沖縄が本土に復帰してからちょうど50年。若い世代の中には、戦後27年間、沖縄がアメリカに統治されていたことを知らない人もいると思います。
当時の沖縄はどのような様子だったのか?
NHKはバーチャル空間に50年前の沖縄を再現しました。この記事では当時の沖縄の玄関口だった『那覇港』について紹介します。
目次
・沖縄の本土復帰とは?
・沖縄の玄関口 那覇港
・復帰直前 日本から持ち込まれたものは?
沖縄の本土復帰とは?
太平洋戦争でアメリカに占領された沖縄は、1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約で日本が主権を回復しても、引き続きアメリカの統治下に置かれました。
佐藤栄作総理大臣(当時)は1965年、戦後の日本の首相として初めて沖縄を訪問。
1971年6月17日、日米両政府が沖縄返還協定に調印し、沖縄は本土に復帰することになりました。
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沖縄の玄関口 那覇港
沖縄の玄関口、那覇港。当時、沖縄と東京を結ぶ直行のフェリーがあり、船での移動も一般的でした。沖縄と日本の他の地域を行き来する時にはパスポートが必要で、港にはパスポートを確認するカウンターもありました。
(左:身分証明書 本土の人用(日本政府発行) 右:渡航証明書 沖縄の人用(米国民政府発行))
いまの沖縄は国内屈指のリゾート地ですが、復帰前の観光は、沖縄戦の戦没者の慰霊が中心でした。
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持ち込みが許されなかった“甲子園の土”
1958年、首里高校が、沖縄代表として戦後初めて夏の全国高校野球大会に出場しました。
しかし、球児たちが持ち帰った甲子園の土は、那覇港の検疫で捨てられました。球児たちの思い出すら持ち帰れなかったことで、多くの沖縄の人が復帰への思いを強くしたと言われています。
その後、心を痛めた本土の人が「土がいけないのならせめて・・・」と甲子園の小石を拾い集め、沖縄へ送りました。
(首里高校にある甲子園の小石がはめられた「友愛の碑(下)と記念碑(上)」)
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日の丸も揚げられず・・・
アメリカ統治下の沖縄の船は、日の丸も星条旗も揚げることが認められていませんでした。そのため、1962年4月、インドネシア沖合を航行していた沖縄の船が、国籍不明船と間違えられ、インドネシア軍から銃撃される事件が起き、1人が亡くなりました。
沖縄では船に日の丸の掲揚を求める世論が高まり、1967年「琉球」と書かれた旗と一緒に並べることを条件に、日の丸の掲揚が認められました。
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復帰直前 日本から持ち込まれたものは?
(当時のトラックの写真)
1972年5月2日、那覇軍港に海上自衛隊の輸送艦2隻が到着しました。沖縄の本土復帰に伴い、必要になった「日本円」を運搬するためでした。日本円を運んだコンテナの数は161個(およそ300トン分)、総額540億円にのぼりました。
沖縄の警察やアメリカ軍が日本円を厳重に警備するなか、日銀那覇支店や離島にも運ばれました。
ドルから円への通貨の交換は、復帰の日から6日間に渡って沖縄県内190か所の交換所で行われました。
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