・淡路大震災」。

家屋の倒壊などによる“直接死”や避難所で亡くなるなど、行政が審査の末、震災が原因だとした“関連死”で、6,434人の尊い命が奪われました。

震災で亡くなった人の名前が刻まれている「慰霊と復興のモニュメント」に、“震災による死”と認められていない被災者の遺族が名前を刻むようになったのは、震災から8年後のことでした。

去年(2023年)、1月17日。名前が増え続けているスペースの前でたたずむ、ひとりの女性がいました。震災の5日後、病院で入院していた父親を亡くした、田中しげみさんです。父・猛さんの名前を刻むかどうか考えていました。

田中さんは震災のとき、30歳。神戸市内の病院に入院していた猛さんを、見舞う日々を過ごしていました。

田中しげみさん「穏やかで、優しい、おもしろいお父さんでした」

猛さんは当時66歳。末期がんでした。震災が起きたあとも治療は続けられましたが、5日後の1月22日に亡くなりました。

しげみさん「『なんで、なんで』と言っている間に亡くなってしまったので。あっという間の出来事だった。さっきまでしゃべっていた人が、亡くなるんやと思って。かなりショックでしたし、どうしよう、どうしようばかりでした」

猛さんは“震災による死”とは認められていませんでしたが、田中さんは、被災によるストレスが死期を早めたのではないかと考えてきました。

一方で、田中さんはモニュメントに名前を刻むことに迷いも抱えてきました。

しげみさん「長田(神戸)の景色とか、ひどい所をたくさん見てきています。私。『ここでたくさんの方が亡くなったんやな』と思ったら、電車で見ていても泣けてくるし、(父は)建物の下敷きになったわけでもないし、“震災死”というのではないので、そういう方たちに対して失礼なのではないかという気持ちもたくさんあった」

しげみさん「これは父が病院で着ていたものです。もう色も変わってしまっている。父のにおいを忘れたくなくて。暖かいんです。これ」

猛さんが亡くなったあと、田中さんはシングルマザーとして息子を育てることに奔走してきました。その息子が成人し生活が落ち着いた今、猛さんの死が、心にのしかかっていることに気づいたといいます。

しげみさん「母子家庭になった以上、子どもを守らないといけない。やらないといけないことがたくさんあったから、なかなか“お父さん=モヤモヤ”に手をつけることができなかった。私もいい年ですし、あと何年、生きられるか分からない。モヤモヤの一つでも二つでも、無くせればいいかなと。今がそのときなのかなと思いました」

<遺族の感情を受け止めてきたモニュメント>

震災から5年後、神戸市によって建てられた「慰霊と復興のモニュメント」。当初名前が刻まれていたのは、震災によって亡くなったと認定されている人だけでした。その後、市民に運営が委ねられるなか、「“震災による死”と認められていない人や神戸市以外の犠牲者の名前も刻んでほしい」という声が相次ぎました。

長年、モニュメントの運営を担ってきた堀内正美さんです。震災後を生きる遺族たちを分け隔てることなく、名前が刻めるようにしたいと尽力してきました。

堀内正美さん「遠因とする方たち、『震災がなければ』という思いの中にいる、直接的ではない、診断書もないけれど、そういう思いの方たちがたくさんいるから、そういう方たちのお名前を載せてあげたい」

堀内さん「この方は肺炎ですね。『被災していなければ、もっと長く生きてくれたと思う』と」

堀内さん「こちらはお母さまだね。『暖房のきかない避難所生活でかなり疲労した』」

アンケートや電話で事情を聞き取り、遺族が「震災の影響があった」と考えていれば、ほとんどすべての名前を刻んできました。

堀内さん「みんなと一緒だよ、一緒の所に入れたよということで、涙が絶望の喪失の涙ではなくて、喜びの涙となって、『やっとみんなと一緒になれたね』と喜んでくださる。みんなと一緒なんだということによる心の落ち着き、そういうものを取り戻す場にもなっていると思うし、これからもそうあり続けてほしい」

<震災により奪われた生後44日の命>

震災から29年がたった今も、新たに刻まれる名前。

遺族たちはここに名前を刻むことで、大切な人の死にひとつの区切りをつけようとしてきました。

廣畑瑞保さん(63)です。娘の帆乃香ちゃんが生まれてすぐにICUに入り、写真を撮る間もなく震災が起きました。

廣畑瑞保さん「出産で出てきたときには、すぐ保育器だった。胸からいっぱい管がつながれていたので、そのときには全然(写真を)撮れない、撮ろうとも思えなかった。本当に姿、形もないというか、写真ですら残っていないので、今思えば、撮っておけばよかったのかなと思います」

震災から38日後、帆乃香ちゃんは亡くなりました。

帆乃香ちゃんは、3年におよぶ不妊治療の末、ようやく授かった命でした。

「1995年1月11日。帆乃香誕生!手放しでは喜べない。体には点滴。苦しい治療が始まる」(瑞保さんの日記より)

「1995年1月17日。帆乃香は一進一退を続ける」(瑞保さんの日記より)

瑞保さん「やっぱりあの地震でガタガタと体調を崩して、どんどん悪くなっていって」

地震による停電で、帆乃香ちゃんの人工呼吸器は一時的に動かなくなりました。その後、体調が急激に悪化していったといいます。廣畑さん夫婦が初めて帆乃香ちゃんを抱いたのは、息を引き取ったあとでした。

瑞保さん「本当に短い間だったけれども、帆乃香は温かかったのは覚えています。かわいらしかった。真っ白のドレスで」

俊介さん「うん」

瑞保さん「この世で“あんよ”できんかったから、靴を入れて。向こうで“あんよ”できるように」

<刻まれた名前が「生きた証」>

震災が原因とされる“関連死”は、阪神・淡路大震災で初めて認められるようになりましたが、廣畑さんはそのこと自体を知りませんでした。震災から9年後、40歳を超えた廣畑さん夫婦は、帆乃香ちゃんの名前をモニュメントに刻むことで、ひとつの区切りをつけようと考えました。

瑞保さん「こうやって『来たよ』ってします。『来たからね』って。今日はお父さんと二人(笑)。よかったね。いっちょこ前に入れてもらえたね」

俊介さん「ここはみんな大人も子どもも同じ大きさやから」

瑞保さん「本当やね」

「帆乃香は確かに生きた」。その記憶を胸に、二人で歩んでいくことを決めたのです。

俊介さん「子どもに対して何もできていないから、できることの一つというか。できることがほとんどなかったので、できたなという」

瑞保さん「そうやね、そうかもしれんね」

<名前に刻まれた大震災の深い爪痕>

モニュメントの一角に刻まれてきた、一人一人の名前。“震災による死”と認められていない人々にも、大震災は深い爪痕を残しました。

「自宅が全壊し、あちこちを転々としたあと、仮設住宅に移りました。慣れない環境とストレスから体が弱り、1か月ほどで急死しました。大勢の方たちと名前が刻まれ、いつまでも忘れられることなく、本人の供養にもなると思い、希望いたします」(遺族のアンケートより)

「体調を崩し西市民病院に入院し、1月17日に被災しました。本来なら手術を受けるはずでしたが、西市民病院も被害を受け、転送につぐ転送。神戸に戻る希望もかなわず、失意のうちに死去しました。父の名をモニュメントに掲示していただけることを心からうれしく思います」(遺族のアンケートより)

<気づいてあげられなかった 父の苦しみ>

シングルマザーとして子育てを終えたあと、父親の死と向き合い始めた田中しげみさん。田中さんは、父・猛さんがどんな思いを抱えて亡くなったのか、知りたいと考えていました。

猛さんにとって、田中さんは36歳のときにできた待望の娘でした。子煩悩(ぼんのう)な父親で、しげみさんが学生のとき、友達とコンサートに行くと、会場まで迎えにくるほどでした。

入院中、田中さんが息子を連れて行くと、いつも笑顔で迎えてくれた猛さん。少しでも長く父と一緒に過ごすことが、最後の親孝行になると田中さんは考えていました。

しげみさん「震災がなければ、もうちょっとしたら息子の幼稚園入学やったから、制服姿を見せてあげることも可能やった。一応制服が届いて、おじいちゃんのお墓に行ったら、(息子は)お参りなんかせず走り回っていたけれど。それを(父は)見ているんやろうなと思いながら、もうちょっとだったのになと思って悔しいですね」

この日、田中さんが向かったのは猛さんが亡くなった病院でした。病院のカルテには、猛さんが亡くなるまでの数日間の様子が記録されていました。

「朝・昼食とも、おにぎりやパンなど、少しずつは食べられている。酸素マスク、密着していると息苦しくされ、しかしマスクを外して話し始めると、息切れ」(猛さんのカルテより)

田中さんの前では、亡くなる間際まで元気にふるまっていた猛さん。しかし、カルテには病状が刻々と悪化していく様子が記されていました。

「ずっとムカムカしている。昼ご飯を食べたとき、吐いた」(猛さんのカルテより)

「こちらの問いかけに対しても反応見られず。対光反射してみようとすると、手で払いのける」(猛さんのカルテより)

番組スタッフ「息苦しいというようなことは、結構あったんですか?」

しげみさん「苦しそうにはしていましたけれども、そんなにはなかったです。気付いてあげてなかったのかもしれない」

父の病状が急速に悪化していたことに、このとき初めて気付かされました。

<最期まで失われなかった父らしさ>

田中さんは、猛さんを一緒にみとった親族のもとを訪れました。猛さんの弟・武彦さんです。

武彦さん「探しとったら、写真が出てきての。これがお父さんじゃ。あなたの。猛兄さん」

しげみさん「本当だね、本当だね」

8人兄弟の三男だった猛さんは、病気がちだった12歳年下の武彦さんをいつも気にかけ、面倒をみてくれる優しい兄でした。

武彦さん「どうして猛兄さんが一番好きだったのかなという気はあるんだけれども、優しさというのは、なんかあったんだろうな。自分の気持ちの中に残っているというか」

しげみさん「確かに優しかった」

猛さんが亡くなる前日、武彦さんは、愛媛から震災直後の神戸に駆けつけました。

武彦さん「ちゃんと目も開けていたし、『お前よく来たね』みたいな感じ。『え?これが危篤だろうか』と思うぐらいの元気さはあったと思う。そのときは」

亡くなるまでの数日は、話すこともままならないほど容態が悪化していた猛さん。それでも、駆けつけた5人の兄弟一人一人に、優しく声をかけたといいます。

武彦さん「みんなと話したけんな。一人一人。立派なもんじゃわ。ものすごく頑張ったんだと思う。安心しきったんだろうと思う。皆とも会えたし・・・みたいなね。もうしんどい、危篤だというのは、あの人が一番よう知っとる。本人が。苦しさとかしんどさとかいうのは。頑張って応対してくれたんだろう」

しげみさん「根性はあるもんね」

猛さんが好きだったふるさとの景色。

田中さんは、父が優しさを失わず生き抜いたことに、思いをはせていました。

しげみさん「私の目を通して、父が見ていると思うから。私が何か親孝行みたいなことをできたらなと思う。いつまでも悪いように引きずるのではなくて、区切りをつけていって、前に進んでいけたらと思う」

<見過ごされてきた 震災で心に傷を負った人々>

20年にわたって刻まれ続けてきた名前。震災後を生きる中で、一人一人が葛藤を抱えていました。

「店も半壊で、復旧もままならない状態でした。それ以後、心身に不調をきたし、精神科に通院しながら細々と店を営業していたが、急死しました。銘板を掲示してやることができれば、神戸を愛した妹の魂も安らかになるのではないかと思いました」(遺族のアンケートより)

あのとき、31万を超える人々が避難所での暮らしを余儀なくされるなど、多くの人が心身に深い痛手を負いました。

「最愛の妻を失い、失意のどん底だったと思います。母の最期をみとれず、大切な家を失い、生きていく意欲をなくした父の死は、普通の死でしょうか。あの震災がなければ、父は死ぬことはなかったと思います」(遺族のアンケートより)

堀内さん「震災みたいなことがなければ、元気だったはずだからという思いがあるご家族たち。プレートをはった途端に、皆さん語り出すんです。自分が今まで心の中にしまっていたものが、ほっとするんでしょうね。震災の記憶のスイッチが、あそこに来ることによって入る」

<名前を刻むことで 亡き父と向き合い始めた姉妹>

モニュメントに名前を刻むことで、大切な人の死と向き合い始める遺族も少なくありません。

11年前、父親の名前を刻んだ井村清美さんと久美さん姉妹です。震災から7か月後、父親が自ら命を絶ちました。

井村久美さん(2013年当時)「あまりに突然やったから、本当に気持ちの整理がつかなくて。私らがおったのにとか、私たちが何かできとったん違うかなって。私たちが頑張らないと、向き合わないといけないですよね」

久美さんは名前を刻んでから、父親がなぜ自ら死を選んだのか、考え続けてきました。

靴職人だった父・喜一さんは、倒壊した自宅から救い出され一命をとりとめましたが、妻の道代さんを亡くしました。久美さんから見た喜一さんは、病気がちな母親のことをいつも気遣う優しい父親でした。

番組スタッフ「お父さんのことをお話されるとき、すごくうれしそう」

久美さん「うれしそうですか。めっちゃ好きですもん。だからもっと話したかったかな・・・」

<父はなぜ命を絶ったのか 抱き続けてきた思い>

震災の6年前に撮影された喜一さんと道代さんです。子育てを終え、夫婦二人、孫をかわいがる穏やかな日々を過ごしていました。

あの日、隣の部屋で寝ていた道代さんを助けに行くさなかに、喜一さんは生き埋めになりました。助け出されたとき、ポケットに残されていたのは、妻・道代さんの母親にあてた走り書きでした。

「お母さんごめんなさい。みちよも、わたしも、がれきにうずまって」

井村清美さん「(母を)守れなかった。お父さんのせいではないけれども、守れなかったことに対しての罪悪感というか、自分を責めて。生き残ってしまったことも、きっと」

喜一さんは、家も仕事も失い、久美さんが身を寄せていた友人の家で過ごすことになりました。

震災から5か月後の喜一さんの誕生日に撮影した写真です。この日のことを、喜一さんはこう記していました。

「還暦の祝いめでたき生まれ日よ 生きたくもあり生きたくもなし」(喜一さんの日記より)

この2か月後、引っ越しをして新たな生活を始めようとしていたやさき、喜一さんは自ら死を選びました。

久美さん「何をするにも、何かいつも引っかかる。だから知り合いの方とかが亡くなった話でも『大往生やってん』とか聞くと、「めっちゃうらやましい」って。そのときにパッっとフラッシュバックして、『うちのお父さん、思い残すことだらけやん』と、ずっと思っていたから」

<父の気持ちを巡る旅>

井村清美さんと久美さん姉妹には、もう一度訪れたい場所がありました。

震災のあと、喜一さんが家族を誘って向かった、ふるさとの小豆島です。当時の喜一さんの言葉やふるまい、ひとつひとつを思い出したいと考えていたのです。

久美さん「全員で乗ったやん。お父さんと全員で乗って、写真を撮った。(父は)寂しそうにするそぶりというのがなかったんですよね」

久美さん「私たちが逆に気を遣い過ぎていたかもしれないですね。『お父さんも大変やし、お父さんが一番今つらいから、心配かけたらあかん、迷惑かけたらあかん』というのを、すごく考えてしまっていたかもしれない。今、私も頼ってくれる子たちがいるから、『元気でおらなあかん』『役に立てることをしてあげたい』とすごく思う。でも頼ってくれへんかったら、きっと・・・」

清美さん「居場所がないもんな」

久美さん「うん。頼ってあげたらよかった」

<父の気持ちに触れられた瞬間>

ふるさとの海を一望できる高台。家族と訪れたとき、喜一さんが、妻・道代さんと一緒に見たいと願っていた風景です。

久美さん「『お父さん、帰ってきたで』みたいな。めっちゃ穏やか」

この景色を眺めているうちに、喜一さんが抱いていた思いに触れる瞬間が訪れました。

清美さん「小豆島は(兄弟に)会いに来たやん」

久美さん「ほんまやね。みんなに会いに来ている」

清美さん「全部会って、(母の)初盆で完了したんや。大阪のおっちゃんらも来たから。みんなに会ったから、逝ったんやわ」

久美さん「目に焼き付けとったんかもしれへんね。どんな思いで見るんやろうな。そういうのって。お母さんのおれへん人生なんて、お父さんの人生ではなかったんや」

清美さん「すごいな」

<母を守って生きた証>

喜一さんのふるさとを訪ねたあと、二人はモニュメントに刻まれた父の名前を見に行きました。

井村喜一。

名前を刻み、父の最期を少しずつ受け入れられるようになった11年でした。

久美さん「ここから始まっている感じはあるので。(銘板を)やっていなかったら、まだまだ今以上にくよくよしていて、周りにも言っていないし、自分たちのことを責め続けて、きっとね」

清美さん「会いたいよな。会って見せたいよな。今の状態を。二人に」

久美さん「『夢でもいいから出てきてよ』と思っているけれど、出てきてくれへんから。どれだけお父さんがお母さんのことを守ろうとしていたかは、一番見てきたから。だから、母を守って生きてきた証かな」

<「ありがとう」と「ごめんね」を込めて刻む名前>

末期がんに苦しみながら、優しさを失わなかった父。その最期を改めて知った、田中しげみさんです。

父・猛さんの死から29年。

震災が起きた1月17日からちょうど1か月前、ある場所へ向かっていました。モニュメントに新たに銘板を加える式典です。田中さんは、猛さんの名前を刻むことに決めました。

しげみさん「一区切りついたかな。たったの一区切りですけれど、ここまでたどりつけたなと思う。気持ちが引き締まる日になると思う」

“震災による死”とは認められなかった多くの命。モニュメントに刻まれた人の名前は503人。今回、新たに9人が加わりました。

しげみさん「『ありがとう』と『ごめんね』。亡くなってからでも、親孝行はできると思うんですけれども、まだまだ足りなくてごめんねですね。最期に弱みを見せず、頑張ってくれてありがとう。そういう姿を見せてくれてありがとう。父に恥じないように、生きたいです」

阪神・淡路大震災から29年。その後も日本列島を襲う地震で、多くの命が奪われてきました。大切な人の死を受け入れるまでに流れる、長い歳月。そこには、私たちが決して忘れてはならないひとつひとつの命がありました。