ウクライナへの軍事侵攻をめぐり、国際社会から強い批判を受けているロシア。しかしロシア国内では、プーチン大統領の支持率が8割を超えています。その大きな要因の一つが、『プロパガンダ情報』です。
NHKは今回、ウクライナへの軍事侵攻開始後にロシア全土の公立学校に配布されたという教育マニュアルを独自に入手。子どもたちに“ロシアが置かれた現状”を説明するための30枚ほどのスライドで、「歴史の真実」と題されています。
子どもまでも対象にしたプーチン政権のプロパガンダ政策の実態を、読み解きます。
(「クローズアップ現代」取材班 矢野 祐佳)
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教師のための教育マニュアル「歴史の真実」
(ロシア教育省が作成した教育マニュアル ホームルーム「歴史の真実」)
私たちが入手したのは10歳~18歳向けの教育マニュアル「歴史の真実」。ウクライナへの軍事侵攻後、ロシア教育省が全国の公立学校に配布したとされています。およそ30ページ、全5章にわたってプーチン政権が考える“歴史の真実”が記されています。
長年ロシア・旧ソビエトの教育政策を研究している澤野由紀子教授(聖心女子大学)に、このマニュアルを読み解いてもらいました。このマニュアルは、ホームルームで、教師が子どもたちに話をする際の資料として使われることを想定したものだといいます。
第1章「私達は親戚どうしの民族なの?」では、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの民族衣装の写真が並べて紹介され、お互いの文化が似ていることを示唆しています。
(左からロシア・ウクライナ・ベラルーシの民族衣装)
澤野教授によると、多民族国家のロシアでは、それぞれの文化の独自性を尊重する教育が行われています。このスライドのように、特定の民族の共通性が強調されることは “異例”だといいます。
(聖心女子大学 澤野由紀子教授)
澤野教授:
「300以上ともいわれる民族が暮らすロシア連邦では、少数民族も、もちろんロシア連邦内のウクライナ人も、学校で母語を文法から学べる制度を整えています。プーチン大統領も、多様な民族のあり方を尊重する教育政策を行ってきました。
そこで、スラブの3民族(ロシア・ウクライナ・ベラルーシ)だけを「似ている」と言って教えるのは、今までありえないことでした。“今は分割した国だけど、元々はこんなに似ている。分割したのが間違いだった”――そういうことを伝えようとしているのかなと思います」
マニュアルを読み進めると、2014年のクリミア併合から今に至るまでの、国際社会のロシアに対する姿勢についての項目が続きました。
第3章「ウクライナとロシアは、どのようにして今日のような状態に至ったのか?」
このスライドでは、クリミア併合後にロシアが科せられている制裁が一覧にまとめられています。
左のオリンピックでの写真の下には「国旗や国歌の不使用」と書かれています。クリミア併合に関係のない処分も一緒くたにして記されており、ロシアが一方的に諸外国に追い込まれている印象を持たせようとしていると、澤野教授は指摘します。
澤野教授:
「どのような制裁があるのかという項目で、例えば国家ぐるみのドーピングを理由にオリンピックで国旗や国歌が使えなくなったのを、クリミア併合に対する制裁かのようにスライドを作成しています。“ロシアがいかに国際社会から、理不尽な制裁を受けているか”ということですよね。子どもにとって分かりやすいのは、『北京オリンピックの時も、こうだったでしょう』といった話ですから」
第4章は「いまロシアは何をしているか、いま西側諸国は何をしているか」
この項目では、
スポーツ大会への参加禁止もしくは制限
20か国以上が領空内でのロシアの航空機の飛行を禁止
経済的・政治的制裁を科す国
など、ロシアが受けている制約と、それを科す国を並べて、諸外国の反ロシア感情を強調しています。
ウクライナの情報戦に対抗?
マニュアルには、インターネット上のフェイクニュースの見分け方とする章もあります。
第5章「大量の情報の中で真実はどこにあるか?」では、世界で広く使われるSNSがどこの国で誕生したかが書かれています。
(SNSとそれが開発された国を掲載したスライド)
このスライドでは、「“ロシアの占領軍”がウクライナ東部のドンバス地域の幼稚園を砲撃した」とするウクライナ政府機関の公式フェイスブックの投稿や、それを「ロシアがウクライナのせいにした」というユーチューブ上の動画などを載せています。
澤野教授によると、フェイスブックやユーチューブなど欧米で開発されたSNSには、ロシアをおとしめる内容がまん延しているとして、子どもに自分で“フェイク”と真実を見分けるよう求めているといいます。
ロシアとウクライナが発信する情報の違いについて、具体的な例を説明したスライドもありました。
(左の記事:ウクライナメディア「ズミイヌイ島:ウクライナ兵の大胆不敵な最後の言葉」 右の記事:ギリシャメディア「ズミイヌイ島の国境警備兵:降参もしくは死亡」)
スライドの左側には、ロシアがウクライナに侵攻を始めた2月24日、「黒海のズミイヌイ島(スネーク島)で警備に当たるウクライナ兵全員が戦死し、ゼレンスキー大統領が兵士を表彰した」と伝えるウクライナメディアの記事の見出しなどが掲載されています。
一方、右の画像は「ズミイヌイ島の国境警備兵:降参もしくは死亡」と題した、ウクライナ側が出した情報の信ぴょう性を検証するギリシャメディアの記事です。
記事ではウクライナ側の報道と、「国境警備兵は全員捕虜としてロシアに移送された」とするロシア側の発表を併記しています。
そのうえで「生きているのに“死後の表彰”を受けた」と話すウクライナ兵の捕虜の証言動画を載せて、「兵士が全員戦死した」とするウクライナ側の報道を否定しています。
さらに次のスライドには、「ズミイヌイ島のウクライナ兵82人が投降し、(クリミアの)セバストポリに移送された」とするロシア国営テレビのニュースを載せています。
実際に2月28日、ウクライナ軍はズミイヌイ島の国境警備兵が実は「全員生存」していると発表しました。この例から、「ウクライナの出す情報は“フェイク”で、ロシアのものが正しい」ことを強調しているとみられます。
澤野教授は、ウクライナの情報戦に対抗する意図があるのではないかと分析しています。
澤野教授:
“ウクライナ政府は市民にあらゆるSNSから発信しろ、と言っています。ロシアの子どもたちがウクライナ側からの投稿を信じないように、欧米の作ったSNSにはうそがあふれていると教えたいわけです”
「教育」から見えるプーチン大統領の思惑
「プーチン政権の“愛国教育”は、ウクライナ侵攻以前から始まっていた」ー
そう語るのは、ロシアの独立系の世論調査機関「レバダセンター」研究部長のレフ・グドゥコフさんです。
政権に批判的な『レバダセンター』は、政府から「外国のスパイ」を意味する「外国の代理人」に指定されるなど圧力を受けていますが、独自の世論調査や分析を続けています。
独立系の世論調査機関「レバダセンター」研究部長 レフ・グドゥコフさん
グドゥコフさん:
「最も重要なのは大衆教育を含めた普遍的な教育制度だと思います。プーチン大統領のロシアは教育によって、EU・アメリカ・NATOとの対立に重きを置く価値観を強化しようとしています。社会のあらゆることをコントロールしようとしているのです」
ロシアでは近年、統一された教育基準が導入され、イデオロギーに沿って歴史を解釈する、教科書も作られました。グドゥコフさんは、学校現場は国家に完全にコントロールされていると指摘しています。
グドゥコフさん:
「特にここ数年は、非常に厳しい国家イデオロギー的な教育がよみがえりました。歴史のすり替えに対抗する一連のキャンペーンが行われたり、すべてを国家イデオロギーに沿って解釈する共通の歴史教科書が作られたりしました。
それに賛同しない教師たちもいます。人権擁護団体には、政府の方針に従わなかった教師たちが解雇されたという情報が非常にたくさん入ってきています。」
独立系の世論調査機関「レバダセンター」世論調査結果
3月下旬、「レバダセンター」が行った世論調査で、プーチン大統領の支持率が8割を上回りました。その背景に、愛国心を育てる学校教育の影響があるとグドゥコフさんは見ています。
「事実」を伝えようと動きだしたジャーナリストたち
動画「生徒たちはいかにして戦争に備えさせられたか」
プーチン政権の教育政策に危機感を抱き、抵抗しようとする人たちもいます。
ロシアの反体制派ジャーナリスト集団「プロジェクトメディア」は3月18日、ロシア教育省が認可した歴史教科書の記述を検証し、教育プロパガンダを告発する動画を公開しました。
タイトルは「生徒たちはいかにして戦争に備えさせられたか」。動画は、2014年のロシアによるクリミアの一方的な併合以降、教科書でクリミアに関する記述が増えたことなどを解説し、子どもに内容をうのみにしないよう訴えています。
“10年前の教科書では、1954年に当時の指導者フルシチョフがクリミアをウクライナに譲渡したことについて、一行も触れていない。しかし、今やクリミアに2ページも割いている
(略)
子どもたちはとっくに説明されている。「ウクライナは民族主義者に乗っ取られ、ロシアは安定している。プーチンは偉大だ」と。子どもたちがテレビ画面の前にいる多くの大人と違って、プロパガンダと現実を区別する方法を知っていることを望みます”
〔動画の内容を一部引用〕
ユリア・バラホノワさん
動画を作成したジャーナリストの1人、ユリア・バラホノワさんに話を聞きました。
バラホノワさんは知人の教師から「学校でおかしな課題が出されていて、子どもたちから不満が出ている」という話を聞き、5冊の歴史教科書を検証しました。すると、2014年以降のロシアとウクライナの関係について、プーチン政権に都合のいい『物語』が強調されていることに気づいたといいます。
バラホノワさん:
「“クリミアの発展にウクライナ政府は力を入れてこなかったが、プーチンがやってきて、住民投票でロシアに「再統合」してから暮らし向きが良くなった。ドネツク人民共和国、ルハンシク人民共和国にウクライナ政府が流血の戦争を仕掛け、ロシアが平和のためにやってきた”――こうした物語は至るところで語られています」
また、バラホノワさんは、プーチン大統領をたたえる記述が多いことを指摘します。ある教科書では、称賛の言葉が18も並んでいたといいます。
バラホノワさん:
「あからさまなプーチン礼賛は衝撃的です。“プーチンは魅力的でカリスマ的だ”とか。そのようなことを教科書に書くのは変だと思います。現行の統治者の活動をどう評価すべきかは、議論の余地のある問題です」
バラホノワさんはいま、ロシア国外で活動を続けています。ロシア国内では、仲間が家宅捜索をされ、所属していた団体に政府から圧力がかかるようになったためです。身の危険を感じながらも、今起きていることを伝える必要があると考えています。
バラホノワさん:
「プロパガンダは間違いなく影響していると思います。ただ、それでも私は、今の子どもたちが以前よりはるかに自由な環境にあり、インターネットでさまざまな情報を得られるということに期待しています。そして全ては親次第でもあります。もし家庭内で、特別軍事作戦を支持すると言われていれば、子どもはその考えを取り込むでしょう。もちろん、授業や特別クラスなど学校でのプロパガンダは子どもたちに影響を与えますが、100%機能することはないと思います」
今後、カギを握るのは子どもたちがいかにプロパガンダ以外の情報に触れるかにあると、バラホノワさんは言います。そのためにも、独自の調査報道やニュースを発信し続ける決意を固めています。
今回の取材を通して、写真や図を多く用いた教育マニュアルが作られたり、複数の教科書に同様の「物語」が見られたりと、教育現場でのプロパガンダ政策の内容の厚さに驚きました。一方でそうした政策に危機感を抱き、独自の情報発信を続けるバラホノワさんのような人もいます。プロパガンダ的な教育政策と、それに対抗する人々の闘いが続きます。
関連番組
2022年4月26日放送
クローズアップ現代「“プーチンの戦争”の影で 揺れるロシアの人々」