番組のエッセンスを5分の動画でお届けします
(2023年9月2日の放送内容を基にしています。当時の災害の実情を伝えるため、遺体の画像も一部含まれます)
100年前、この街の大地に亀裂が走り、人々は灼熱(しゃくねつ)の炎に包まれた。
関東大震災である。
1923年9月1日、午前11時58分。マグニチュード7.9の巨大地震が、東京各地を襲った。3日にわたり続く大火災が発生。7割の人が家を失い、10万5000人あまりが命を落とした。
数人のカメラマンが決死の覚悟で撮影した映像(上画像)は、トータルでおよそ5時間。元は、不鮮明なモノクロ映像だった(下画像)。大混乱の中で撮影されたこれらの映像が、いつ・どこで撮られたものなのか、不明なものも多かった。
国立映画アーカイブ「この時代の記録映画は、記録性に対する認識は希薄だった」
関東大震災から100年の節目にあたる今年、私たちは、これらのフィルム映像を8K高精細化。さらにカラー化する試みを行った。すると、看板や住所表示、影や人の表情など、フィルムに潜んでいたディテールを引き出すことができた。それらを手がかりに、研究者の協力のもと、1カットずつ場所と時間を特定していった。さらに、震災の生存者の証言音声、166時間分を入手。100年の時を経てよみがえった映像とあわせて、これまで謎に包まれていた震災の全容を解き明かしていく。帝都東京を壊滅させた関東大震災。前編では、地震発生の9月1日夕方までに何がおこったのか、100年前の巨大災害を追体験する。これは、私たちをいつ襲ってもおかしくない危機の記録である。
<関東大震災前の東京>
上の画像は、1923年7月、関東大震災の2か月前に撮影された映像だ。一機の飛行船が、飛び立とうとしていた。下の画像は、東京を空から捉えた現存する最も古い映像である。商業の中心・日本橋。今も同じ場所に立つ日本橋三越本店が見える。映像を拡大すると“金字塔”と呼ばれていた屋上のタワーが見えた。この展望室は、帝都を一望できる憧れの場所だった。
そのすぐ近くには、日本の街道の起点「日本橋」。路面電車が行き交う(下画像)。
東京随一の歓楽街・浅草。演芸場などが立ち並ぶ東京文化の発信地だった(下画像)。大きく広がる森は浅草寺の境内である。浅草寺の脇に立つのは、“十二階”と呼ばれた「浅草凌雲閣」。高さが52メートルあり、富士山が一望できる日本で最も高い建物だった。
下の画像は、国家の威信をかけて9年前に開業したばかりの東京駅。すでに中央線と山手線も開通し、鉄道は新たな移動手段として定着しつつあった。
当時、“東京”と言えば、皇居を中心とする半径6キロほどの東京市を指した。渋谷や新宿を含む、東京の西部は“郡部”と呼ばれ、人口も少なく田畑や牧場が広がる田園地帯だった。
急速に近代化が進む東京。220万の人口は、なおも増え続けていた。しかし、この映像が撮影された2か月後の1923年9月1日 午前11時58分、東京を最大震度7に相当する揺れが襲った。
<1923年9月1日 午前11時58分>
下の画像は、東京大学に設置されていた地震計が捉えた、そのときの揺れだ。揺れが大きすぎて針が振り切れている。激しい揺れが10分以上にわたって続いた。
地震発生直後の銀座では、れんが造りの病院が崩れ落ちていた(下画像)。当時、耐震構造を備えた建物はほとんどなかった。
新橋では、隣り合う商店が並んでひしゃげていた。揺れによって、1万2000以上の家屋が全壊した。
飯田橋では、旅館が潰れていた。建物の下敷きになって亡くなった人は、2700人以上にのぼった。
各地で地割れも発生する。「落ちたら二度と地上には戻ってこられなくなる」と、人々はおびえた。
清澄庭園での証言「今の清澄庭園、その帰りに(地震に)あったんだよ。塀がこんなに動いてね。あれなんだろうって思ったんだよ。そしたらいきなりひっくり返っちゃったんだよね。おかしいなと思って。足は悪くねえのに、何だろうと思ってみたらね、それが地震だったんだよ」
墨田区立川での証言「突然、ゴーッと響いたんですよね。すごい地響きが。ダーッと揺れましてね、大きく。 そのうちにもうひっくり返っちゃう」
激しい揺れは、帝都随一の歓楽街・浅草も襲った。
浅草での証言「屋根瓦が波打って来るんですよ。そうしているうちに『”十二階”が折れてるぞ』なんて。見ましたらね、”十二階”がなるほど折れて、半分上の方がぶら下がっていました。見ているうちに、煙がずーっとまっすぐに」
12階建てだった凌雲閣は、8階から上が崩れ落ちた。そして、震災は新たな段階へと進む。火災である。悪いことに、地震発生の時間は火を使う昼どきだった。
上の画像は、揺れの数十分後に撮影された映像だ。もはや1階の出口は火に包まれているのか、凌雲閣手前の建物の2階外壁をつたって逃げようとする人が映り込んでいた。凌雲閣の火災は1時間で300メートル近く燃え進み、周囲の街並みを焼いていった。帝都壊滅が始まろうとしていた。
<100年前のモノクロ映像を高精細カラー化>
国立映画アーカイブは、9万本近くの作品を収蔵する国内最大のフィルムアーカイブである。ここに、関東大震災を記録した20本あまりの記録映画が保管されている。しかし、これらのフィルムには記録としての致命的な“欠点”があった。撮影場所と日時を記したキャプションが不十分な上に、複製や編集が繰り返されてきたため、ひとつひとつのカットが、いつ・どこで撮影されたものなのかわからなくなっているのだ。そのため、巨大災害の中で人々が何に直面し、どう動いたのか、十分に解明されてこなかった。
そこで私たちは、フィルムに記録されていながら不鮮明だった情報を引き出すために、8K映像に高精細化。さらにカラー化も加えた。映像のディテールを読み取ることで、カットの撮影場所と日時を特定しようと試みた。
上の画像は、高精細化される前の映像。不鮮明で、ディテールを読み取ることは難しい。下の画像が、高精細化・カラー化された映像。ぼやけていた看板の文字や人物の表情が、浮かび上がった。
高精細カラー化したこれらの映像を、関東大震災の研究者に見てもらった。
東京大学 廣井悠さん(都市防災)「一番驚いたのがリアリティーです。ここまで解像度が高くて、そしてカラー化すると、避難者の表情や状況を、リアリティーを持って受け止めることができる」
国土技術政策総合研究所 岩見達也さん(火災)「炎や煙がここまで細かく見えると、 この建物から煙が出ているとか、ここまでは燃えていないとか、それぞれわかってくる」
京都大学防災研究所の田中傑氏は、長年にわたり、当時の東京の街並みを調べてきた。私たちは田中氏に、各カットの撮影場所と日時の特定を依頼した。
田中氏の分析方法は、例えば、こういうことだ。
記録映画のひとつ「帝都の大震災 大正十二年九月一日」のワンシーンに、「丸の内周辺」として、家財を抱え避難する人々の映像が出てくる(下画像)。
しかし、他の記録映画でも、同じカットが「浅草」や「本所」の映像のように使われていた(下画像)。
京都大学 防災研究所 田中傑さん(都市史)「奥に大きな建物が映っていまして、もしかしたら警視庁かなとピンと来ました」
田中氏は、映像のディテールを手がかりに、撮影場所をピンポイントで特定した。
田中傑さん(都市史)「さっきの映像はこの部分(旧警視庁の建物)を、こちらの方角から見ている。奥からこっちの手前を見ている」
田中傑さん(都市史)「(上の地図のように)この路地の先に、警視庁の南側の端部がある。それを撮っている」
分析によって、この映像は有楽町駅の近くから、北西の皇居方面にカメラを向けて撮影されたものだとわかった。
さらに田中氏は、撮影された時間帯も、映像から割り出した。
田中傑さん(都市史)「足を見ていただくと、影が、こういう向き(上画像・左から右向き)にある。この路地に対してほぼ真横から日がさしているとなると…昼に近い午後」
これまで不明だった各カットの場所と日時が、次々と明らかになっていった。第一級の歴史資料としてよみがえったこれらの映像を使いながら、100年前の巨大災害を再現していく。
<1923年9月1日 午後1時頃〜>
最初の揺れからおよそ1時間後。凌雲閣から出た浅草の火災は、ますます勢いを強めていた(上画像)。その火災を、浅草から西に800メートル離れた下谷周辺から撮影した映像がある(下画像)。人々の表情には、意外なほど危機感はない。浅草の火災はまだ遠くに見えるのか、避難もせず、路上にとどまっている。
東京大学で災害時の人々の避難行動を研究してきた廣井悠教授は、こうした人々の行動に着目した。
廣井悠さん(都市防災)「少し遠巻きに不安そうに見つめていながら、一部笑っている人がいたりして、『すぐに逃げないと』『生きるか死ぬか』そういう状況ではない」
映像には、笑みを浮かべる男性の姿も見られ、確かに危険を感じている様子はない(下画像)。
生存者の証言音声にも、廣井教授の考えを裏付ける声が多く残されている。実は、今回入手した166時間の証言音声は、同じく災害研究者だった廣井教授の父親の脩氏(1946年~2006年)が、生存者から聞き取ったものである。震災から60年以上たったあとに収録された証言だが、皆、まるで昨日のことのように語っている。
火災を見た人の証言「裏の方にガラス工場があって、そこから火が出たわけですよ。だけどまだ離れていましたからね。ここまで(火が)来るには大変なんだし、大して気にも留めていなかったんですよ」
火災を見た人の証言「焼けてね、死ぬなんて夢にも思わないし、そういう軽い気持ちですよね。お寿司屋さんへ寄ってね、お寿司を食べていったの」
なぜ、人々に危機感がないのか。上の映像からその理由がわかると、廣井教授は言う。画面中央に立つ二人の男性は、じっと画面奥の浅草の火災だけを見つめている。
廣井悠さん(都市防災)「あっちもこっちもではなくて一点を見ているので、おそらく一火点しか認識していなかったのではないか。我々は“鳥の目”は持っていませんので、近くにある一火点しか見られない。それを遠巻きにして『やばくなったら逃げよう』とは思っているんでしょうけれど、なかなか同時多発で逃げ場所が失われるといった現象は、少なくともこの時点では想定している人は少ないように見えます」
当時、速報性のあるラジオの放送は、まだ始まっていなかった。情報もなく、人々は「火事は目の前でしか起こっていない」と思い込んでいた。「火事が近づいてきたら、逃げればいい」。そう楽観視していた。
しかしそのとき、南では蔵前、南西では有楽町や皇居周辺、西では九段下。人々の見えないところで、巨大な火災が同時多発で起きていた。
下の画像は、午後1時頃の蔵前周辺。火元は、学校に保管されていた薬品だった。
ほぼ同時刻の有楽町では、印刷工場から上がった炎が広がっていた(下画像)。ここにいた人たちにも、危機感はないように見える。
午後2時前の東京駅前広場(下画像)。画面奥に、巨大な煙が立ちのぼっている。しかし、ここでも人々にあわてる様子はない。中央を歩く着物の女性の表情を拡大すると、カメラに目を止めほほえんでいた。
上画像の奥、皇居方面に見える火災現場を、間近で撮影した映像も残っていた。燃えていたのは、皇居の目の前の「帝室林野管理局」(下画像)。当時、れんがや鉄骨を使った最新の建物でも、大部分は木でできていた。皇居周辺の建物は続々と炎に包まれていく。
午後2時半頃、付近の火災が燃え移り、警視庁が炎上(下画像)。警察機能は失われた。その炎は、隣の帝国劇場にも燃え移った。
懸命の消火活動が続けられていたが、揺れによって水道管が壊れ、ほとんどの消火栓が使えなくなっていた。消火活動の頼みは、池などからくみ上げた水だった。
田中傑さん(都市史)「(上画像・左下の)ホースが、水で動いている感じがします。(ホースの)行く先、柳の木が枝を垂らしたところに柵もあるということで、恐らく(皇居の)お堀から水をとってきているんじゃないか」
同時多発で起こる火災。使えない消火栓。
消火活動は困難を極め、近代都市・東京の防災対策のぜい弱さが露呈していた。
18年前から、この事態を予見していた人物がいた。医学部にあった薬品が倒れ火災が起きていた東京大学が、その人物がいた場所である。後に“地震の神様”と呼ばれる地震学者・今村明恒だ。関東大震災の揺れを記録したあの地震計は、今村自ら開発し、東大に設置したものだった。今村は、関東大震災が起きる18年前から、東京で50年以内に大地震が起きる可能性を指摘していた。そのとき、防災対策が不十分な東京には、火災で甚大な被害が出ると警鐘を鳴らしていた。しかし、その言葉は地震の予言だと受け止められ、多くの市民が東京から逃げ出す騒ぎを引き起こしてしまった。事態は、今村の上司である地震研究の権威・大森房吉が、今村の主張を根拠のない“浮説”と断じたことで収束する。今村は、世間から“ほら吹き”と非難された。
この日、今村の警告どおり、東京中で消防力をはるかに上回る大火災が発生していた。上の画像は、同時多発火災の記録「火災動態地図」だ。火災が、いつ・どの方向へ広がっていったのか、詳細に記されている。今村が中核を担った「震災予防調査会」が残したものである。今村は、この未曽有の震災を研究し尽くすことで、次なる災害を防ごうと決意していた。
今村たちが作った火災動態地図を、CGに落とし込んでみた(上画像)。地震発生と同時に東京各地で発生した火災は134か所。その出火点から延焼が広がっていった。しかし、改めて炎の広がり方を見てみると、不思議なことが見つかる。出火点から離れたところでも、時間を置いて、次々と新たな火災が起こっていた。一体、何が起きていたのか。
<1923年9月1日 午後3時頃〜>
この“謎の火災”の原因が、高精細カラー化した映像から浮かび上がった。都市の防火が専門の水上点睛主任研究員が指摘したのは、宙に舞う大小さまざまな“火の粉”だ。
この日の東京は、台風の影響で強い風が吹いていた。
中央気象台の観測データによると、この日の午後は風速10メートル前後の風が吹いていた。この風に乗って大量の火の粉がまき散らされ、新たな火災が引き起こされたと考えられるという。“飛び火火災”と呼ばれる現象である。関東大震災で起きた飛び火火災は、240か所にのぼったと記録されている。なぜそれほど多くの飛び火火災が起こったのか。その意外な要因も映像が語っていた。
建築研究所 水上点睛さん「瓦がいくらか落ちた状態にあります」
水上氏が注目したのは、瓦が崩れ落ちた屋根だ(上画像)。瓦が落ち、茶色い屋根板があらわになっている様子がわかる。瓦より燃えやすい屋根板がむき出しになり、そこに火の粉が飛んできたのだ。現在とは異なり、当時の東京の家屋の多くがこうした屋根瓦だった。
それにしても、火の粉が屋根に飛んできた程度で、家屋が燃えるものなのか。“飛び火火災”発生のメカニズムを検証した。まず、当時の工法で瓦屋根を再現してみた(上画像)。杉皮でできた屋根板に、接着剤の役割を果たす粘土質の土を筋状に塗り、その上に瓦を隙間なく並べていく。
当時を再現した瓦屋根を揺らして、耐震性を確かめた。すると、振れ幅3.5センチの揺れで、右一列がずれ落ちた(下画像)。
さらに、関東大震災と同程度の揺れ(振れ幅6.0センチ)を加えると、3分の1が崩れ落ち、屋根の下地である杉皮がむき出しになった(下画像)。
この状態の屋根に、火の粉を飛ばす実験を行なった(建築研究所 火災風洞実験棟)。
まず、屋根から数メートル離れた場所に、木造家屋に見立てた木組みを置き、火をつける。そして震災当日に近い風を吹かせた。風を送り続けること、12分。木組みから大小さまざまな火の粉が、屋根に向かって舞い始めた。
土や瓦が残っている部分では、火の粉ははじかれている。しかし、次第に火の粉がとどまる場所が現れ始め、じりじりと杉皮を燃やし始めた(下画像)。厚さ1センチ弱の杉皮はたちまち貫通し、炎が内部に侵入。屋根の裏側に置いたカメラの映像では、穴が徐々に広がり、火の粉が飛び込んでくる様子が確認できた。
内部の温度はどんどん上昇し、そして一定の温度に達した瞬間、燃えていなかった部分に炎が一気に広がった。「フラッシュオーバー」と呼ばれる現象だ。そこから全体を燃やし尽くすまで、5分足らずだった。
下の画像は、1日の午後1時頃、入谷付近で撮影された映像だ。奥の家屋の屋根を見ると、瓦が広い範囲にわたって落ち、屋根板が露出している。
その数十分後とみられる映像では、瓦の落ちた部分だけが激しく燃えていた(下画像)。
“飛び火火災”は、現在でもしばしば発生する。
2016年に起こった新潟県糸魚川市の大規模火災では、1軒のラーメン店が出火。その飛び火によって延焼し、120棟の家屋が全焼した。現在の東京にも、木造家屋が密集する地域が山手線の外周部を中心に数多く残っている。
水上点睛さん「まさに、こういった形で屋根全体あるいは家全体が燃えるようになりますと、上昇気流が発生しまして、今度はそこが火の粉の発生源になるということが言えるかと思います。そのようにして次から次へと火の粉が媒介する形で火災が広がっていった」
吾妻橋付近での証言「浅草方面がものすごく燃えて、でも隅田川の向こうですからね。その火の粉が今度こっちに来ちゃった。やっぱり風が出るんですね」
江東区千田での証言「夕方になりましたらね、もう火の手がずーっとこうなってるんですね。真っ赤に。どなたが言ったのかね、『逃げろー』って言うんです。『もう火がだいぶ近くだ』って。あの声がなかったら、まだうろうろしていますね」
午後4時頃になると、危機感なく火事を眺めていた人たちの様子が一変していた。四方で煙が上がり、火事は目の前で起こっているだけではないことに気がつき始めたのだ。
当時、行政が指定する避難所はなかった。人々は手近な広場や公園になだれこんだ。下の画像は、夕方、上野公園に向かう避難者を撮影した映像だ。上野公園には、最も多い50万人が逃げ込んだ。しかし、そのとき人々がとった“ある行動”が、新たな危機を招くことになる。
<1923年9月1日 午後4時頃〜>
東京大学の廣井教授が、避難者の映像から着目した点がある。避難者が持ち出した膨大な家財道具だ。
廣井悠さん(都市防災)「外国人の方が『なんで日本は布団を火災になったら運ぶんだ?』と驚いている証言があるんです。当時、借家の人が非常に多かったので、家財と命だけは守って逃げる。家財があるせいで人口密度が高まって、移動の障害になって逃げることができなかった、逃げる速度が遅くなったということも考えられます」
浅草周辺で、避難する人々を捉えた映像(下画像)には、大量の布団を担ぎ上げる男性や、ろくに服も着ないまま何枚もの布団を運ぶ子どもも映っている。
文京区千駄木での証言「大八車ってあるでしょ。これにみんな家財道具を積んで逃げる。道路が混雑してね。普通1時間ぐらいで行っていたところも、倍もかかっちゃうわけですよ」
厩(うまや)橋付近での証言「荷物がね、大八車いっぱいでね。通り道なんか、ふさがれちゃってて。その荷物の上をピョンピョンして、逃げていくような人もいましたよ」
墨田区亀沢での証言「当時の巡査、警官がですね、抜刀して『荷物を捨てろ、捨てろ』ってうなっているんだけれど、一向に効果無しでね。パニックですね。時すでに遅しで、ああなってくるとダメですね。言うこと聞きませんね」
持ち出した家財道具に火がついたり、障害物となったりして、避難は遅れていく。その避難の遅れが、次なる悲劇を生んだ。
広場まで到達できなかった人々の多くが目指した場所がある。それは、隅田川にかかる6本の橋。「対岸に渡れば、火も川に阻まれ、追っては来ない」と考えたのだ。下の画像は、午後2時過ぎに厩(うまや)橋を撮影した映像だ。橋のすぐそばまで、巨大な煙が近づいてきている。
このときの隅田川にかかる橋周辺の火災の広がりを見てみると、炎は、橋の両岸いずれでも発生していた(下画像)。「逃げ場は、橋しかない」。炎にせきたてられるように、避難者が両岸から橋に殺到した。
両国橋に向かった人の証言「渡ったんです。橋を。もう(人で)びっしりなんです。どこを歩いているかわからない」
吾妻橋に向かった人の証言「吾妻橋に向かって逃げたんですが、私らが危ないと思って逃げている方向へ向かって、同じくらいの人数がまた雪崩を打ってこっちへ来ているのよ。もう道路がいっぱいよ」
午後4時前に、吾妻橋から東側の岸辺を撮影した映像(上画像)を拡大すると、水際に、炎を背にして大勢の人々が鈴なりになっていた。状況は、対岸も同じだった(下画像)。渡るも地獄、残るも地獄。究極の選択を迫られていた。
しかしその背後にはもう、大量の家財を抱えた黒山の人だかりが迫っていた。6つの橋で、避難者の密度が限界点に達しようとしていた。
永代橋での証言より「私は橋の中頃にいましたが身動きもならぬ始末で、女、子どもはつぶされかけて、悲鳴をあげています。窒息死するのでしょうか。人が片端から倒れてゆくのです」(「関東大震災」/吉村昭)
相生橋での証言より「橋の上に衝突して押しつぶされ、踏み倒され、欄干に押し付けられて、息絶える者もいた。ここで命を落とした人は何人になるかわからないほどだ」(「関東大震災写真帖」/日本聯合通信社)
隅田川付近にいた人の証言「その時分にそこにいてね、川へ飛び込んでいる人をずいぶん見たよ。(橋に)いられないんで、川へ飛び込む。だからずいぶん死んでたよ。通りからずっと死んでるんだもん。大変なもんだ」
廣井悠さん(都市防災)「『群集事故』が発生した可能性もあると思っています。この前(2022年)も韓国の梨泰院で発生したり、日本では2001年の明石の花火大会の歩道橋で発生したりしていますけれど、多くの人が集まっている環境の中で誘導などが十分でない場合、群集事故が起きやすくなる」
震災後の相生橋(上画像)。最後は炎が家財に燃え移り、橋の上の避難者もろとも、焼け落ちた。永代橋や吾妻橋、厩橋にいた人々も、同じ運命をたどった。
上の画像は、震災後に撮影された隅田川の様子である。
この情景を、13才の少年が兄と見ていた。後の世界的映画監督・黒澤明である。その日、目に映った光景を、生涯忘れることはなかった。
黒澤明の手記より「川に漂っている屍体(したい)。橋の上に折り重なっている屍体。ありとあらゆる人間の死にざまを私は見た。特に、赤く染まった隅田川の岸に立ち、打ち寄せる死骸の群を眺めたときは、膝の力が抜けてへなへなと倒れそうになった。生きているのは兄と私の二人だけだった。いや、二人とももう死んで、地獄の入口に立っているのだ。そんな気もした」(「蝦蟇の油 自伝のようなもの」/黒澤明)
溺死した人だけでも、その数は5000人以上にのぼった。しかし、これは関東大震災という巨大災害の始まりに過ぎなかった。
後編では、関東大震災の最大の悲劇を伝える。映像記録・関東大震災。東京は、底なしのカオスへと転がり落ちていく。