102歳、ただひとり生き延びて ~元兵士が、いま語り継ぎたいこと

NHKアナウンサー 倉沢宏希
2023年9月8日 午後8:18 公開

お話を伺ったのは、太平洋戦争でビルマ(現・ミャンマー)での戦争を経験した

山本榮策(やまもと・えいさく)さん102歳です。

大正9年(1920年)、滋賀県大津市に生まれた山本さん。

21歳の大学3年生の時に敦賀歩兵第119連隊に入隊。

中国雲南省やビルマ・シッタンなどでの作戦に参加したのち、現地で終戦を迎えました。

現在は滋賀県草津市で、20年にわたり小学生に戦争体験を伝え続けています。

山本さんにとって強く印象に残っているのは、命からがら生き延びた体験、

悲惨な死を遂げた仲間の姿や、それを救えずに抱いた罪悪感…。

生き延びた自分の役割は、残酷な戦地の実情を知ってもらうことだという

山本さんに聞きました。

【 78年前の出来事も鮮明に 】

ご自宅に伺ってまず目に入ったのは、部屋にたくさん飾られていた千羽鶴。

これまで山本さんが戦争体験を語ってきた小学校の子どもたちなどから、もらったものだということです。

千羽鶴

山本さん「子どもたちが毎年作ってくれるんです。お話した後は分かってくれたかな?という気持ちがありますけれども、分かってもらえたと思わないとしょうがないからね、満足して帰ってきます。」

終戦からことしで78年。

102歳の山本さんにとって、今ビルマの戦場を振り返るとどんなものなのか、聞いてみると…。

「まあ、私にとって戦争というのは、3年か4年くらいの期間でした。人生の中で、そういう苦労というか、嫌なことというかね…、そういう体験をしたというのは、どんな苦しみがあっても『あの苦しみのことを思ったら、我慢できる』と。そういう気持ちがあります。」

【部隊が受けた爆撃 奪われた多くの命】

その言葉の通り、山本さんは戦場で多くの苦しみを味わうことになります。

学徒兵として入隊した山本さんが、ビルマに入ったのは昭和19年(1944年)5月。

太平洋戦争で最も無謀だと言われた「インパール作戦」が中止される2か月前のことでした。

敗色が濃くなっていくなかで、山本さんたちは戦地へ向かいました。

山本さん「編成時には、部隊の中では指揮班という、中隊のなかの准尉をはじめ中隊長のもとにいる役割でしたけれども、戦闘にあたってめちゃめちゃになって、指揮班もなにもなくなっちゃってね。それで行軍して、次の戦場に行くわけです。ラシオっていうとこが、鉄道の終点でした。そこで降りてから行軍するわけです。基本的には歩いて行ったんですね、その間にはやっぱり敵襲を受けたりしました。制空権が全然取れないんで、お昼は行動ができない。晩しか動かなかったですね。ですから目的地に行くのでも時間がかかるわけです」。

ビルマと中国の国境付近で、

山本さんたちの部隊は敵の爆撃を受けました。

山本さん「大雨に降られて、びしょ濡れになって、もう前へ進めないということで、今日はここで宿営するという命令が出たんです。疲れていたので『これは幸いや』って言って、皆が、シラミがついた着ているものを乾かすのに火を焚いたわけです。その時に初めて空襲にあうことになるわけですからね、全然飛行機が来ると上層部でも思わなかったんだと思います。火を焚くと、そこを敵の偵察機が通って、日本の軍隊がここにいるなっていうのを見て帰ったわけです。その時に『敵やー!火を消せ―!』と言うて消しはしましたけれども、もう見られた後でした。その後そこで休んだわけです。朝になって私は早く目が覚めて、ご飯を食べて、谷に飯ごうを洗いに行ったあと、顔を洗っていました。その時に戦闘機が4機きて、バリバリドンドンやって、爆弾を落としたり、機関砲で銃撃したりしました。長く思ったんでしょうけど、2時間くらいいた感覚でした。 私はその時には、いま谷から上がったら危険やと思って飛行機が帰るまで、その谷間に潜んでました。爆撃が終わってから上がってみたら、それこそ血の地獄ですわ。もうひどいもんでした。 血の海、血の地獄いいますかね。こっちの魂も抜けてしまうくらい。首がちぎれたりね、手がちぎれたりね、もう色んな人がいますわ。もう胸から爆弾の破片が刺さって死んでいる人やらね、まあ色々いるわけですね。負傷した人でまだ元気な人は『痛い痛い』ってことを訴える声が、あちこちで聞こえますね。」

この爆撃による死者は16名、負傷者は11名にのぼったといいます。

山本さん「高井という、兵長だったかな。その人は私をいつもいたわってくれた人なんです。
首から、頬、頭にかけて、爆弾の破片が突き刺さっているんです。
 ほんで『山本苦しいわ。息できんから、わしを殺してくれ』って言われました。
けれども殺すわけにもいかんしね、どうしたもんかなと思っているうちに亡くなりました。
殺してくれって言われて、そんなに時間ないです。ころっと亡くなっていきましたけど、苦しそうでした。何にもしてやれない、そういう悲しさを感じました。こんないい人が、なんでこんな死に方をするんだろうなって思いましたね。私をいつもいたわってくれる、親切な人でした。重いものを持たないかん時には、『持ってあげるで』と持ってくれたり、あるいは、たばこをなかったらあげるでと言ってくれたり。そういういたわりをしてくれました。
 そういった人が目の前で命を落とすというのは、涙が出るというか、涙も枯れてしまって出ない。もうほんとに、なんでこんな戦争してきたんかな、ってことを思うくらいでしたね。」

【「潰したザクロのようだった」 右足に残る傷】

話の途中で見せてくれた、山本さんの右足。

小指や薬指のあたりが一部変形しています。

ビルマ戦線で負った傷が、今も残っているのです。

8月12日。終戦の3日前、ビルマ・シッタンでの出来事でした。

山本さんの足の指 戦争での傷痕が残る

山本さん「はじめ私たちは、敵は戦車で攻めてくるやろうと思っとったんです。籾を貯蔵する倉を陣地にしていました。稲刈りしたら籾をとりますが、その籾を貯蔵する倉は水に浸かるから腰高に作られていました。そこにぎっしり、籾が詰まっているんですわ。そういう蔵があっちこっちに建っているわけです。そこを陣地にして、多分、戦車で来るやろうと思っていました。
 ところが、雨期になってあたりが水に浸かっているわけですね。すると敵は、飛行機できたんです。飛行機が7機飛んできて、バリバリドンドンやりだしてね。私は仮に飛行機が来ても、倉の籾がぎっしり詰まっているから、弾を止めてくれるだろうと思っていました。しがし、スブスブ、スブスブ、と通り抜けるんです。
 『やられたー!助けてくれー!』て言う声が、他の陣地に聞こえるんです。飛行機の掃射、機関砲でやられたんです。機関砲というのは、あたるとバーンとはじけるんです。それが7機もあちこちで、ドンドンバンバン爆弾を落とし、機関砲を撃っていました。
 ほんで私は機関砲の弾でこれ(右足の傷)をやられました。やられる前にね、それも運命だと思うんだけども、犬が倉庫の柱のそばにうずくまっていたんです。私は、動物というのは危険に対しての勘が鋭いという思いがあったんです。だから犬をのけて、私が柱の陰に隠れました。その時に『キャンキャーン』と言って、犬は即死しました。私が隠れずにそこにいたら、私が即死していたところでした。犬が私の身代わりになってくれたんです。その時に犬のいたところに私の右足が遅れていました。
 (撃たれた直後は)何か痛くないんですよ、すぐにしびれてしまうのか。よく見たら靴のそばに血がいっぱい出ているんです。『あ、ここやられたんやなあ』と思って、すぐ右太ももの付け根に石を挟んできつく止血しました。そして白崎という衛生兵のところへ行ったんです。ハサミで靴を切ってもらって足を見たら、ザクロを潰したような感じで骨が2本出てました。そんな怪我を負いました。」

山本さんは怪我の治療で病院に向かっている途中に、

終戦の知らせを聞いたということです。

【九死に一生を得た龍陵での戦い】

山本さんにとって特に忘れることのできない戦いのひとつを語ってくれました。

本を指さす山本さん

昭和19年6月、
敦賀歩兵第119連隊第1大隊はビルマと国境を接する中国雲南省の龍陵に送られます。

現地の日本軍は中国をはじめ連合国軍との大規模な戦闘に向けて準備を進めていました。

山本さんたちは中心部から数キロ離れた山に援軍として配置されました。

山本さん「最初から龍稜は敵に包囲されていて、私たちはそれを解囲するために補給的に送られた兵力でした。敵に何重にも包囲されていたわけです。味方のほうの面は開いてはいて通行はできるんですけども、もう何重にも敵が包囲しているわけです。敵については『大砲は200門もある』『戦車も100台ある』と言われました。そんな中に、私たちの中隊は何名、何名という形でこま切れに配置されていく、そんな状態でした。人間の補給ですね。
 その時分は、「イ山」とか「三山」とか「一山」とか「六山」とかね、山に名前を付けて陣地にしていました。山の陣地というのは、大きな穴を掘って、50cmもあるような角材を3重くらいに積んで、1メートル50センチぐらい土や草を乗せて、ここが陣地やってことを分からんようにしておいて、それを中心にずっと塹壕を掘るわけです。人が歩けるぐらいな高さにして。ある日、歩哨といって監視に行ったんです。皆が、休憩している時に監視に立って。そしたら、佐々木という軍曹が、出なくてもいいのに出てきて、敵にやられて目の前でばたっと亡くなる事件がありました。
 私は「ニ山」にいたわけですね。低い山でした。よう見えるんです、周りの様子が。だから、敵に攻撃されている時も陣地から見えるわけですね。ちょっと日時は分からんですけど、「三山」もやられ、「六山」もやられ、「イ山」もやられて…『明日は自分の所に来るなあ』と思っていました。
 弾もない。皆が、もっと弾をくれっていうんですけれども、無いって言われるんですよ。隊長が「それでもこんな所でじっとして、やれられたら、それこそ犬死にだということで、明日は玉砕をするつもりで皆で突っ込んで行こうではないか」と、大隊本部へ『そのように決めました。あす玉砕します』という報告をしました。 そしたら、もうあちこちでやられてこっちもやられるに決まってますからね、だからもう『玉砕はしても意味がない』と。だから『撤退せえ』と、そういう命令が出たわけです。撤退するには、機関銃が1台あって、通信機が1台あった陣地で、それを壊して撤退せえという、そういう命令があったんです。そんで隊長から『こういう命令やから本部で会おう』と、撤退命令が出たわけです。」

山本さん、本を指さす

山本さん「それからまた大変ですわ。その時に、わたしは足滑らせて、崖からどーんと落ちたわけです。その時に私は、途中で気絶して、どれだけ気絶しとったか分かりませんが、ふと気づいたら、崖の下にはシダみたいな草があってね、その上に落ちたみたいです。土やったり砂利やったりしたら落ちただけで死んだと思います。30m、40mの高さから落ちたので。上の方で、甲高い声が聞こえるわけです。ほう、これは見つかったらやられるなと思って、ジャングルの中に入ったんです。 だんだんとジャングルが暗くなるんです。
 ジャングルの中の暗さっていうのは気持ち悪い。こんな暗い所で、一晩どうしようと思うぐらいでしたね。何が出てくるかわからない。そんなところで、一晩過ごしました。
 日本の陣地に行こうとするんですけれども。方向が分からないんです。ジャングルの中っていうのは、木が高いですからね、どっちが西やら東やら分からないですね。迷路みたいになって出られなくなったという話もね、聞いたことありますしね。結局私も出られないのかなと思って、また一晩過ごしました。
 翌日、ちょうど3日目にね、飛行機が飛んでいって爆撃した所が日本軍のいる場所やなって思えるようになりました。もう水もないし、食べるものもないし、もうふらふらで力尽きて、倒れとったんです。そこを日本の兵隊が通って、『どこの部隊や』っていうけれども、もう声が出ない。とにかく本部連れてけ、と大隊本部に連れて行ってもらい、手当してもらって病院に送ってもらいました。
 (合流できた時は)とにかく、助かったんやな―っていうことですね。おかげさんで、やっぱり運命が良かったんかなって思いますね。」

__合流したのちに伝えられたのは、同じ陣地から帰ってきたのが山本さんただ1人だった、ということでした。

【戦後、90歳を超えるまで話せなかったこと】

この「二山」からの脱出のことで、

山本さんには、戦後90歳を超えるまで話せずにいたことがあります。

山本さん「吉川というマラリアで寝ているのが、『山本、撤退する時にはわしも連れて行ってくれ』って言われました。私よりも大きい人ですわ。ほんなもん、そんな人背負って本部まで行けるはずがないです。『よしよし』とは言うてましたけども、撤退の命令が出た時に、もう陰で『吉川さんごめんね』と言って、わたしは走ったわけです。もう熱で寝てますからね。おそらくちょっと熱で脳にきかけていましたから。」

その仲間も、戦死してしまったと語る山本さん。長い間、この体験を話すことができませんでした。

山本さん「やっぱり恥ずかしながら、助けることができなかった。こういうことはあまり話したくないな、ということで、長いことその話しなかったですね。…やっぱり、助けえなかったという、そういう負の気持ちが私の心の中にあるためやと思いますね。
 …あるときにぽろっとだして話をした。…その話をしようとした時が、その話をするいい機会やったかもしれんな、と思います。自分の気持ちが、いつまでも隠してる…隠してるっていうわけではないけれども、話さないでいるよりは…。
 まあ自分の、助けえなかった罪っていうのは消えないけれども、まあそれは、状況を見たら助けられないというのは、もうしょうがない、運命やと思うんです。吉川さんもね。…思い出すとやっぱり辛いですね。
 「ニ山」からね、ひとりだけ私が生きて帰ったということにしても、とにかく戦争というのはこんな悲惨な事がある、戦争をしたらだめだということを、世の中に伝えていかないかんという気持ちがあります。」

【記憶を後世に伝えるため、小説を執筆】

山本さんことし2月には山本さんご自身の体験を記した小説を書き上げました。

山本さんが生まれてから戦後復員するところまでを描きました。

救いきれなかったという仲間のことも、この小説に初めて書いたということです。

その理由は。

自費出版した本を手に山本さん

山本さん「やっぱり、あった事実を書いて皆さんに知ってもらおう。これは100冊しか作ってないので、見てくれる人は高が知れています。でも、数は少ないけれども、少しでも知ってもらえたらいいんじゃないかなという思いで書きました。私は生きて帰ったんやから、国のために何かせないかんなという気持ちを持っております。
 とにかく102歳、私は生かされたんやという気持ちです。人は人によって生かされている。自分ひとりでは生きられない。だから自分もその中のひとりとして人を生かしていく、ということに努力をしていかないといけないと思っています。」

パソコンを操作する山本さん

102歳の山本さん。

いまは復員後の人生を小説にまとめています。

目標は「今年中には書き上げたい」と語り、

きょうもまたパソコンに向かっています。

【取材を終えて】

私はいま27歳。戦場を経験した方への取材は初めてでした。

思い出すのもきっと辛いできごとを、

山本さんは、

私の目を見ながら、細かく丁寧に言葉にして伝えてくださいました。

ご自身の体験を「伝えたい」という思いが、

体力と闘いながらも

小説を執筆する姿に表れていると感じます。

その言葉と思いを受け取め、その姿をより多くの人に伝えていきたい。。。

そう強く思いました。

(ラジオ深夜便「戦争・平和インタビュー」2023年8月8日放送より)