戦争を体験した人たちが少なくなる今、お話を聞き記録させていただくべき人は誰か…。そんな話し合いがきっかけで取材を始めたのが、沖縄の戦争孤児でした。
ひとりひとり消息を訪ねて、40人をこえる方々にお会いしました。取材から浮かび上がったのは、想像を超える過酷な歳月でした。これほど深刻な問題が、何の助けもないまま放置されてしまったのはなぜなのか。そうした問いの中から、今回の番組は生まれました。(「置き去りにされた子どもたち~沖縄 戦争孤児の戦後~」2023年6月24日放送)
県民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦。その中で両親を失い孤児となった子どもの正確な人数は、いまも分かっていません。戦後まもない1948年、厚生省が「全国孤児一斉調査」を実施しています。その結果、把握された孤児の総数は123,511人(内訳は「戦災孤児」28,248人、「引揚孤児」11,351人、「一般孤児」81,265人、「棄迷児」2,647人)。しかし、この数字には、日本本土と切り離され米軍統治下に置かれた沖縄の戦争孤児は含まれていませんでした。
琉球政府も、戦争孤児に関する資料をほとんど残していません。1954年に社会局福祉課が「戦災孤児が三千人に達している」と報告していますが、これも沖縄本島のみの数字で、「未報告のものがあって正確な数を挙げることができない」とある通り、極めて限定的な調査でした。
1972年に沖縄が本土復帰した後も、国や県が調査を実施することはありませんでした。メディアも孤児が直面する問題を取り上げることはほとんどなく、社会的な支援の必要が議論されることはなかったのです。
一方、孤児たちの側にも、声をあげにくい状況がありました。育ての親に遠慮したり、子どもに迷惑がかかることを恐れたり、その事情は様々です。こうした個別の事情のほか、沖縄が受けた被害があまりに大きかったことも要因の一つでした。それに気づいたきっかけは、孤児の方々から何度も聞いたこんな言葉でした。
「沖縄では、誰もが家族を失くしています。私がまだ幼い子どもで、両親を亡くしているからといって、『助けて』と声に出すことはできませんでした。」
実際のところ、孤児が抱える問題は、個人の力ではどうしようもない、あまりに複雑なものでした。社会が支援に乗り出す機会を逸し続けた結果、未解決のまま孤児たちは80代を迎えているのです。
米軍が撮影した身元不明の男の子「チャーリー」 画像提供:沖縄県公文書館
沖縄戦まっただ中の1945年5月、アメリカ軍が撮影したフィルムに、男の子が保護される様子が映っています。現在の沖縄市胡屋の路地にたったひとりで座っていた男の子で、推定年齢は2歳。自分の名前が言えなかったため、アメリカ兵によって「チャーリー」と名づけられました。
米軍が収容所内に設置したコザ孤児院で終戦を迎えたのち、子どものいない夫婦に引き取られます。そこで、2つ目の名前を与えられました。数年たったある日、実の叔母だという人が迎えに来ます。フィリピンから戦後引き揚げたというその女性は甥(おい)の顔を知りませんでしたが、霊媒師のお告げをもとにチャーリーこそ戦争でいなくなった甥(おい)に違いないと確信し、引き取りました。こうして、3つ目の名前での生活が始まりました。
月日は流れて1984年。チャーリーのその後を追うテレビ番組の取材を受けた時のことです。放送を見て、本当の「甥(おい)」を知る人から情報が寄せられ、チャーリーは似ても似つかない別人だと告げました。その情報提供をきっかけに、30年以上もの間、他人の戸籍と名前で生きていたことが判明したのです。
その後も、チャーリーが戦争で行方不明になった肉親ではないかという家族が現れましたが、いずれも確証は得られませんでした。
それから、40年近くがたちました。メディアの取材もすでに途絶え、会いに来た「家族候補」の人たちも亡くなりました。気がつけば、チャーリーに残されたのは「一体自分は何者なのか?」という問いだけでした。
「ずっと他人の名前をおっ被せられて生きてきた。戦争に聞いたらいいさ、なぜこんな運命なのか。俺にも分からないよ。」
チャーリーは、自分の本当の名前は「宮城文吉」ではないかという
孤児院からいなくなった妹、今どこに
戦争孤児の方々の取材を進めるうちに、驚いたことがあります。戦場や孤児院で生き別れた幼い妹や弟の消息を今も捜し続けている人の多さです。顔がわかる写真も戦争で焼け、78年前の子どものころの記憶が、互いを捜す手がかりのすべてという人がほとんどでした。
妹が行方不明になった伊波孝眞さん 娘の小百合さん
伊波孝眞さんの1歳の妹・恵ちゃんがいなくなったのは、コザ孤児院で終戦を迎えてから間もなくでした。
それから、8歳から15歳までの7年間を孤児院で過ごした伊波さん。ある日、ラジオから『尋ね人の時間』が流れてくるのを聴いたそうです。戦後まもなく、行方が分からない家族を捜す人たちの声を届け、情報提供を呼びかけたラジオ番組です。
どうすれば、恵ちゃんを捜していることを電波で呼びかけてもらえるのか、子どもだった伊波さんには分かりませんでした。大人になってからも、夢に見て泣きながら飛び起きたり、似た人がいたと聞いては歩き回って道行く人の顔を覗き込んだり、恵ちゃんへの思いは消えませんでした。
86歳になり、「もうすっかりおじいちゃんとおばあちゃんで、会っても兄妹だと分からないはず」と弱気になることが増えた伊波さん。そんな時、いつも「絶対にわかるよ。私も恵ちゃんに会いたいよ」と励ますのが、娘の小百合さんです。沖縄には、カジマヤーという97歳を祝う伝統があります。それまでに恵ちゃんを捜して、祝いの日に兄妹の再会を実現するのが、小百合さんの夢です。
当初はカメラの前で話すことを躊躇(ちゅうちょ)していた伊波さんも、小百合さんの後押しを受けて、今回の取材を受ける決断をしてくださいました。「もしかしたら、テレビを見た人から恵ちゃんに関する情報が寄せられるかもしれないから」という理由を聞いて、これは決して“過去の問題”などではないのだと、思い知らされました。
インターネットのSNSが情報共有のメインツールになっている今日、幅広い年代に届くテレビに大きな期待を寄せてもらったことは、私たちに何ができるかを考える大きな原動力になりました。そして、番組を通じて情報提供を呼びかけることにしたのです。
『尋ね人の時間』― 情報をお寄せください
この場でも、戦後79年目の『尋ね人』を呼びかけさせてください。戦争で行方が分からなくなった妹や弟を、今日まで捜し続けてきた方々がいます。消息に心あたりのある方は、末尾に掲載する宛先に情報をお寄せください。これが最後の呼びかけになるかもしれません。皆さんのご協力をお願いします。
伊波孝眞さんは、妹の恵子さん(当時1歳)を探しています。
8歳で孤児となった伊波孝眞さん 「幼い恵ちゃんの顔は、今もはっきり覚えている」
恵子さんは、那覇市垣花町に生まれました。御物城の目の前の海岸にあった家は、昭和19年10月10日の空襲で全焼。沖縄戦が始まり南へと逃げる道中、米軍の爆撃で母を、銃撃で父を亡くしました。姉・幸子さん(11歳)、兄・孝眞さん(8歳)、姉・文子さん(3歳)と一緒に、アメリカ兵に拘束され、米軍が設置したコザ孤児院に収容されました。孝眞さんが恵子さんを最後に見たのは、体を洗ってもらっている後ろ姿でした。少しして戻ってくると、恵子さんの姿は消えていました。
金城(旧姓・照屋)ハツさんは、妹のミサ子さん(当時3歳)を捜しています。
6歳で孤児になった金城(旧姓・照屋)ハツさん 「妹とお茶をして、何でもない話がしたい」
ミサ子さんは、現在の糸満市賀数に生まれました。父は防衛隊にとられ、母と兄姉と一緒に近所の防空壕に隠れました。そこへ日本兵がやってきて、乳飲み子の弟を連れて行かないと殺す、と銃を突きつけたため、次女が弟を連れて出ていきました。数日後、夜寝ている間に母親、姉・兄の姿もなくなります。壕に残されたミサ子さん、姉・ハツさん(6歳)と祖母は、米兵につかまり、トラックで豊見城市にあった伊良波収容所に連れていかれました。衰弱していたミサ子さんは、「野戦病院に行く」とそのままトラックで連れ去られ、行方が分からなくなりました。
嘉数(旧姓・太田)好子さんは、弟の保喜(やすき)さん(当時5歳)を捜しています。
嘉数(旧姓・太田)好子さん 「苦しかった戦後。『弟は今どうしているだろう』と、いつも心にあった」
保喜さんは、現在の豊見城市金良に生まれました。父は徴兵され、日本軍の看護要員だった母と姉と一緒に本島南部へ避難しました。その道中、糸満市真壁に入ったところで、母が爆撃で倒れた石柱の下敷きとなり亡くなります。摩文仁でアメリカ兵につかまり、姉・好子さん(8歳)は名護市にあった田井等孤児院をへて、宜野座村福山の孤児院にたどり着きますが、その間に、保喜さんの姿は消えていました。好子さんによれば、保喜さんは米軍の火炎放射器で両足に火傷を負いました。その傷あとが今も残っているかもしれません。
消息に心あたりのある方は、こちらまで手紙で情報をお寄せください。
〒150-8001 NHK放送センター 「ETV特集 沖縄戦争孤児」行
※頂いたお手紙は、まず番組担当者が内容を確認させて頂きます。その上で家族を探している方々に担当者が概要を説明、先方が望まれる場合に手紙を転送いたします。
※頂いたお手紙は、返信や転送が出来ない場合もございます。ご了解ください。
(ディレクター 伊東亜由美)
記事の内容は、2023年6月24日放送時点のものです。