大衆の娯楽がオペレッタや映画、スポーツに移ろうとする中、プッチーニが「蝶々夫人」の次に選んだのが、アメリカ西部が舞台の「西部の娘」。1910年12月にニューヨークのメトロポリタンオペラで初演され大ヒット、名声は世界的にひろがります。美文的なものより、通俗的な作品を好んで取り上げ、歌で奇跡を演出します。「トゥーランドット」にもつながる「西部の娘」の聴きどころを音楽評論家の堀内修さんが解説します。
プッチーニがヴェルディの後を継ぎ、オペラの王座に就くことになる20世紀初頭、オペラは「芸術と娯楽の王」として君臨してきた立場から変わりつつありました。そうした時代の中、1904年に作ったのが「蝶々夫人」です。舞台は日本の長崎、どのようにしてこの作品が作られたのか、第2幕のアリア「ある晴れた日に」の持つ意味とは何か。プッチーニの偉業に触れながら音楽評論家の堀内修さんが紹介します。
プッチーニの代表作の一つ「トスカ」は今でも人気のある作品ですが、1900年の「トスカ」初演の際は、オペラの正統から大きく外れるなどと評論家から酷評されたといいます。オペラが大衆文化・芸術の中心から離れていく時代状況のなか、ドラマを動かす歌を作る名人プッチーニが「トスカ」に込めた先駆的な役割とは何なのか。70年前に収録されたマリア・カラスの歌声とともに音楽評論家の堀内修さんが詳しく解説します。
プッチーニは1858年、イタリア・トスカーナの音楽家の家系に生まれます。ヴェルディの「アイーダ」を聞きたいと遠いピサまで歩いた逸話もあります。その後音楽出版社のリコルディに見いだされ、オペラの伝統的な原理=歌でドラマを動かす音楽家として「マノン・レスコー」で成功をおさめます。今回は「おお、私は一番きれいでしょう」などの曲とともに若き日のプッチーニからヴェルディの後継者へと続く道のりをひも解きます。
今回は、心を動かし、ひとを動かしてしまうプッチーニの歌の魅力について音楽評論家・堀内修さんが紹介します。最初に取り上げるのが「ジャンニ・スキッキ」という喜劇からラウレッタの歌う「私のお父さん」、この歌をきっかけにドラマは中心部に進んでいきます。そして、プッチーニの名をとどろかせた1893年初演の「マノン・レスコー」、幾分粗削りだがプッチーニの魅力がむき出しであふれかえり、現在も大人気のオペラです。
今回から13回、今なお愛されるイタリアの作曲家・プッチーニのオペラの魅力や聞き所などを音楽評論家・堀内修さんが紹介します。「ラ・ボエーム」や「蝶々夫人」、「トゥーランドット」で知られるプッチーニは今年、没後100年を迎えます。第1回でフォーカスするのは「ラ・ボエーム」の冒頭15分、恋に落ちる2人の出会いの場面。観衆は2人の短い歌に酔いしれてしまうというプッチーニの芸術的な手法についてお話します。
西原 稔さん(桐朋学園大学名誉教授)
第13回「病を得て~」1882~83年にかけて作曲された「弦楽四重奏曲第2番」は、晩年のスメタナを襲った神経の病気が、ますます進行していた時期でもありました。翌84年に亡くなるスメタナ最晩年の作品で、とても厳しく、激しい感情を吐露します。祖国とは何か、チェコの音楽、そしてチェコの未来はどうあるべきかを深く考え創作につなげたスメタナの生涯を桐朋学園大学名誉教授・西原稔さんが解説します。
第12回「後期のピアノ作品」今回は、講師の桐朋学園大学名誉教授・西原稔さんがスメタナのピアノ作品の頂点・集大成と評価する「夢 6つの性格的小品」を取り上げます。スメタナはシューマンやリスト、ショパンなどに影響を受け、その表現を取り入れた時期もありますが、それらの作曲家たちの影響を脱した独自の世界に行き着いたのが「夢」です。「夢」は6曲で編成され、スメタナのピアノに対する愛を感じさせる作品集です。
第11回「スメタナの声楽作品」スメタナの創作において声楽は特別なものでした。公用語がドイツ語のためチェコ語を話せなかった彼は、国民主義に目覚めチェコ語を学び、オペラを作曲します。そして、合唱作品や歌曲も創作します。今回は、男声合唱曲「チェコの歌」や女声合唱曲「私の星」、独唱歌曲「夜の歌」など、スメタナの祖国への強い想いが表現された作品を桐朋学園大学名誉教授・西原稔さんが紹介します。
第10回「わが祖国③」今回は、第5曲「ターボル」と第6曲「ブラニーク」を取り上げます。15世紀に宗教改革を唱え火刑に処されたチェコのヤン・フスは民族自立の象徴とされ、この2曲ともフス派の「汝らは神の戦士たれ」に基づき、ターボルという街、ブラニーク山麓ともフス派戦士にちなむ場所です。ホルンの響きを軸にした曲の魅力やスメタナの主張・思想など、桐朋学園大学名誉教授・西原稔さんが詳しく紹介します。